23-2.偽、或いは信より生ず


 楓本軍が動く。

 楓流は方針を一転し、攻勢をかけ始めた。二万四千もの大軍が動く姿は圧巻だ。士気も高く、勝利の余韻が

未だ彼らを支配しており、秦何するものぞ、という気概が生まれている。敵を侮るようで危うくもあるが、悪

くはない状態だ。

 これなら兵にある様々な不満も顔を出しにくく、新たな不満を生みにくい。調子の良い時にわざわざ不満を

口にするような者は少ない。今の楓にとってそれだけの事が何よりも有用である。

 軍事もまた政治。この決戦はその事を明示させた戦でもあった。

 楓流が経験してきたこれまでの戦とは違っている。大陸中の国家の思惑が絡み合うというだけではない。様

々な環境が戦う目的にまで大きな影響を及ぼし、勝敗を決めるだけの単純な国と国との勝負とは言えなくなっ

ている。

 兵の不満を和らげる為、そんな事の為に勝利を必要とした事があっただろうか。確かにそういう側面はいつ

もあるとしても、それだけを目的とした戦いがこれまでにあっただろうか。

 そして決戦後の立場を考えて全ての人間が行動しているという事もまた、今までとは大きく違う点である。

誰も目の前の戦を見ていない。その先を、未来だけを見ている。

 誰にとっても初めての戦となった。これは太古の合戦ではなく、現代における戦争とあらゆる意味で近いも

のであったのだ。

 楓本軍の動きを見て、秦本軍もまた動く。

 ただしこちらは動ではなく静、或いは受け身の行動と言えた。先の一戦以来、秦本軍の動きは鈍くなってい

る。陣形の立て直しに時間をかけたのも、それ以上敢えて追う事をしなかったのにも、それが大きく影響して

いるのだろう。

 秦軍はっきりと迎え撃つ構えを見せた。

 それが予定されたものなのか、先の一戦の影響を受けての事なのかは解らないが。秦王に臨機応変に方針を

変えるだけの力量がある事ははっきりした。そう考えれば先の一戦の敗北も予定されていた事、計算の内とい

う道も見えてくる。

 何故軍を二つに分けたのか、あの瞬間まで攻めてこなかったのは何故か。初めから楓軍を合流させるつもり

だったと考えればしっくりその答えに当てはまる。

「やはり王旋将軍の動向が気になる」

 今の楓流にとってその名は喉元にまとわりつく痰(たん)のようなものだ。楓における凱聯(ガイレン)の

ように忌むべき名となっている。

 考えすぎては呑まれるが、秦王の真意を量(はか)るには彼の行動から察する以外に方法が無い。

 楓流にそう思わせる事こそが目的であると考える事もできるが、それだけの為に有能な将を外すとは思えな

かった。先の戦も王旋が陣頭指揮を執っていれば、あのような無様な混乱ぶりを示す事はなかったかもしれな

い。代償としては大き過ぎるものだ。

 それは少し言い過ぎではないか、と思われる方もいるかもしれないが。秦王に大戦の経験が無い事を思えば、

扶夏(フカ、フッカー)王との戦いで大功を挙げた王旋の存在はやはり大きい。実績がある事により人に与え

る安心感はそれ程に大きなものである。

 王旋将軍の不在を楽観的に捉える訳にはいかなかった。

「だが躊躇する訳にもいかぬ」

 ここで立ち止まれば良い流れを自ら断ち切る事になる。兵にも侮られる事になろう。

 いつもの楓流ならじっくりと様子見で行く場面なのだが、どうしても気の焦りを抑える事ができなかった。

軍は生き物である。であるからには時に将兵の思惑とは別の動きを見せる。小勢ならば強引に引っ張る事もで

きるが、大軍では時に将の方が軍の動きに引きずられてしまう。

「出撃だ! 合図を鳴らせ!」

 楓流は全軍に前進を命じた。当初の予定通り、ここで野戦を行い勝敗を着ける。

 そういう流れに、なっていたのだ。



 楓軍の陣容はこうである。

 まず魏繞が率いていた楓中央軍を五千ずつ三分し、中央とその左右に配す。その後ろに表道と邑炬が率いる

二千ずつの部隊がおり、そこに楓流も伝令兵と共に居り、指揮をする。

 元々は表道、邑炬隊を先の戦に続いて最前列に置く考えであったのだが。邑炬隊から先の消耗を考えれば、

まだ戦闘行為をしていない魏繞隊を最前に配するのが妥当である、との進言があった為にこうなっている。

 邑炬隊が下がるとなれば表道隊も同道せざるを得ない。表道はせっかくの一番槍の功を立てる機会を奪われ、

腹を立てていたが。この二隊を同列に扱わなければ新たな不満の種になる事は明白であり、楓流としてはそう

命じるしかなかった。

 幸い、表道は理に聡い。ここで不満を主張すれば作戦に支障を来し、後の処遇において不利益になる事は解

りきっていたから、しぶしぶながら受け容れたようだ。邑炬との反目が強まる事は避けられないが、その点は

楓にとって悪くない話だ。不満を持つ者同士を対立させる事は、楓流に向けられるはずだった不満を分散する

事に繋がる。

 そして二隊の背後には予備兵としての役割を持つ紫雲竜(シウンリュウ)率いる五千の騎馬隊が置かれてい

る。これは要所で用いる予定であるが、先の戦のように美味しい所だけを与えているように見られる訳にはい

かないから、事態が窮しない限りは使わないつもりである。

 それでも先の戦で敵に植え付けた恐怖心を利用すればやりようはある。使い惜しむ気は無かった。

「私もつまらぬ事を気にするようになったものよ」

 老齢と言うに近い歳になってこんな事を考えなければならないとは、あまり良い気持ちはしない。

「南方政策を早まったかもしれぬ」

 騎馬隊偏重に見える政策も全ては楓の勝利の為なのだが、それを理解する者は少なかった。南方軍内では将

官格の人物にさえ疎まれる始末。これでは他の属国、いや同盟国と変わらない。そんな軍隊を持ってこの決戦

に挑まねばならぬとは・・・・。

 楓流も自ら失策を認めざるを得ない。あまりにも壬牙(ジンガ)に任せ過ぎたか。彼が自分に変わらぬ忠誠

を誓ってくれるが故に、自ら民の心を取るという事をなおざりにしてきてしまったようだ。

 壬牙を信じる民ならば、壬牙が信じる楓流をも信じてくれるだろうと高をくくっていたのだ。

 考えてみればこれは最も楓らしからぬ考えである。

 楓を造った、楓の形を創造した楓流自身が最も楓らしからぬ政策を執っていた。そんな事に今の今まで気付

かずにきたとは情けない。

 もう少し兵達と関わるべきであった。集縁でやってきたように、南方の兵と民とも心を一つにするよう努力

すれば良かったのだ。いかに騎馬隊の結成が困難であり、多大な労力と時間が要る仕事だったとはいえ、いく

らでもやりようはあったのだ。それをしなかったのは楓流自身の判断である。

「歳を経れば経るほど、知れば知るほど己が足りなさを知る。人とは何と愚かで、計り知れぬものであろうか」

 彼は自らを悔いていた。

 そしてそれこそが秦王が見出した勝機でもある。

 そう、彼は楓の内情を、特に南方軍の内情を深く知っていたのだ。ある面では楓流よりも。



 自身の迷いを振り切るかのように、楓流は兵を軽快に駆けさせた。

 対する一万九千の秦軍はどっしりと構え、微動だにしない。悠々と楓軍の到着を待っている。

 秦王の態度からは依然として不気味さを拭(ぬぐ)えない。何を仕掛けてくるつもりなのか。王旋はどこに

居るのか。結局何も解らないままだ。その点が楓流の心に少なくない影響を与えている。

 秦軍は広く横陣を敷き、楓軍を待って包囲する構えと見える。それだけを見れば騎馬隊を警戒し、広く視界

を確保しているようにも見えるが、よく解らない。

 王旋将軍の別働隊が存在しているのならば、秦本軍が楓軍を引き付け、その背後を王旋隊が狙うという可能

性もあるが、別働隊を発見したという報告は未だに無い。騎馬隊並の速度を持つ部隊の居ない秦軍では難しい

だろう。

 それとも別働隊が存在すると見せかけ、近辺に伏兵でも配して要るのだろうか。そうして頃合いを見て楓流

の居る本営を狙う。もし彼の首を盗れれば、その後どんな状況になろうと秦の勝利は揺るがないものとなる。

 結局、楓は楓流という一個の傑物(けつぶつ)の国家である。その代わりは趙深ですら務まらない。その事

は大陸に住まう者なら誰でも知っている事だ。

 兵数、士気共に劣る秦軍が勝利を望むとなれば、それが最も確実かつ手っ取り早い手段ではある。

 しかしそんな事は不可能に近しい。例え伏兵が居たとして、総大将が兵から離れるという事はありえないし。

どれだけ兵の足が速く、また隠密に長けていようとも、部隊級の人数で動けばどうしても人目に付くし、発見

されればすぐに大将を護るべく兵が集まる。

 大将が無防備に敵の前に姿を現す事など皆無である。

「そう、それが敵の前ならば、だ」

 秦王は自らの策に絶対なる自信を持っていた。

「楓流よ、結局楓という国は大きくなり過ぎた。早過ぎたのだ。その心、組織が熟せぬ内に、手を広げ過ぎて

しまった。この大陸は広い。全土を見渡せば、その分足下がおろそかになる。愚かとは言うまいよ。貴様もま

た人であるという事よ。おそらく私よりも優秀であろう貴様でも、できぬ事はできぬ。それは無理なのだ。結

局貴様を理解できるのは少ない人間。大陸全土をその思想だけでまかなう事はできぬ。

 私もまた哀しく想うぞ、楓流よ。その魂、こんな時代、こんな場所にさえ生まれてこなければ、もっとずっ

と幸福で平穏な人生と共にあったであろうに。少なくとも、このような終わり方はしなかったであろうに」

 秦王は楓流に本心から同情していた。

 趙深などに担がれなければ、こんな事にはならずに済んだものを。

 孫文に勝ちなどしなければ、こんな事にはならずに済んだものを。

 越や中諸国、南方に関わりなどしなければ、こんな事にはならずに済んだものを。

 こういう形で出会いさえしなければ、貴様と私は友で居られたであろうに。

 或いは上官と部下として、共に手を取り合う事もできていたであろうに。

 秦王は個人としては楓流の事を好ましく思っていた。同じ王としての立場に居れば認めざるを得ない。彼は

唯一無二の存在であると。

 この乱世において、信頼できるというだけでも、嘘でもそういう形を創っただけでも賞賛に値する。尊敬さ

えしていたかもしれない。

 そしてそう思うのは彼だけではないだろう。秦には楓流と親交の薄くない者も少なくはない。その者達の心

に憐憫(れんびん)の情を抱かせるくらいには、楓流は良い男であったのだ。敵である自分から見ても惚れ惚

れする程に。

「だが私は命を下さねばならぬ。それが秦を背負う者の宿命。そしてまた、楓を背負う貴様の宿命でもある。

せめて冥府にて見守るがよい。貴様とは違うが、別の平穏なる時代を私が築いてやろう。その力なら私にもあ

るのだから」

 確かにこの世には決まりきった事など存在しないのかもしれない。全ては可能性の上に成り立ち、そうであ

るが故に不定であり、混沌の内にある。

 だがしかし、楓流の命はここで潰える。それだけは確かだと秦王は確信していた。そしてそれだけの理由を

彼は持っていたのである。



 楓軍が戦場に到着するや、秦軍が果敢に攻め始めた。一度敗北を喫して尚整然と行える点に勇敢さと統率の

高さが見える。それは無謀な突撃ではなく、秩序ある前進であった。

 楓流は冷静に速度を抑え、急ぎ迎撃準備を整えさせた。幸い前衛を張る将兵は楓流に心服しており、練度、

士気共に秦軍に劣らない。どちらも精兵で名高き軍を持つだけに、少々の打撃、敗北では揺るがないものを備

えている。

 両軍は正面からぶつかり合い、戦いは初戦から激しいものとなった。

 大軍同士の戦では敵兵の息の根を止める事よりも戦闘能力を奪う事に比重が置かれる。一々首を盗るような

余裕も時間も無いからだ。どちらの兵も一人の敵に複数で挑む事を基本にし、疲労した者は背後の兵と次々に

交代していく。

 勿論、そうできずに死ぬ事も多く。そうなれば味方の屍を乗り越え乗り越え前進を繰り返す。結局は逃げず

に前進を繰り返した方が勝つのである。その為の要因は様々でも、勝利の理由は常にそれ一つだ。

 兵の技量に大差はないようで、戦況は一進一退を繰り返している。押しては引き、引いては押す。そのよう

な運動が各所で繰り広げられ、じりじりと時間と疲労が積み重なっていく。

 数と勢いは楓軍にあると言えるが、秦軍は半包囲の陣形を作り、楓兵はその中に入る事を恐れ、なかなか押

し切れない。この辺は待ち構えていたという利点を秦が上手く活用している格好である。いっそ強引に敵陣を

ぶち抜く荒技もあるが、魏繞は元々そういった蛮勇(彼の言い分によれば)を嫌うし。思い切った行動に出る

にはまだ早いと判断していた。

 楓流もその考えには概ね賛同している。魏繞から攻め気を奪うのは良くないが、冷静で無理を嫌うのは彼の

最大の長所である。それに胡虎の衣鉢(いはつ)を継ぐ気持ちでいる彼の気持ちを尊重したいという気持ちも

あった。

「だがこのままでは遅かれ速かれ秦軍が半包囲を完成させ、優位となろう。前衛に一万五千を配し、こちらも

容易くは崩させない構えとはいえ、油断はならぬ。騎馬隊さえ使えれば話は早いのだが、ままならぬ。なれば

少し策を弄せねばなるまい」

 楓流は表道、邑炬隊に最左右両面から攻撃を仕掛けさせ、半包囲しようと手を伸ばす秦の指先を叩こうと考

えた。これは彼らに手柄を立てさせるにも都合が良い。

 しかしここでまた邑炬が異論を述べた。

「確かにそれは名案でしょうが、それでは楓流様の本陣が手薄となります。もしそこに王旋隊でも現れれば、

面倒な事になるでしょう。ここは私の部隊から百を割き、護衛として本陣に置くのが良いと思われます」

 楓流は背後の騎馬隊を前進させて護衛に当たらせれば良い事であり、またその方が騎馬隊を動かしやすくな

るので一石二鳥だと考えていたのだが。ここで自説を張って邑炬の意見を退ければまた不満を買うだろうと思

い直し、その意を容れてやる事にした。

 それに邑炬の意見はおかしいものではない。騎馬隊を敵視する彼、いや彼らにとっては尤もな意見であり。

また主想いの進言であるとも言える。

 こうして楓流は邑炬隊から割かれた百の兵に身を護られる事となった。彼らの意を尊重する為、騎馬隊にも

そのままの距離を保つよう命じている。

 紫雲竜もまたその意を汲み、黙して従ったという。



 楓流の策は成功した。表道、邑炬隊の活躍によって秦軍の半包囲の陣形は崩され、勢いに乗った楓軍は攻勢

を強めた。魏繞もまた兵を果敢に攻めさせ、押された秦軍はじりじりと下がっていく。数的劣勢で戦っている

という心理効果も少なくない影響を及ぼしたのかもしれない。

 楓流は機はここと捉え、魏繞、表道、邑炬全隊に更に前進を強めるよう合図を鳴らした。そして騎馬隊にも

攻撃準備を整えるよう伝令を発す。

 しかしその伝令は何故か護衛に残っていた邑炬小隊に進路を阻まれた。彼らはまたしても美味しい所だけ騎

馬隊に与えるのかと抗議しているらしく、その声は楓流にまで聞こえてくる。

 さすがに腹立たしく思ったが、ここでへそを曲げられては骨を折った意味がなくなる。楓流は平静を保ち、

自ら説得するべく独り歩み寄って行った。伝令が護衛として付き従おうとしたが、そんな事をすれば益々邑炬

隊の不興を買ってしまうだろう。強くその必要性が無いことを告げ、伝令にはその場に留まっているよう命じた。

 そう言われれば伝令も従うしかない。彼らも側に居て楓流がどれほどに苦労しているか、心を配ってきたか

を解っている。その苦労に水を差すような真似はしたくはなかった。

 そうして楓流が邑炬小隊の側に寄り、彼らを説得しようと声をかけた瞬間、突如邑炬兵の一人が楓流に斬り

かかってきたのである。

 慌てて跳び下がったが、剣の切っ先が胴に触れ、鎧が甲高い悲鳴を上げる。長い年月をかけて作り上げてき

た質の高い防具を身につけていなければ、あっけなく切裂かれ、致命傷を負っていたかもしれない。

「・・・・・・・これは、どういうことか」

 楓流は息を整えてから冷静に問いかける。慌ててはならない。こちらが動揺すれば、それを引き金にして邑

炬兵達は再び斬りかかってくるであろう。どの兵の目にも尋常ではない光が宿っており、不退転の覚悟が刻ま

れている。乱心などではない。全てを覚悟の上でやっているのだ。

 気が付けば他の邑炬兵達も楓流の周りをみっしりと囲っている。辛うじて足を阻まれた伝令一人が近くに居

るが、その彼も囲いの外に置かれている。頼りにはできない。

 楓流は伝令に無用に動かぬよう目で命じ、再び口を開いた。

「もう一度言うぞ。これは、何の真似だ」

 明確な殺意が全身に注がれる。こんな状況に陥ったのはいつぶりだろう。知らず知らずの内にぬるま湯に浸

っていたという事かも知れない。

 楓は信じるに足る国家。そういう偶像を創り出す事に心血を注ぎ、それに成功してもう何十年にもなる。そ

れは必要性から導き出した方針ではあるが、半ばは楓流の性格に寄った。しかしそのせいでいつの間にか彼自

身がその偶像に支配されるようになっていたようだ。

 味方は誰も裏切らない、そんな盲信に取り憑かれ、甘えていた。

 南方政策と同じである。何という愚かさであろう。

 楓流は自分を二度恥じた。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 邑炬隊は何も答えず、じりじりと距離を詰めてくる。先程の一撃は必殺の覚悟で打ち込んできたはず。それ

をかわされた事で気をくじかれ、再び気力が満つるのを待っているようだが。それまでにかかる時間は長くは

あるまい。

 幸いと言うべきか。皆さすがに主人殺しと言われるのは嫌なのか、今の所は目の前の一兵だけが殺意を行動

に出している。もし今複数の兵に襲われていれば、鎧に身を包んでいても命はなかったであろう。

「・・・・・・・・・むう」

 楓流は迷っている。ここで自らも剣を抜き放ち、一刀の下に斬り伏せる事は容易い。老いたりとはいえ、彼

も戦場の中に生きてきた男。武具の質の差もあり、一人二人ならば対処できるだろう。

 しかしこの場でこの兵を血祭りに上げてしまえば、その血をきっかけにして全方位から邑炬兵が斬りかかっ

てくるはずだ。彼らの目も尋常ではない光を帯びている。できれば自分の手にはかけたくはないが、かといっ

て楓流暗殺を今更止めようとはすまい。きっかけさえ与えれば、彼らも容赦なく動くのだ。

 伝令を呼ぶのも同じ。楓流が明らかな行動を取れば、それに応じて斬りかかってくる。今できるとすれば時

間稼ぎがせいぜいか。

「・・・・・邑炬が知らぬ訳ではあるまい。しかし何故だ? お前達に不満があった事は知っておる。そして

その不満が正当である事も解っておる。私を殺したい程憎いと思った事もあるだろう。だが、今私を殺して何

になる。私の首を持って秦に行けば、確かに相応の見返りはもらえるかもしれんが。果たしてそうだろうか。

秦にとしてみれば私さえ死ねばそれで良いのだ。後は知らぬ存ぜぬ、全てをお前達に押し付け、不忠者として

お前達を討伐しようとさえするかもしれぬぞ。誰に命じられたか、誰と取引をしたのかは解らぬが、本当にそ

やつは信用できるのか。私よりも信用できるのか!」

「・・・・・・・・・ッ!」

 邑炬兵の間に緊張が走る。迷いが生まれたのかもしれない。

 だが魏繞、表道は前進しており、騎馬隊も離れている。この程度の時間を稼いだ所で間に合うまい。

 楓流は冷静に事を運びながらも、死を避けられぬ事を理解していた。何をどう計算しても間に合わない。そ

の事をこの場に居る者で一番良く理解していたのが彼だった。

 何という皮肉か。

「この皮肉な状況が、私の最後の時という事か」

 そう思うとおかしくもある。そしてその心と同じくらい安堵してもいた。

 死は確かに怖い。志半ばで凶刃に倒れるのも無念である。けれどこれで長く付きまとってきた不安から逃れ

る事はできる。悟りを啓き、解脱するにも似た心境が楓流の心で鮮やかな風となって流れていた。死は救いで

ある。そんな言葉が彼の心に刻まれたのは、或いはこの時であったのかもしれない。

「これもまた天命であろう」

 邑炬が何を考え、何を思ってこうしたのか、それくらいは知って死にたかったが。この兵達も重要な事は何

も知らされていまい。

 彼らは捨て駒、暗殺に成功しようが失敗しようがいずれ騎馬隊に壊滅させられる運命にある。それを覚悟し

てこの命を受けたのだ。どういう理由があるのかは知らないが、彼らもまた自分の命以上に大事なものの為に

覚悟を決めた。余計な事を知る必要は無い。

 ならば彼らを勇者と讃え、認めよう。

「それがお前達の王たる者の最後の務め!」

 楓流は心を決し、ゆっくりと刃を抜いた。

 そして走らせる。

「・・・・・・・・がッ」

 目前に居た邑炬兵の首が飛んだ。

 それからゆっくりと血が流れ、独特の嫌な臭気に場が満たされる。

「命の知らぬ者から、かかってこい!」

 楓流がそう叫び、それに応じて邑炬兵が気勢を上げた瞬間だった。視界を埋め尽くしてた彼らのほとんどが

一瞬にして倒れ、血に伏せる。

「楓流様、こちらに」

 足止めされていた伝令がいつの間にか側におり、心配そうに見つめている。しかしその顔からはもう恐怖の

感情は見えない。

「何があったのだ」

「ハッ、どうやら表道が兵の一部を割いていたようです。彼の旗印が見えます。邑炬の暗殺部隊もほぼ壊滅し

たようです」

「奴めも知っておったと、そういう事か!」

「おそらくは」

 楓流は忌々しげに救世主達を睨んだが、すぐに気を取り直し、今はその助力に感謝しておく事にした。理由

はどうあれ、その目的がどうあれ、彼は助けられたのだ。だからこそ腹立たしいとも言えるが、それを抑えら

れるくらいの年月を彼は生きてきた。今何をするべきかくらいは判断できる。

「邑炬の裏切り、そして暗殺部隊の壊滅を全軍に知らせよ! 敵はしくじったのだ。勝利は我らにある!」

 こうして楓流は危機を脱し、他の伝令兵達と共に紫雲竜の許へ身を寄せ、騎馬隊と表道からの救援兵によっ

て残る邑炬兵を全滅させたのだった。



 楓流凶刃に倒れる、の報と楓兵の混乱がしばらくの間戦場を支配したようだが、そこに楓流自らが率いる騎

馬隊が到着するや秦に対する憤怒の情へと一瞬にして塗り変わり、全てを揺るがす大流となって戦況を一新した。

 秦王は失敗を悟るとすぐさま兵を退いたが、楓流はそれを追わなかった。未だ混乱している兵の方が多い事

を知っていたからだ。

 邑炬と彼に従う兵達は混乱に紛れて秦軍と共に逃げたらしい。成功するにせよ、失敗するにせよ、初めから

そうするつもりであったのだろう。抜け目の無い男である。

 楓流は合流した魏繞に事情を説明し、表道隊には褒美をその場で与えた。

 表道は楓流救援の為に予め百の兵を残していたらしい。その理由として、最近の邑炬の言動には疑問を抱く

事が多く、不審な点があったので万一の為に備えておいた、などと殊勝な事を述べていたが。実際は彼も少な

からず荷担しており、最後までどちらに付くが得策か計っていたと思われる。

 或いは二人の仲は以前のように上手くいかなくなっていたから、邑炬と道を共にする事に不安を覚えたのか

もしれない。

 どちらにせよ、事前に楓流へ知らせなかったのは彼一個の利益の為でしかないし、その心に忠誠の二文字は

無いものと考えられる。

 とはいえ彼に命を救われたのは確かであるし、彼が兵を残しておかなければ楓流は死に、楓もまた滅亡への

道を早めた事であろう。

 そうである以上、表道の功を賞するしかない。勿論、勝手に兵を割いたという軍令違反は咎(とが)めるが、

それも型通りのものにならざるを得なかった。おそらくその辺も計算して実行したのだろうと思われる。清々

しいくらいに利に聡(さと)い男である。

 この戦いは楓流の生涯でもっとも危険な戦となった。今までの秦の不審な行動、そしてそれに対する楓の反

応、それら全てがこの策の布石であったのだろう。

 中諸国の乱、南方の乱と壬牙の帰還、秦南方軍の動き、そして王旋将軍の不在までもが、楓流を一時戦場に

て孤立させる為だけに張られた罠であり、秦王の狙いは最初から楓流の暗殺にあった。両国の最大戦力による

真っ向からの勝負、そんなものにこだわっていた時点で楓流は戦略的に敗北していたのだ。

 しかし秦王が全てを賭けた策は失敗に終わった。次の策を練る余力などあるまい。それくらいの覚悟で挑ま

なければ、楓流暗殺などできようもないからだ。秦は賭けに負けたのだ。勝利を取り戻す術などどこにも無い。

「全軍、進撃せよ!! 秦を討ち、大陸を我らが手に収めるのだ!」

 軍を再編した後、楓流は高らかに命じた。




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