3-4.異山の石


 特に目立つような何かがあった訳ではない。

 しかしそこに人の手が加わっているかどうかは、人だからこそ敏感に感じ取れる。

 今までと違い、そこはまっさらな自然に見えて、何かがおかしかった。違和感を感じる。

「・・!!!・・・・!!・・!!・・」

 聞き取れぬが、時折何者かの唸り声が聴こえてくる。獣だろうか、それとも鳥か、或いは見知らぬ生物

なのか。しかし声はすれども、ここに来るまで、一頭の獣すら見かけていない。

 まるで獣の類が一切いないかのような、奇妙な静けさ。それでいて確かに声だけが聴こえてくる。

 確かに、たまたまそうであった可能性や、単に見落としてるという可能性はある。

 楓流は水を得た魚のように力を得、脇目も振らず猛然と進んできた。視界が狭まっていたのではないか

と思えば、確かにそうであったような気がする。気も大きくなっていただろう、多少の事など気にせず来

たのかもしれない。

 とはいえ、そう云う事を考慮しても。付近の村人から聞いていたことや、確かに獣の声が聴こえていた

事を思うと、不自然であろう。

 何かが自然のままではない。

 この獣道もそうだ。確かに道らしき道ではない。ただ草が地面に踏み付けられ、ただ何かが通ったとい

う、それだけの残り香のような気配だけがある、道無き道。それでもこの中には、それだけではない独特

の何かが感じられた。

 楓流はゆっくりとしゃがむと、草を分け、その下をよくよく覗いてみた。するとかすかにだが、何か重

い物が踏んだような跡が残されている。

 一見何でもないように見える。しかし良く見れば、明らかにそれは周囲から少しだけ低くへこみ、明ら

かな何かの足跡であると思えた。不自然な形だが、だからこそ尚更自然とは相容れない。

 奇妙な四角い足跡。

 そういえば、どこかで聞いた事がある。泥沼などを渡る為に、大きな板を使う事があるのだと。人の足

では沈む場所でも、大きな板で重さを広く分散させると、まるで地面の上を行く船であるかのように、沈

まずに進む事が出来る。

 船の原理と同じようなものなのだろう。浮力を得れば、自然に浮ぶ。ようするに沈む力よりも、浮き上

がる力が大きければ、物であれ人であれ、浮き上がるのである。

 そこまで大きな事をしているとは思えないが(実際それほど大きな跡ではなかった)、人の足跡を残さ

ない為に、そう言う原理を利用しているとは考えられる。

 規模と用途が違っても、結果は変わらないはずだ。

 よほど警戒しているのだろう。いや、これは異常な用心深さかもしれない。ここへ来ようなどと思う者

すら、そうそう居る筈があるまいに、ここまでする理由があるのだろうか。

 不自然である。

 楓流のような物好きが、この大陸に多いとは思えない。ここまでして隠す必要があるのだろうか。獣が

人の足跡を追うという話も聞かないから、足音を隠すのは、やはり人を意識してだと思える。

 何を考えているのか解らない。ただ異常なまでに、人から逃れたいという意識がある事が、ここから窺

えた。この奥にある住処を、外から閉ざしたいという想いが、確かな形としてここにある。

 では何故、いつまでたっても、この泰山の噂が消えてなくならないのか。

 隠れ住みながら、何かを待っているのか。それとも、ここまで周到に隠してさえ、人の存在というもの

は隠しきれないものなのか。

 慎重に眺め見れば、到る所に人の痕跡が残っている。

 いくら隠しても、竜の目からは逃れられない。

 むしろ彼を導いているのかと思える程だ。

 もしかすれば、彼らは待っているのだろうか。人でありながら、人で無き者を。つまりは彼らと同じく、

自然と同化した何者かを、同族を。

 これはただの痕跡ではなく、同族の為の道標なのかもしれない。

 だとすれば理解できる。何故噂が消えぬのか、何故こうも無数の痕跡が残されているのかが。

 隠しながら隠さない。解る者には解るように。その意味は一つしかなかろう。

「・・・・・・ッつはぁ、・・・・・ッっつはぁ」

 凱聯が後ろから荒く長い息を吐いて上がってきた。時折、息を止めているようにすら聴こえる。おそら

く、息をする力すら、失せ始めているに違いない。

 凱聯が追いつくと、それに応じるように、先ほどまでの遠吠え、唸り声が減った。未だ絶えず何処かか

ら聴こえていたが、確かに声の数は減っている。

 それはつまり、楓流達を監視していると云う事だ。

 この森に踏み入れ、山を登り始めた時、その瞬間から彼らの監視下にあったのかもしれない。

 もしも彼らがここに居るならば。楓流と同じく、自然と共に生まれ育った者達が居るのならば、そのく

らいの事は出来るはずである。

 それでも楓流らの浸入を止めないと云う事は、彼らに受け入れられたという意味か。それともこの道標

を辿れるかを、試されているのだろうか。

 誘き寄せられている、その可能性も否定はできない。

 凱聯を見た。

 彼は変わらず息荒く、もう話す事もままならないようだ。もしここに楓流がいなければ、とうに彼は進

む事を諦めていただろう。獣道は獣の為の道、人が進むには過酷過ぎる。

「・・・・・・・」

 ここで待て、という言葉を楓流は呑み込んだ。

 凱聯を放っておけば、監視者に何をされるか解らない。そして凱聯自身も何をしでかすか解らない。こ

こまで来た以上、誰が望もうと望むまいと、二人で行くしかあるまい。

 楓流は天を仰ぎ見る。頂上まで、後幾等も無い距離。一呼吸置けば、凱聯も辛抱出来るだろう。

 好意的か、敵意剥き出しか、一体どちらの表情で、彼らは迎え入れてくれるのだろうか。



 下界からは気付けなかったが、この泰山山頂は開けた平らな台地となっており、起伏はあるものの、ま

るで広場をそこに造ったかのような、広々とした空間があった。

 周囲を相変わらず森林が埋めている事を思えば、これは人工的な地形なのかもしれない。

 そこに求めていた者達が暮していた。

 この地を閉ざしていた割には、驚くほど下界の風俗と似ている。衣服、礼法、食事、社会制度、そうい

うものは相違点こそあれ、同じモノだと言って良かった。

 桃源郷というよりは、見慣れた故郷が、異界に忽然(こつぜん)と現れたかのように思える。そこは不

思議な、正に異境と呼ぶに相応しい、しかし違和感の無いありふれた光景。

 真に不思議な場所である。

 そしてそれは確かに下界との交流が、長い隔絶の中にあってさえ、頻繁に行なわれていた事を意味して

いる。

 彼らは果たして隠れたかったのか。それとも否応無しに、この地に閉じ込められてしまったのか。

 どうやら後者であるように思える。その類まれなる技術力と知識、それがあるが為に、彼らはこのよう

な異界へ住まう道を、自ずから選び取る必要があったのではなかろうか。

 人嫌いではなく、争いから逃れたいが為に。

 初めは辛かったろうが、ここに長く暮しているらしく、環境は整えられ。下手をすれば戦乱に慄(おの

の)く下界などよりも、安楽に暮せるように見える。

 ここは平和だった。

 森に満ちていた獣の声も、そのほとんどは侵入者への威嚇(いかく)を含めた、彼らの通信手段なのだ

そうだ。

 彼らは少し離れた場所に居る者を呼ぶ時、必ず獣の声を真似る。こんな所に居れば、そこまで気遣う必

要は無いと思えるが。おそらく日常からそうする事で癖とし、当たり前に慣れさせているのだろう。

 火急の時、慣れこそ最大の武器となる事もまた、明白な事実である。条件反射のように使えるのが、一

番良い。

 彼らは楓流を待っていたのではないが、さりとて敵意があるでもない。ただの旅人として、あるがまま

に受け入れてくれた。話に寄れば、このような場所でも、たまに迷ってふらりと訪れる者が居るらしい。

 その場合は寝むらせて下界へ運び、夢のように思わせるらしいが。ここと知って訪れたのであれば、こ

こに好きなだけ居れば良いと、そのように隠者達は言ってくれた。

 楓流も山に属する者だと云う事は、彼らの親近感を誘ったようだ。

 だがそれも仲間とまではいかない。所詮里外の者は異界の民。彼らにとっても、下界は異界。下界の民

は異界の民なのである。

 気を付けなければ、楓流もまた、ここを夢と思わされる破目になろう。いや、この地を知って来ている

のであるからには、最悪殺されてしまうか、この地に閉じ込められてしまう可能性もある。

 ともあれ、今は一応善意を見せてくれていた。

 わざわざ長老と呼ばれている者が二人に会ってくれ、一件の家を貸し与えてもくれ、身の回りの世話を

してくれる女まで付けてくれ、待遇は上々といえる。彼も珍しき旅人を迎え、それなりには嬉しかった

ようである。

 逆の意味に取れば、こうした方が見張りやすく、この女も見張り役と云う事だが。好意には違いない。

 凱聯は女に早速気を許していたようだが、それはそれでもいい。変に反感を抱かせるような真似をする

よりも、扱い易い者達と思わせて置いた方が、安全であるはずだ。

 女は凱聯に任せておくとして、楓流は外を見てみる事にした。一人なら大丈夫だと踏んだのか、女も止

めはしない。一度入り口で振り返ってみたが、楽しそうに笑っているだけだった。そのあどけない笑顔に、

楓流も惹かれるものを憶えたが。まあ、それだけの事である。

 幸い、外はまだ明るい。

 取り合えず、道なりに歩いてみる。

 子供達が興味深そうにこちらを見る。さりとて話しかけてくる様子は無い。大人達は初めから無視して

いるのか、気にもしない風で、いつも通りに生活していた。

 彼らにとっては、この里を荒しでもしない限り、どうでも良い存在なのだろう。助けて欲しければ助け

るし、面倒も見るが、余計な事はするなと、その態度で語っているようにも思えた。

 決して人嫌いではないが、人が好きな訳でもないようだ。

 その技術を隠す風でもない。鍛冶屋を覗いても、いつも通り仕事をしていたし。里内のどこを見ても、

誰に咎(とが)められる事はなかった。

 じっと見ていると、親切に色々と教えてくれる者までいたほどだ。大らかと言うのか、どうも、ここま

で来ればもう隠す必要は無い、とでも考えているように思える。

 一々余所者と争いたくないという気持ちも、そこにはあるのかもしれない。

 楓流は一通り見て回った後、家へと戻り、今夜はそのまま眠った。敷いてあった寝具はあたたかく、や

わらかく、夜明けまで気持ちよく眠れた。

 凱聯と女は何処へ行ったのか、結局朝まで経っても、その姿を見る事はなかった。




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