3-6.老獪


 楓流は傍目から見ると、ゆったりと過ごしているように思えた。

 与えられた家へ戻され、変わらぬ客人扱い。腕枕をして横になり、呆けたように天井を眺めては、時折

窓を覗くように視線を向ける。

 しかし体の方はほとんど動いておらず、結局何事をしているようには思えない。

 別段外出が禁じられている訳ではなく、見張りが付けられている訳でもないのだが(里の出入り口には

見張りが立っているが)、彼は何するでもなく一人そこに居た。

 大人しく自重している姿を見せる為なのか、はたまた本当に諦めてしまっているのか。余人には彼の心

など、とてものこと察する事が出来ない。

 彼が見た目通りの事を考えている事は、ほとんどなかったからだ。

 楓流は無論、諦めてなどいない。むしろ頭の中はこの里に来てから、一番に働き始めている。

 しかし答えが出ないのである。だから大人しくしている。何も出来ないから、敢えて動こうとするので

はなく、何も無いからこそ動かない、動けない。

 ここで焦って動けば動くほど、里長の術中に嵌(はま)ってしまう。人間の行動は単純だ。ある程度は

自分を思うことで、相手の事も察せられる。だからこそ策謀があり、智慧がある。そこから逃れる為には、

当然するだろう行動をせず、常人の心から離れる必要があった。

 相手の想定通りの行動をしてはならない。それが唯一の対抗手段。逆に言えば、そうせざるをえない状

況に陥れる事が、策謀を成功させる秘訣である。

 逃れるか、逃れられぬか、所詮はそれだけの事に過ぎない。

 だが人はたったそれだけの事に命をかけ、途方も無い時間を費やしてきた。他の存在から見れば、まこ

とに滑稽な姿と歴史であるけれど、人にとってはそれが非常な問題なのである。

 まるでそれこそが人生であるかのような、一大重要事なのだ。

 今の楓流にとっても、それは変わらない。ここに一生閉じ込められるか、それとも飛び出せるか、或い

は里長を味方に付けられるか。詰まらない三択なのだが、文字通りその結果次第で、彼の人生は大きく変

化を遂げる。

 出来れば里長を説得し。最悪でも脱出して集袁へ帰りたい。しかし、待つだけでは、閉じ込められたま

ま、人生を終える事になろう。とはいえ、今のままでは動けない。

 動くには、それだけの材料が必要であった。何でも良い、この里に影響力のある何かが必要だ。里長を

焦らせ、無用に動かせるだけの、楓流と彼の立場を逆転する事が出来る、何かが必要なのである。

 云わばこれは楓流と里長の知恵比べ、心理戦のようなものだった。

 だが里長を揺さぶる事など、出来るのだろうか。

 このような場所にいれば、外敵の心配は無いと言って良く。里人達がゆるやかに暮している事からも解

るように、彼らには絶対的な安全を疑う心が無い。故にその上に立つ里長にも、揺らぐ要因が無く。楓流

が何を言おうと、無駄であろう。

 焦らす焦る状況に陥るには、仕掛ける方ではなく、仕掛けられる方の状況と心理が重要となる。

 豪炎同盟軍が攻めてきた時の集袁とは逆に、里人の心に絶対的な想いがあるから、心が揺らぐ事も、猜

疑心を起こす事も、それによって乱れる事も、期待する事が出来ない。

 そして里長もその事を重々承知している。だからこそ、楓流に対しても寛容で、余裕を持っていられる。

 好きにしろ、出来るものならやってみろ、無駄に足掻いてみろ、そういう余裕が持てる。

 いっそ今日にでも、何処かの何者かが里を攻めてくれれば良いのだが。この泰山に攻めるような物好き

は、下手すれば永劫に出ないかもしれない。

 山上に在り、しかもそこは未開の地。これでは攻める以前の問題である。楓流ですら、それをする意味

は無いと思う。

 確かに、やろうと思えば、決して落せぬ事は無い。難しいが、所詮は一村程度の人数、如何に強固な要

害に篭ったとて、いつまでも耐え切れるものではない。

 しかしそれをする力があるのならば、そんなものはもっと別の目的に使用されるべきだろう。この里の

技術力は魅力的だとしても、わざわざそこまでする意味は無い。そこまで出来るのであれば、今の楓流の

ように、藁をもすがる思いで、噂だけの隠者などを、探したりするような事はしまい。

 山を攻めるのには、それだけ大きな力が必要なのだ。

 後世銃火器が出来て以来、地形の高低差や峻厳さの、つまりは距離による防衛力が減少し。人は平野へ

と要塞を降ろし、地形よりも交通の便の方を重視するようになったが。この当時は地形こそが防衛の要で

あり、全てと言っても良かった。

 その場所へ行き難いという事が、人力に対しての、何よりの防御手段だったのである。

 山上、谷間、人の入り難い地形であればあるほど、自然と守り易く、攻め難くなる。人が刃を持ちて、

そこへ攻め入る以外に攻略法が無い以上、道理である。

 故に山上に砦を築いたり、谷間の細い道を閉ざすように砦を築いたり、そう言う事はどの勢力でも行な

ってきた。

 ただし、居住地や商業地などは平野に造られる事が多い。それは単純にそちらの方が輸送に便利で、暮

し易いからであり。いくら民衆がどうなろうと、君主が生きていれば、それで良かった。だから戦が起こ

れば民衆は逃げ支度をし、終われば戻ってくるという訳だ。

 云わば民は君主の付属品であり、ただの持ち物なのだから、あまり頓着する者は居なかったのである。

 それに民としても、軍事拠点と離れている方が安全で、砦や関という戦に関わる建造物と、家や商家と

いう実生活に関わる建造物は、初めから分けて造られている事も多い。

 輸送と補給という点からすると、非常に不便だったが、それには目を瞑るしかない。

 何故なら、常駐している兵を少なくする為に、砦には堅固さだけが求められたし。そもそも居住地、本

拠に攻められるようであれば、もうその戦は負けているからだ。

 兵隊と民衆を同居すれば、問題も増える。離れている方が都合が良かった。

 豪族達が割拠して以来、彼らは自分の力を見せ付ける為、支配力を強める為、敢えて居住地に砦を造り、

城を構える事が多くなったが。本来は民と戦とは分けられていたと考えられる。

 無論、大陸全土が窮乏し、盗賊強盗が溢れてきた為。民という自分の持ち物を護るには、近くに居た方

が都合が良くなった。という理由もあるだろう。

 民にとっては安全なのだか、危険なのだか解らないが。盗賊強盗に暴れ放題にされるよりは、まだ良い

のかも知れない。

 それにこれは、新興勢力だけに、民に慕われなければすぐに逃げられてしまう。つまりは人気取りとい

う意味でも、君主が民を意識せざるをえなくなった、という事である。民の地位が増した、とも考えられ

ないだろうか。

 勿論、それが喜ぶべき状況かどうかは、疑問ではあるが。

 少し話が反れてしまった。

 とにかく泰山の里は天然の要塞であり、この里に大軍を寄せる事は、地形上不可能であると、そう断言

しても良いのである。里長と里人達の自信も、根拠の無いものではないのだ。

 ここで楓流がのんびりと待っていたとして、何事も起こるまい。

 いずれはこの安全性も破られるかもしれないが。少なくともそれは、これから千年以上もの時間を経た

後の事である。火薬が生まれ、銃器が発展するまでには、まだまだ長い時間がかかる。

 結局、今は動かされるしかないのだろう。癪(しゃく)に障るが、やはり自分から動き、綻(ほころ)

びを見付けるか作るかしなければならない。

 楓流は諦めて立ち上がった。我慢比べをしても勝機は無いが、それで敗北した訳ではない。少なくとも、

時間はまだある。集袁も今日明日落とされるような事は無いはずだ。

 焦るのは危険である。

 いっそ凱聯を見捨て、独り力尽くで出て行くという手も考えたが。このような山地に生きている人間が、

とてもか弱いとは思えず。それこそ里長の思う壺だろう。

 焦るな、探すのだ。きっと何かがあるはず。人である以上、人と人が暮している以上、絶対に揺らぎは

存在する。それが人であろう。

 楓流はゆったりとした足取りで家を出た。腹も膨れている、散歩するには丁度良かった。



 里内は相変わらず穏やかで、人はそれぞれに自分の時間を謳歌(おうか)し、その役目を着実に果たし

ている。

 衣服、靴、日用品、食物、飲料、様々な物がそれぞれの人間の手によって作られ、生み出され、或いは

集められていく。それは思ってみれば、実に不思議な光景だった。

 これら一つ一つが人の世であり、これらが揃って初めて人は生き、生活してゆける。どれが欠けてもそ

れは描かれず、成り立たない。それでいて、その一つ一つは実に小さな、人間が見る上で実に小さいと思

える仕事なのである。

 派手さはなく、どれもありふれた、そして地味な地道な作業の連続なのだが。ここの住人はそれに対し、

なんら不満も退屈さも感じていないらしい。

 派手好みの多い下界から来た人間としては、楓流は少しく驚きを覚えた。しかしそれは彼らが異界の民

であるからではなく、彼らこそが人間本来の姿をしているのだろう。

 つまりは生きるという、至上の命題を達成する為に生き、それを速やかに遂行し、そして乱れなく行な

う。その為の節度であり。何よりも、彼らは足りると云う事を知っている。

 ただ求めるのではなく、自ら生み、そして満足する事を、生きる喜びを知っているのである。

 それは自然と接する機会が多いからかもしれず、或いは教育の成果なのかもしれないが。楓流には彼ら

の生き方の方が、人間本来の姿であると思えた。

 少なくとも、自分などよりは、遥かに満ち足りて生きているのだと、そう感じさせられる。

 多少悔しさも覚えたが、それもつまらない事だった。そして自分は、自分達は、そもそもこうして暮し

たいはずなのに、争い、戦い、奪い、奪われ、まったく正反対の道を歩んでいるのだと、そんな風に教え

られる。

 いつまでも平穏に暮せないのは、いつまでも自分が、その道を歩んでいないからであろう。ましてや正

反対の道を歩んで、それで平和を望むなど、天を望みながら奈落へ落ちているようなものではないか。

「ふははははははッ」

 思わず笑みが漏れた。幸い周りに人が居ないから良かったものの、もし誰か居れば、おかしな人間だと

思われたろう。それとも、里外の人間など、何をやった所で、不思議とは思わないのかもしれない。

「良い事でもありましたか」

「む」

 声を辿ると、開けた場所にぽつんと残された切り株に、一人の男が腰掛けている。

 身体は痩せ、しかし表情は柔和、ただ何処か張り詰めるような寒気がする、そんなおかしな男だった。

体付きからして、この里の住人とは思えない。楓流達と同様、この里に押し込められた人間なのだろうか。

 しかしそう考えると、里の匂いがしないのは妙だった。

 この男は、どう見ても里に合わない。もしかすれば、この男こそ・・・。

「聴かれましたか」

 楓流は思考を止め、苦笑を返す。いつの間にか自分が思っていたよりも進んでいたらしい。周りに目を

向けられないのは、余裕の無い証拠。彼は気を入れ直し、片頬を軽くはった。

 ぴしり、と心地の良い音が響く。

「ええ、笑うのは良い事です。・・・・貴方が新しく来られた方ですね」

「・・・仰る通りです。でも貴方も、この里の方のようには見えませんな」

「ふふ、私も確かに里人ではありません」

 男は気にも留めない風に言ったが、その事は今の楓流にとって、重要な事であった。

 当たり前のようにここに居ながら、男は里の者ではないという。それはやはり、この男こそ、この里へ

の出入りを認められた、数少ない下界との繋がりなのではなかろうか。

 であるなら、この男と接する事で、何か有益な情報が得られるかもしれない。楓流の胸に、希望が湧く。

 ただ気になる事に、この男は、まるで自分を待っていたかのような言い方をした。この男は男なりに、

何か魂胆があって、自分に近づいて来たと思える。幸運などと、容易く喜んではいられない。

「里人ではないとすれば、貴方は一体・・・・」

「友ですよ」

 男は不可思議な返答をした。仙人の友、異界の民の友、そういう不自然な存在ならば、その不自然さも

納得出来るが、しかし・・。

「友?」

「ええ、友です。何の気兼ねもなく、心から接する事が出来る。ここの里人は私の友であり、家族です」

「しかしこの里の方々は・・・」

「ええ、外界との接触は、極力したくないようです。ですが、接触するからには、例外を置くより他にあ

りません。それが私という事です」

「例外、とは、この里から出られる、ということですか」

「ええ、それをお教えすべく、私は待っていたのです」

 男はにこやかに笑った。しかし手先は常に動き、草をねじったり、靴をはたいたり、衣服を整えたりと、

実に忙しない。

 ゆったりしているつもりなのだろうが、ゆったりしているようには見えない。神経質そうで、何に対し

ても妥協できぬというのか、納得できない事は、どうしても納得しないような、そのような頑固さが見え

隠れする。

 男に悪気は無いようだが、どうもこちらの心までざわめいてしまう。まるで森の中を吹く、一揺れの風

のような男である。どうにも居辛い。嫌ではないが、忙しない。

 しかしそんな事はどうでも良かった。この男の言葉が本当であるなら、楓流にとって願っても無い。そ

れどころか、まさに天恵ではないか。

 だが、何故だろう。理由が解らない。単なる好意で動く男とも、思えない。

「何故」

 つい疑問が口に出てしまった。しかし男はそれもにこやかに吹き消してしまう。

「何故、ですか。それは、それは貴方が、多分、この里にとって、危険な方だからです」

「危険? 捕らわれの、この私が」

「はい、貴方はここに捕らえられるような方ではない。むしろこの里を開き、支配すらしてしまうかもし

れない。例え里長といえど、貴方には敵わないと思えます。その力、あまりにも猛々しすぎる。その意志

の力は、隠者にとって毒であり、しかし決して抗えぬ力だ。

 里人もまた、人間であり。心のそこで、変化をこそ、望んでいるが故に。

 貴方には天意すら感じる。人以上の、しかし人以外の何者でもない、真なる人間。それも仁者ではなく、

覇王となるべき王の相。しかし、私は例え天意でも受け入れる事が出来ない。何故なら、それはこの里に

危険をもたらす事であり。そして何より、私の平穏を乱される事だからです。

 貴方は誰よりも人間だ。だからこそ、危険なのです。だから逃がす。去ってもらう」

「・・・・・」

 楓流にはまるで理解出来なかったが、この男が嘘を並べているのではない事は、その目を見れば解った。

 狂人か、それとも賢人か。その切れ長の目は、彼が抱いていた印象よりも、尚深い。

「供の方は諦めて下さい。しかし、貴方一人ならば、私が請け負いましょう」

 楓流は迷った。そして不思議とこの男の事が、もっと知りたくなった。それは初めて他者に抱いた種類

の、興味だったのかもしれない。




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