3-1.天道


 豪炎(ゴウエン)、袁夏(エンカ)、共にその生は尽きた。

 とうとう、と言うべきか。それとも何故と問うべきなのだろうか。両者共配下の将に殺され、残り少な

い領地を奪われ、その骸は大勢の人間の運命と同じく、野に捨てられたらしい。おそらく今頃は野犬か虎

の腹の中、食われてしまえば人も物も同じ、命を育む為の代償となる。

 死ねば豪族も王も無い。

 時代が再び変転し、世の中は大きく動こうとしていた。

 それを示すように、似たような事が大陸全土で起こっている。

 豪族の短い安定期が過ぎ、豪族王時代の幕開け。そして今豪族王から、真なる権威持つ者、王となる道

を歩もうとしている。新たな戦乱の始まりであり、大陸に覇道が満ちていく。

 地生七十二星の繁華が終わり、三十六の勢力に落ち着き、そして大陸が統一されるまでの時代。第一次

覇権期、覇道の時代の始まりである。


 蛇足だが、第一次とあるように、地生七十二星の勃興から繁華までは特別な時代区分をしていない。豪

族王の時代とよく呼ばれているが、時代区分としては前政権が弱まり、豪族の力が増してきた頃からまと

めて、第三次戦乱期へ区分されている。

 それは豪族王と違い、豪族には王権が無く、あくまでも力在る地方領主であり。その争いも、ただの反

乱、内部争いと見なされているからだろう。

 しかし豪族王から王へ脱皮するこの時代は、明らかに今までと思想の異なる時代であり。単なる反乱で

はなく、唯一つの権威を得るべく起こされた戦い、覇権争いの時代である。

 そしてそれは、例えこの頃にもすでに名ばかりになっていたとはいえ、この大陸の歴史の始まりから続

く、始祖八家の血統と統治に拘った時代の終わりを示している。

 血統信仰そのものが消えた訳では無いが、最早血統が全てではなく、力こそ、実力で上に立つ事が全て

なのである。そして力ある者は、堂々と王を名乗れる。何の憚りも無く、彼らは自らを王とし、その血統

を王族と呼んだ。

 古よりの風習や思考は無視され、そのようなモノは頼りなく、無意味な感傷となり。人は自らを生かす

べく、人と王権に新たな価値を求め始めた。

 豪族王達はその価値を、自らが王足る価値、即ち力を示す為動き出す。小勢力を次々と併呑し、その中

から大勢力が生れ、大勢力もまた分裂を起こし、更に新たな勢力を生んでいく。

 そしてその勢力はまた他の勢力に併呑され、或いはその分裂した勢力同士が一つに統合し、大勢力へと

生まれ変わる。

 最早単なる領土争いではない。誰が王に相応しいか、誰が大陸に覇を称えるのか、誰が戦乱に終止符を

うつのか。それを決める為の、同じく欲望から生まれながらも、多分に思想性を含んだ争いである。

 しかし争いは争い。人類にとって何も良い事は無い。繰り返す争い、繰り返される戦禍は永遠に終わり

を見せようとせず。人々は哀れにもその争いに慣れながら、後の統一皇の登場まで、まだ長い年月を耐え

忍ばなければならない。

 天導三十六星が碧嶺(ヘキレイ)に滅ぼされるまで、この覇権争いは続く。いや、それを経ても尚、長

い長い年月を、人は争いに終始して生きていく。不思議な事に、最も人が忌むはずのこの戦争が、いつま

で経っても消える事が無い。

 故に人は戦を好み、殺し合う事を望んでいるのだ、と考える者が居る。

 確かにそうとしか云えない部分を人は持っている。しかし正確に言えば、それは違うのだろう。人は単

に騒ぐのが好きなのだ。祭りのように酔って騒ぐのが大好きな種族なのである。それが酒程度ならまだ良

いが、夢や使命に名を変えた欲望に酔ってしまえば、大惨事を引き起こす事となる。

 云わば国自体が酔ってしまう。酔えば正も邪も無い。思うままに暴れ、酔いが醒めれば、その間の出来

事を忘れてしまう。

 こうして形だけの反省をしながら、人は争いを繰り返している。誰も悔いず、誰もそれが本当はどうい

う事かを知ろうとしないから、戦争などという愚かな事を繰り返せるのだろう。

 人そのものが悪なのではない。過ちを繰り返し、反省せぬ愚かな心に原因があるのである。

 この豪族王の時代を眺め見る度、様々な感傷が心を過ぎる。

 この時代には数にすら入れられず、いつの間にか滅び去った勢力も無数にいたが、その知られぬ血筋が

また後の争いの発端となる事も多い。人の記憶や歴史には残らぬでも、その心に恨みや憎しみは消えず、

決して無かった事にはならないのだ。

 紙に残るのは辛うじてその名と数、羅列された数行の文、何時何処に発生、何年に滅ぶ。だがそれだけ

の中へ、本当はどれだけの心が封じられ、踏み躙(にじ)られてきたのか。

 悲しみが見える。その文字は涙であり、復讐と後悔である。消えない想いが、この文字の裏、横、周囲

一帯にまで、細かく細かく纏(まと)わりつき、離れない。未来永劫消える事無く、それは残るだろう。

例え紙に記されなくとも、人の心からは決して消える事はあるまい。

 人はそれを知るべきだ。歴史とは、本来それを学ぶべき学問である。

 紙に残された羅列などをいくら覚えようと、それが人に何を育む事は無い。それを残した人間が伝えた

かった事は、そういう羅列した単純な流れではないのだから。


 碧嶺に直接関わった以外の豪族、豪族王達の歴史は、碧嶺が記し残したものではない。彼の片腕となる

趙深(チョウシン)が国造りの参考とする為に調べ、それを子孫へと書き残したものである。

 彼はどれだけ必死に生きて、どれだけ恐ろしい争いの中、人々に涙と苦しみがあっても、たかが数行の

文章で終わるしかない人の歴史というものを、どういう風に想ったのだろう。

 わざと短くまとめた訳では無い。これだけしか、ほんの数行しか残ってなかったのである。何処にも、

それは人の記憶にさえ、一体そこで何が起こったのかは残っていなかった。それを知る者達は全て骸とな

り、人の世から消えてしまっていたからだ。

 だからこそ、それは空虚であった。

 残っていたのは、滅ぼされたという事実から来る恨みと憎しみ。記録になくとも、想いだけは残る。

 確かに被害者とは言えないかも知れない。滅ぼされた方が攻めたのかも知れず、何か酷い過ちを犯した

のかもしれない。しかしその記録は残っていない。惨い事に、ただ滅ぼされたという事実と、そこからく

る想いしか後に残されないのだ。

 過ぎ去った過去、それは決して償えぬ過ち。心の片鱗に残った憎しみと恨みは他に行き場が無く、燃え

上がらせる以外にどうしようもないと思える。

 しかもそんな事が当たり前に起こっていた。あまりにも災厄が多く、人が日常をはっきりと覚えていな

いように、災禍が日常となり、記憶からも薄れてしまう時代に、趙深は自分がまとめた歴史を見、一体何

を考えていたのか。

 そして何故わざわざ碧嶺の残した歴史書、碧嶺蔵史以外に、滅びた者達の歴史を伝えようとしたのか。

 単に碧嶺の歴史を補完したかっただけなのか。それともそこにこそ何かを込めたかったのか。

 最早その真意を知る事は出来ない。我々に出来るのはそれを察する事だけだが、おそらくその全ては間

違っているのだろう。

 真意とは、果たして誰かに伝わるものなのだろうか。


 趙深という人間は碧嶺亡き後、国家を離れ、隠者として生活したが。碧嶺、つまり楓流と出会う前から、

何よりも争いを嫌い、人の世を憂いて、隠者として生活していた。

 しかしそこへ何度も何度も足を運んだ碧嶺の心に打たれ、ようやく自分の力が活かせるとして、彼の許

に身を寄せたと、一般に認知されている。

 だが実際は違う。その人物像も碧嶺に従った理由も、まったくそういうものではなかったようなのだ。

 趙深、この稀代(きだい)の策謀、思想家。深謀、神算、鬼謀に神才、付ける言葉に不自由する事が無

い、碧嶺と並ぶ不世出の人。史上唯一の大軍師として、碧嶺が覇業を成す最も大きな力となった存在。こ

の男が後の碧嶺である楓流に出会ったのは、丁度豪炎と袁夏が骸となったこの頃であった。

 しかし周知のように、彼が楓流の臣下となるのは、まだまだ何年も先の話。そう、趙深を得るまでには、

二度や三度の訪問ではない、実に何百という回数を、楓流は趙深の庵へと訪れているのである。

 最も、初めは楓流も趙深を臣下にしようとは思わず、知恵者として好意をもっていた程度であったが、

それにしても気の遠くなる回数である。使者だけではなく、そのほとんどを自ら訪れているというのだか

ら、楓流も相当なものだと言わざるをえない。

 彼には悪いが、病気染みてすら思える。

 しかも趙深の方は、楓流を尊敬するどころか、自分を争いへ導き、人の世を乱す男として、嫌悪すらし

ていた。

 後に固い友情で結ばれる事になるのだが、初めはまったくの迷惑者、出来れば生涯に二度とは会いたく

ない男として、趙深は楓流を見ていたようである。

 趙深は元々人と言う存在にも嫌悪を覚えており、人は全ての命を奪い、それだけでは飽き足らず、最後

には自らの命までを焼き尽くして、この大地そのものをも滅ぼす存在であるとし。その大きな原因と考え

られる争いや、政治などには決して関わりたくはなかった。

 不幸な事に、彼には人の行き着く先が見えるのである。誰よりも、何よりも、はっきりとその目に、そ

の類い稀なる頭脳の中で、はっきりと滅亡へと駆ける人の足音さえ聴こえるのだ。

 初めはそれを否定しようとした。何とかこの知略の限りを尽くし、せめて一国だけでも助けられないか

と、懸命に彼は働いた。しかしそれは無意味な努力であった。結局彼がしたのは戦禍を増大するだけ、い

くら人に称えられようと、いくら王から尊崇を受けようと、彼の心は閉ざされるだけであった。

 自滅の手伝いをし、人を余計に殺して、それで喜ばれて嬉しい者があろうか。命を奪う事が英雄賢者と

いうならば、それが人間だというのであれば、趙深はそんなものにはなりたくなかったのである。

 故に彼は人を捨てた。山野へ潜み、獣のように、或いは石や草のように、自分が生きられるだけを食べ、

生活できるだけを喜び、静かにその生を全うしようとしたのである。

 しかしそこに現れたのが、戦乱の化身たる楓流。一方は智して座す者、もう一方は行して翔ける者。お

互いに無いモノを補い合い、正に竜と成る為のこの出会いはしかし、果たして幸であったのかどうか。

 だがその出会いへ進む前に、もう一度豪炎、袁夏が死して後の事へ話を戻さなければならない。




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