23-5.南封の秘


 明開の求めに応じて伊推が重い腰を上げたのは、凱聯隊が留まってから十日経った後の事であった。

 これはいつまでも補給の見通しが立っていない事に対し危機意識を覚えたからだと多くの者に認識された。

 何せ楓において補給が滞るなどかつてなかった事態である。このまま待っても兵の士気が落ちる一方であろ

うし、いい笑いものとなろう。

 伊推は楓という国に、そして楓流という男に深く恩義を抱いている。彼の意図がどこにあり、またその計画

の中に自分という存在がどういう風に組み込まれたのだとしても、確かに楓流は自分に対して温情を見せてく

れたのであり、それは恩義とするに充分な理由であると考えていた。

 であれば楓流が描いた戦略(凱聯を待って後孫を討つ)を無視する事になったとしても、仕方なく決断を下

す事は充分に考えられる事であった。

 いや、むしろそうする事が自然であると思われた。

 実際、衛軍と天水軍がいれば後孫を討つ事は可能である。明開でなくともそう判断するのが当時の常識と言

えた。

 衛軍の将、白晴斯(ハクセイシ)と紅頼百(コウライビャク)もまた伊推の判断を是とし、反対意見を述べ

る事はなかった。むしろ彼らとしてもできるものであれば、進んでそうしたかったであろう。凱聯の遅延につ

いても好都合だと思っていた節がある。

 凱聯という存在はそのように誰にとっても煙たいものとなっていたのであろう。

 こうして思惑は一致し、衛天水連合軍は後孫へゆっくりと進軍を開始した。

 急いではならない。進軍を開始したのもあくまでも仕方なくであり、できうる限り凱聯の到着を待ったのだ、

という印象作りをしておく必要性があった。衛としても集縁閥を敵に回したくない。なるべく味方を刺激しな

いというのが衛、天水共に共通する基本方針である。

 例えそのようにしたとしても凱聯の怒りは抑えられぬであろうが、それ以外の集縁閥者からの理解を得る事

はできる。そしてそちらの方がより重要であったのだ。



 結局、凱聯隊が間に合う事はなかった。天水から後孫までの距離は知れている。その程度の時間で間に合う

見通しがあるのなら、初めから凱聯を置いて進軍などしなかったであろう。

 その行為はあくまでも義理立てであったし、それで充分だったのである。

 衛天水連合軍の接近に対する後孫の対応は鈍いものだった。一応兵を差し向けてはきたものの、いかにも寄

せ集めの兵であり、連合軍に一蹴され、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。

 本拠に近付くに従い、似たような軍勢が何度か向かってきたが、同じようにあっけなく散っていった。

 罠である事を警戒し、慎重に進む事にしたが、その心配も杞憂に終わる。後孫本拠はすでに空となっていた

からだ。

 申し訳程度の迎撃部隊も、厄介払いと時間稼ぎを兼ねたものであったのだろうと思われる。子遂がこれまで

もやってきたように、そういう形で兵を選別したのだ。

 それでも勝利は勝利である。

 連合軍は、後孫は凱聯将軍の報に恐れをなして逃げ去り、無事奪われていた領土解放に成功した、と喧伝さ

せた。

 明開は初め、いかに集縁閥に対して遠慮しなければならないとしても、あまりにもやり過ぎではないか。凱

聯は戦に遅延するという将としてあるまじき愚を犯したのだから、厳罰を受けて然るべきである。などと反論

したのだが、伊推に真相を告げられれば、同意せざるを得なくなった。

 伊推、曰く。連合軍を動かしたのも、今回の喧伝も、全ては楓流の意志であり、初めから決められていた事

である。

 楓流は凱聯に手柄を立てさせる必要性を感じてはいても、それを大きなものにはしたくなかったし、後孫と

いう国にも脅威など感じていなかった。正直な所、茶番のようなものと認識していたらしい。

 しかし孫という名を使われた以上、放っておく訳にもいかない。資金や物資を大量に奪われたという捨て置

けぬ事情もある。放っておけばそれこそ楓が侮られようし、悪意の芽は小さい内に摘んでおきたいという気持

ちは当然あった。

 そこでそれらの事情を考慮した上で、折衷案を生み出した。

 簡単に言えば、後孫を南方へ追い払うのである。

 その為にわざと南方の兵を南に引いて子遂の為の逃げ道を作り、連合軍には進軍速度を遅くさせて攻撃とい

うよりも残敵を追い払うに止めさせた。凱聯隊に対する補給がこれ程滞ったのにも楓流の意志があり、明開の

策も楓流の戦略に上手く組み込まれたという訳だ。

 でもそれでは凱聯、というよりも集縁閥の面目を潰す事になるので、全ては凱聯の命令で行われたという形

を取り、実際楓流が出した命令も全て凱聯の名で行われている。

 これによって遅参はしたものの一計を案じて後孫を追い払い、国土を開放した、という風に持っていったの

である。

 罰も受けるが、賞も受ける。凱聯は怒り狂い、その評判も落ちるだろうが。集縁閥は凱聯の失態を上手くご

まかしてくれたと楓流や衛と天水の面々に感謝する。凱聯は集縁閥の象徴のように見られがちで、実際そうい

う面もあるのだが、そうであるが故に集縁閥の中にも嫌う者はいる。今回の事でその溝は更に深まるであろう

し、であれば楓流にとっても好都合だ。

 凱聯など集縁閥の支持を失えば取るに足らない小物である。

 楓流は子遂の動きも掴んでおり、伊推が動いたのも、彼らが逃げ出すのを確認してからという訳だ。全ては

予定されていた事なのである。

 明開は楓流から真意を告げられなかった事と娘に手柄をという想いを無視された事を恨みに思ったが、それ

を言えるような状況でない事は彼自身が一番理解していた。

 後孫という厄介な問題を生み出した責任を問われなかった事自体、明開に対する最大限の温情であろうし。

後孫が拍子抜けする程簡単に南方へと逃げてくれた事で明開が描いていた図面通りになったという事もできる。

結果として楓流は明開の望む形を与えてくれたのである。

 ただしそれも明開の中に生まれた恨みを消すには充分でなかった。

 彼は楓流に、そして伊推や衛に対しても恨みを抱いた。

 凱聯は逆にこのような処置を執ってくれた楓流に対して感謝の意を強めたが、特に明開に対して深い恨みを

抱いた。彼が何をしていたかは解らないが、何やら伊推に入れ知恵していた事は確かであるし、おそらく補給

が滞ったのも明開の仕業だろうと考えたのだ。

 今は楓流の顔を立てて事を荒立てぬようにしてやるが、決してこの恨みは忘れまいと決意し。また衛と天水

には必ずこの酬いを受けさせてやると固く心に誓った。

 それから程なくして南方の地に再び後孫の旗が立ったという報が広がったが、楓流は国境付近の守備兵の数

を増やすのみに止め、半ばその存在を無視した。いや、無視する所か。楓の領土を侵さない限りは国として認

め、存続を許すという御触れを出した。

 曰く、孫は、孫文こそは最も尊敬すべき敵であり、その名を余人が冠する事は許さぬが、その縁故の者が国

として立てるのならば、その威名に敬意を払い、許す事とする。ただし敵対行動を取ればその限りではない。

孫文に対してそうしたように、堂々と討ち果たそう、と。

 更には同時期に孫文の生地に彼を祭る霊廟を立て、護国烈士の尊称を与えた。

 誰もが初めこの処置を不思議に思ったが、全ての争いにけりを付けるという楓の意思表示だと思えば、不思

議でも何でもないと思い直した。勿論、その為に間者を放ち、そう思わせるよう差し向けている。

 これらの処置を考えたのは楓流一人ではなかった。といって、趙深と共に、という訳でもない。意外な事に

子遂その人との共謀である。

 楓流は後孫の問題を早期解決する為、子遂本人と接触し、大人しく南方に去れば罪は問わず水に流す、と告

げたのだ。

 子遂はそれを受け容れ、南方へ逃れる事にした。資金と物資は豊富にある。兵も自分に従う、或いは従うし

かない者達だけが残り、これまでに選別された事で誰が思うよりも統制が取れていた。南方に入植する事は難

しくはない。

 それに子遂は全面的に楓流の申し出に服す代わりに南方開拓の知識と技術を得る事ができた。彼にしてみれ

ば奪い尽くした古巣と引き替えに新天地を与えられるようなもので、渡りに船であった。

 この温情に満ちた、と言うしかないやり方は楓流一個の判断である。

 孫という国を二度滅ぼすのは好ましい事ではないし、後孫という国を残す事で反楓勢力の拠り所とし、その

動きを把握しやすくする、という狙いがあったにせよ。ここまでしてやる事には複雑な心の動きがあったのか

もしれない。

 勿論、単純にさっさとけりを付けたかった。その程度の温情など今更取るに足らない事だ。というだけの事

かもしれなかったが。

 ともあれ、両者の利害は一致し、そういう運びとなった。

 子遂の真意は未だ見えず、その点が不気味ではあったが。楓流はそれには目を瞑る事とした。他にやるべき

事が山積されていたからである。



 後孫の乱が鎮圧された事で、楓という国の覇権は完全なものとなった。他国もおいそれと不満や範囲を示せ

なくなり、盛り上がっていた反楓感情も空気が抜けるようにしぼんでいった。

 言論統制された訳ではないし、当時の大陸人達は皆活力があるというのか、今よりもっと行動的な性格であ

ったようだから、様々な集まりを作って言い合ったり、論争を繰り広げたりはしたが。それを国家の意志とし

て述べる事ははばかられるようになった。

 反楓の中心地となっていた楚斉と中諸国も息を潜め、不満分子達も多くは陰に隠れた。

 そこで楓流は戦争の終結を宣言し、以前から考えていた新しき国作りを進める事にした。

 やるべき事は多い。楓陣営の論功行賞もそうであるし、同盟国(一応、楓は全ての国と同盟を結び、その盟

主であるという形をとっている)との関係をどうするのかも問題である。

 今は形(なり)を潜めているが、それら次第によっては再び不満が噴出し、元の木阿弥となってしまう可能

性もある。最悪の事態としては、楓以外の国家全てが同調し、反旗を翻す、という事も無いとは言えない。

 楓の大陸統一も後世に思われているような絶対的なものではなく、ただの同盟群の盟主であったのである。

 ただし利権や政治とはさほど関わりの無い大多数の民からの支持は圧倒的であった。それは今も昔も変わら

ない。楓に不満がない訳ではないが、といって他の国に取って代わってもらおうとは考えない。楓以上に善政

を敷く国はなく、楓流以上に信じられる王はいなかった。

 この信頼という点においては絶対的であり、後世の持つ印象とさほど違いはない。楓以外の国々がそれを常

に意識さざるを得ないほどに、楓の国策は成功していた。

 それに各国の王達も楓と同様、内部の勢力争いに悩み、苦しむようになった。外敵を事実上失った事で、ど

の国も他国になど構っていられなくなったのである。

 楓流が戦を早期終結したかった理由もそこにある。これからは武力で外部から押さえつけるのではなく、内

部争いをさせて諸外国と争える余力を持たせなくする。言わばより現代に近い争いへとなっていくのである。

 後孫の処置を終えた後、楓流がまず行ったのは、双王、双正(ソウセイ)を唯一正統の王とし、楓流自身を

その家臣とする事であった。

 大陸を治めるには大義名分が必要である。楓国は覇者にはなったが、大陸を治めるに足る正統な理由を持っ

ていない。民の総意を受けて、という形を取るにしても。それならそれで前統治者から禅譲(ぜんじょう)、

つまり統治王の地位を譲り受ける必要があった。

 それが大陸古来から続く伝統であり、今となっては形式的なものでしかないのだが、だからこそ絶対に必要

な事ではあった。

 この場合の前統治者とはつまり始祖八家の最後の一統である双正に外ならない。正確に言えば違うのだが、

その役目を負うに最も相応しいのは彼であろう。

 そしてそうする為には双正が唯一絶対の王であり、楓流もまたその家臣の一人に過ぎず、しかしながらその

徳を認められて王位を禅譲されるという形を取る必要があるのだ。

 幸い、というべきか。楓流は以前、趙起(チョウキ)と名を変えて双の家臣となっていた事がある。その事

実を上手く脚色し、そもそも楓流は双王の命によって大陸平定(双としては常に双一国であり、各王達も反乱

者に過ぎない、という見解を持っている)を成していたのだ、という形にした。

 全ては形式でしかないが、楓流はそれをただの形式として終わらせはしなかった。この機会に、双正が唯一

王としての地位にいる間に、その名をもって楓が行うべき外交の一切を担わせたのである。

 始祖八家の最後の一統という家格は神聖不可侵、誰も否定できない権威がある。楓ではなく、双の名によっ

て盟約を結ぶ方が他国も受け容れやすい。

 ここから双正が楓流の国家の名外交官であるという評価が生まれる。実際、彼は明開など及びも付かぬ外交

手腕を発揮し、唯一王としての座を譲った後も外交最高顧問として楓流の国家に名を連ねる事となった。

 つまり双王として楓流に王位を禅譲する事で、逆に双家の地位を不動のものとしたのである。

 双の党首として以外の自分を持つ事は双正にとっても少なからぬ喜びであったらしく。短い期間となってし

まったが、その役割を望んで積極的に果たしたと伝えられている(彼の外交案の多くは楓流、趙深から出たも

のであろうが)。

 こうして楓国は双正の名を借りて次々に各国と盟約を結んでいった。

 それは後孫も例外ではなく、かの国とも多くの約定を交わしたとされている。

 次に楓流が取り組んだのは、政府の役職をよりはっきりと定める事であった。

 ここに名高き六府が誕生する。

 一つ、内政府。立法、書記、事務一般をこなす。国そのものを形作り、実際に運営していく機関といえる。

 一つ、行政府。定められた法に従って政府を運営をする機関であり、国家としての頭脳である。裁判官とし

ての役割も担っている。

 一つ、財政府。予算を組むだけではなく、税の取り立てから論功行賞の実行まで金銭や私財に関わるもの全

てを取り仕切る。その法は何よりも厳格に定められている。

 一つ、外交府。文字通り、外交全般を担当する機関。他国と交渉をするだけの機関ではなく、外交全般に関

して大きな権限を与えられている。必要に応じて自己判断を下す事もできる。

 一つ、軍制府。軍事に関する一切を運営する機関。その役目は補給や守備兵の編成、配置、大軍の召集まで

多岐に渡る。

 一つ、近衛府。近衛が所属する情報機関であり、他の府から独立した特別な機関でもある。後年、王政が成

熟するに従って王直轄の親衛隊としての色を濃くし、近衛という役職へ変わっていった。情報機関としての部

分は参謀府が新設され、そちらが担う事となる。

 この六府にはそれぞれ長が定められ、後述する三将軍と同等の権限が与えられている。

 各初代府長は以下となる。

 内政府長、奉采(ホウサイ)。行政府長、趙深(チョウシン)。財政府長、明慎(ミョウシン)。外交府長、

白陸(ハクリク)。軍制府長、魏繞(ギジョウ)。近衛府長、胡曰(ウエツ)。

 この六人の府長と三将軍、計九名に楓流を加えた十名が楓を実際に動かしていく者達である。

 三将軍とはそれぞれ常備軍を持ち、自軍を単独で動かせる権限を持っている。三将軍には序列がはっきり定

められており、上から大将軍、上将軍、次将軍である。ただし次将軍であっても発言権は六府の長と同格であ

り、三将軍の序列はあくまでも戦争時、或いは将軍内でのみ適用されるものとされていた。

 これ以降、楓国内において将軍と呼ばれるのはこの三名だけとなる。

 その三名の名は以下である。

 大将軍、壬牙(ジンガ)。上将軍、凱聯(ガイレン)。次将軍、紫雲竜(シウンリュウ)。

 三将軍の軍隊、三軍は各地に駐屯し、その地方の防衛を任せられ、同時にその地方の支配権も与えられてい

る。言わば王に等しく、丁度趙深と似たような権限を与えられたと考えれば良いだろう。

 三軍以外に軍勢が必要な場合は軍制府内、或いは近衛府内から選ばれた者に臨時に将軍位が与えられ(その

者は何も冠せずただの将軍と呼ばれる)、各地の守備兵から割かれたり、別の場所から集めるなりされた軍勢

を率いる事となる。

 ただし三将軍が支配される地方であっても、各拠点、町村の守備兵はあくまでもその拠点と町村に所属し、

その拠点や町村を治める長官に指揮権、人事権が与えられ、それらを統轄するのは軍制府長である。

 その他にも王直轄の王軍と呼ばれる兵もおり、この王軍が常備軍としては最も数が多かった。

 軍に関してはややこしい事になっているが、それもこれも各将軍の力が強くなり過ぎないようにとの配慮で

あろう。常備軍を持たせるというのは、それ程に危険な事でもあるのだ。

 それから衛という国の独立が改めて宣言され、趙深は衛王の名を許される事となった。勿論、衛という国の

軍隊も彼のものであり、言ってみれば彼は四番目の最上位の将軍を兼任するという事になる。

 楓流以外の個人が持つ権限としてはあまりにも大きな物であるが、それに異論を述べられる者はいなかった。

何故ならば、楓流と趙深は一つであるのだと誰の頭にも認識されていたからである。

 しかしこれでは楓流も趙深も同じ王の名を冠する事となってしまう。いや、そもそも楓以外にも多くの国家

がこの大陸には存在している。これではただ王を名乗っただけでは、統一王であるという印象を与えにくい。

 そこで楓流は双正に王の王といえる新しい称号、皇帝を作らせ、その初代皇帝に就任する事にした。そうす

ることで王が氾濫するという正道から外れた時代の終焉を宣言すると共に、自分のみが唯一絶対の真なる王で

ある事を宣言したという訳だ。

 この時、双正は皇帝としての楓流を更に権威付ける為に改名する事を薦めた。楓流はあまり気乗りしなかっ

たようだが、最終的には受け容れて、名を碧嶺(ヘキレイ)と変える事とした。おそらく名目上の主であった

双正の顔を立てたのであろう。

 その時の彼の心情を象徴する一つの逸話(いつわ)がある。

 楓流が新しき名を碧嶺と定めるとした時、側に居た趙深がその由来を問うた。すると楓流はそれを霹靂(へ

きれき、意は突然雷が鳴ること)から転じたものだと述べた。更に趙深がその意を問うと、青天の霹靂にある

と言った。

 その真意がどこにあったとして、青天の霹靂なる言葉は大事変を想起させるものである。趙深はそのような

言葉を例え冗談としても使うべきではないと申し立てたのだが、楓流はこの時だけは頑固に意見を変えず、趙

深の忠言を聞き入れようとはしなかった。趙深はそこに言い知れぬ暗いものを見、晴れ晴れとしていた未来が

一挙に曇るのを感じたという。

 しかしこれは後年付けられた作り話である可能性が高い。

 実際には文字通り碧と嶺、つまり大きな山と空を現すものであり、彼が養父、楓壁(フウヘキ)と共に幼少

を過ごした山の思い出と養父の名前を懐かしみながら付けたのだと察せられる。

 ただし気乗りしなかったのは本当で、楓流が公式の場以外で碧嶺の名を使う事は稀であった。皇帝とは名乗

っても、皇帝が治めるべき新しき統一国家の名を付けてもいない。彼としては養父の形見といえる楓流の名を

変える、捨てる事が忍びなかったのかもしれない。

 それに統一国家といっても全土を一つの国にまとめた訳ではなく、正確には同盟の盟主でしかなかったのだ

から、皇帝などと大仰な名を使うのもどうかと思うのに、わざわざ大陸国家としての名を付けるなどと馬鹿ら

しく思えたのかもしれない。

 そういう儀式は効果的ではあるが、やはり馬鹿馬鹿しいものである。

 だが例え馬鹿馬鹿しくとも、儀式全てをなおざりにする訳にはいかない。六府の長と三将軍の就任式とそれ

に続く論功行賞の儀は大々的に行われた。

 その中で楓流は特別に趙深へ空よりも蒼い衣を、壬牙へ柄だけではなく刀身まで真っ黒に染まった異刀を授

けている。これは暗にこの二人が政と軍の要であると示したのだとも取れる。列席した者達は当然そのように

受け取ったであろう。

 この事がまたある種の軋轢(あつれき)を生む事になるのだが、楓流としては法以上の不文律を置く事も必

要であり、法治国家として機能する為にはまだまだ多くの時間が必要だと感じていたのだろう。楓流の統一国

家は色んな意味でこれからであったのだ。



 先にも述べた通り、双正の手腕によって諸外国(楓と衛以外の国家という意味で使われている)との外交は

滞りなく進んだ。それぞれの国家は新たに統一国家と約定を結んだ時点で得ていた領土を安堵され、秦国もま

た文面上は諸外国の一つとしての扱いを受けた。

 ただしどの国も心中は複雑であり、楓の処置に満足している訳ではない。最も強い国家である覇者が決まっ

たのだから、今は仕方なくそれに服しているに過ぎない。野望を全て捨てた訳ではないのだ。

 であるからには中央集権というような事はできず、今までと同様に六府の長や三将軍を大陸全土に分散配置

し、諸外国を牽制するより外なかった。

 まず秦には楓流に代わり魏繞と紫雲竜を送り、臨時として建てた傀儡政権を補佐させた。新しき秦王となっ

たのは前王の末子であり、年端もいかぬ秦鐘(シンショウ)である。勿論、政(まつりごと)には名目だけの

参加であろう。

 それに不満を抱こうとも、彼には後ろ盾となってくれる者がいない。故に傀儡王として選ばれたのだ。

 ただ楓としても秦鐘を無視したいのではなく、できれば善政を敷く(楓にとって)善き王となって、秦国を

彼自身の手で治めてもらいたいと考えている。だから彼にはその都度何故この政策を採るのか丁寧に説明し、

ある程度踏み込んだ解釈を与えた。清濁併せ呑み、(楓にとって)平穏に治めてくれるようにと。

 もう一つの最後までの悩みの種であった中諸国には白陸と凱聯が送られている。白陸、いや白夫妻には折衝

(せっしょう)としての役割が期待されている。その為にもできれば凱聯を行かせたくはなかったのだが、上

将軍であるからには彼にも相応の役目を課さなければならないし。凱聯自身が中諸国へ行く事を強く望んだ為

に、楓流も理由なくそれを退ける事はできなかったのだ。

 勿論、凱聯自身ではなく、集縁閥を慮(おもんばか)っての処置である。

 後孫攻めでの遅延の責を問う事ができれば良いのだが、名目の上では中諸国平定も凱聯の功績となっている

し、それを考えれば順当といえる配置に楓流も何も言えないのである。

 しかしどうしようもなく凱聯が不安であるので、王軍を集縁に置いて指揮権を胡曰に与え、その力を持って

北方と中諸国(主に凱聯)に睨みを利かせる事にした。

 胡曰はその意に応える為にも申寥(シンリョウ)を狄から早々に引き上げさせ、自分の副官に任命して王軍

の指揮権を貸与(たいよ)した。狄からは不満が挙がるかもしれないが、彼女を凱聯と同じ地に居させる事は

毒にしかならないと判断したし。集縁に居させて王軍の指揮をさせる方が、今後の事を考えても良いだろうと

思ったからだ。

 申寥の気風は楓流のものだ。実績を積んだ今なら集縁に馴染みやすかろうし、凱聯を異端としつつある集縁

閥の心を取れるだろう。そうなれば凱聯は最早楓の脅威ではなくなる。

 今にして考えてみれば、胡曰は初めから凱聯の対抗馬としての役割を申寥に期待していたのかもしれない。

 そして胡曰は更なる一手として、明開を凱聯の副官とする事を楓流に進言した。これは明開に名誉挽回の最

後の機会を与えると共に、謀略に長ける彼に凱聯を上手く抑える手綱、とまではいかずともその助けとなる事

を期待しての行動である。

 また同時に明開の娘である桐洵(ドウジュン)の近衛内での序列を引き上げ、またその担当地域を天水、天

風、梁にまで広げさせる事も行った。これは彼女の力量と功績を買っての事であるが、半分は明開への褒美で

ある。胡曰は情報官としての立場もあり、明開の奥底にある望みをある程度察していたのだ。

 明開はこの処置によってその事を知るであろうし、そうであるからこそ胡曰に借り、或いは弱みを握られた

と考えるであろう。そうなれば彼は期待された役割を果たさざるを得なくなると言う訳だ。少々意地の悪いや

り方だが、胡曰は明開に対してはそのくらい露骨な取引の形をとる方が良いと考えていたらしい。

 北方全体はそのまま趙深に任される事となった。胡曰との連携、中諸国への牽制、双の操縦と彼に課された

使命は大きくまた多岐に及ぶが、彼ならば今まで同様に問題なくこなすであろうとされた。

 楓東方軍も解体され、衛軍はすでに衛国内へ戻されている。実質ではなく、はっきりと衛王の称号を得た事

で軍を趙深一人の意志で動かす事ができるようになった。

 趙深が全ての期待に応える事を疑う者はおらず、彼自身もまたそれを証明するように淡々とだが過不足なく

その期待をこなしていた。

 南方は楓流と壬牙が引き続き担当している。ただし楓流は新たに秦領に近い場所に本拠地を作り、そこで西

方と南方を左右二つの目で睨むと共に、部族達を見守っている。壬牙もまた東方よりに移動し、中諸国と辺境

へ逃げた後孫に備える構えである(もっとも、後孫はほぼ無視されていたが)。

 つまり楓流と壬牙とで南方を二分したという事だ。壬牙への信頼の高さがうかがえる。

 西方と南方を繋ぐ道も重点的に整備が進められ、いくつもの街が造られていくと共に、それ以外にも自然と

小さな街ができていった。楓流は南方の民にそれらの街へ移住する事を勧め、また大陸全土から住民を広く募

り、応じる者を優遇した。

 南蛮貿易は再び活気を取り戻し、南方開発もまた加速度的に進んでいった。

 この後十年、二十年と経つと最早南方西部は未開の地とは思われなくなる程大陸人的に発展し、その様相を

変えていく。そして次第に商いの色を強めながら商業の地と育っていくのだが、それはまた後の話しである。

 逆に南方東部は壬牙が積極的に兵を募り、鍛え上げていった事で軍事色を更に強め、武骨でありながらもこ

ざっぱりした、武人らしい気風が育っていく事となる。

 壬牙はまた賦族や部族の垣根なく楓流以上に実力主義、いや武力主義で才ある者を重用したので、賦族、部

族、混血の人口割合が増え、彼らにある大陸人への負い目のようなものを薄れさせていった。

 その結果として南方東部、いや壬牙軍もまた衛同様に楓でありながら一種独立した気風を持つ、一つの独立

国としての色を強めていく。そして後に紫雲竜が加わる事で更に大きな流れ、軋轢(あつれき)が生じていく

事となるのだが、それもまた後の話である。

 こうして統一されたはずの大陸は地方色を今まで以上に強くする事となり、複雑な色彩を放ち始めた。

 しかし何がどうなろうとも頂点に楓流、そして趙深が居る限りは問題なく機能すると思われ、実際に問題な

く機能していた。

 そしてそれは長く太平の世として後世に語り継がれるまで続くはずであった。

 そう、そうなるはずだったのである。




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