3-7.あるべき者は、あるべき処へ


 男は雲海(ウンカイ)と名乗った。何やら僧や神主にでもなりそうな名前だが、そういう宗教的な格好

はしていない。そういう役目を任せられているのではなく、単に自分はすでに俗世から身を引いたのだとの、

無言の意思表示なのだろう。

 本名を明かせぬ理由もあるのかもしれない。

 この大陸では古来から、天帝とその臣下である四海竜王が祭られている訳だが。本来、その祭主となるの

は王やその代理となる大臣であり、僧や神主といった神職というものは存在していなかった。

 王は、天帝から地上を託され、初めて王を名乗れるが故に、王権と神権とは、古来から云わば一つ所のモ

ノ。決して切り離す事は出来ず、その権限を他者へ任すなど以ての外である。

 しかし時が流れるに従い、王の神性は名分だけのモノへ変わり果て。神所、神官、或いは暦所といった、

そういう役職へと、祭礼の執り行いに関してのみ、託されていく事になった。

 勿論その神性も受け継がれ、神職の権能は高まる事となる。

 それから王と神職の間で諍いが起こり、一時は神職が隆盛を誇ったが、それもすぐに王に圧され。ただ

祭礼を執り行うだけの、王の代理職に戻り。その神性は完全に剥奪、遂には名ばかりの職業にまで成り果

てた。

 しかし今更剥ぎ取った神性と王権を同化する訳にはいかず、徐々に二つは切り離され、当時からすでに

別個のモノと考えられていた。

 つまり王になるには確かにそれに足る資格が必要だが、王となったからといって、それだけで天意に適

うのではなく。王になってから、その資格を試される事となっていくのである。

 神性が王にあるのではなく。神性を認められるから、王となれるのだ。

 言い換えれば、人と天を完全に切り離したというべきか。天は天、地は人の物と考えられるようになっ

たとも受け取れる。

 甚だ傲慢な考えだが、実際に地上を支配している(と人間達は疑わず考えている)現在、それこそが当

たり前の考えであった。それは当時も今も変らない。おそらくは未来でさえも。

 王神分離が進んでいくと、大陸は人の為にあり、王ですら代理人、代表者に過ぎず、その資格無しとな

れば、王位を認められない。となっていくのだが、それはまた後の話。

 この頃ではまだ人権よりも王権が重んじられ、王となれた事は、少なくとも天に可能性を見出されたと

いう意味であり。神の、天の直属の臣として認められ、その他大勢でしかない人民達を、思うままに治め

る権利を認められたのだと、そう考えられていた。

 そう言う意味で、四海竜王とすら王は同格であり。確かに竜王の方が位階は遥かに上であるが、王もま

た天帝の直属の臣である事には、なんら変わりなく。云わば神の一人であるのだから、同じ神である竜王

を祭るのはおかしくなる。

 しかし再び神性を神職へ戻せば、同じような諍いが起きよう。

 そこで祭礼は国と王に仕える官ではなく、民間にまで引き下げられ、長老や権力のある地主や大商人な

どに任される事になった。

 こうする事で天の権威を落す事無く、神性のみを天に還せ。その上、王権を天に認められたままで、祭

礼はただの天への礼、地への祝いであると、祭礼という儀式を簡略化する事で、変化させる事が出来たの

である。

 勿論、そうとなっても、祭主になる事は非常な名誉とされ、その名誉を毎年毎年金銭に換える事が出来、

祭礼ではない、気楽な祭とする事で、民を慰撫する事もできた。

 王にとっては真に都合の良い方法で、王と神を切り離して尚、充分な恩恵を得る事が出来たのである。

 そうなるまでには様々な出来事があったが、とにかくこうして王、神、祭礼という一つ所から分離した

三種は、落ち着く所へと落ち着く事になったのである。

 神を称える祭主となるには、特別な法があり。雲、空、天、雨、海、地、風、陽、陰、といった大いな

る自然を表す言葉を用い、祭礼時のみ名乗る特別な名を持つ必要がある。

 そうしてこそ、初めて人を解脱し、普段の自分ではなく、自らもまた雨や風のような自然現象の一つと

なり、神意へと触れる。云わば半人半神の存在となり、祭礼を執り行う事が出来るのである。

 もし人間としての名で天に触れようなどとすれば、ただちに天罰が下り、竜王の怒り、一雷の下に、そ

の人間は存在すら撃ち消されてしまうだろう。礼を失した人間はすでに人間にあらず、竜王の怒りを止め

る手立ては無い。

 この半人名とも言うべき名には、人ならざる者という意味合いがあるので。世俗から離れ、隠者として

暮す者の中には、これを真似た名を名乗る者が少なくない。

 長くなったが、つまり雲海とは偽名であり、彼もまた隠者であると、それだけを覚えておいてもらえれ

ばいいだろう。

 ただ、彼は祭主としての特別な格好をしていないから、さほど隠棲に拘っているのではなく。或いは何

かから逃れる為に、偽名を使っていると見た方が、正鵠(せいこく)を射ているかもしれない。

 まあ、どちらにせよ、雲海の事情など、楓流には関わり合いの無い事。彼はこの里から逃れられればいい。

 勿論、言うべき事は述べておかねばならぬが。

「ここを出られるなれば、私は何でもしよう。しかし、雲海殿。凱聯を捨てていく訳には参りませんし、

私には貴方の真意も解らない。天意だの王の相だの、その手の言葉には信が置けませんな」

 雲海は微笑して頷く。相変わらず細々と手指を動かしながら。

「確かに、そうでしょう。連れを見捨てて逃げるような方で無い事も、単純に言葉に釣られるような方で

無い事も、私は重々存じております。だからこそ、里長も貴方を逃がさぬ気持ちが強くなる。言ってみれ

ば、貴方に惹かれているのです。おそらく、私もそうなのでしょう。でなければ、こうも胸を動かされる

事はなかったはず。

 貴方は、言うなれば、・・・・・仙界の息吹を感じる。人ならぬ人、人であるが為に人。言葉にするに

は難しいですが、ようするに俗気があまり感じられない。どちらかといえば、貴方はここの里人に、とて

も近い。いや、この里人よりも、より自然の発する何かに近い。

 ええ、解ってもらおうとは思いません。それにのんびり話しているような暇も無いはず。ここを出たい

のか、それとも、少なくとも長き間はこの里へ閉じ篭るのを選ばれるか。私が言いたいのは、どちらを選

ばれるのかということ。第一、信じようと信じまいと、ここを出るのであれば、私に頼る他ない。そうで

はありませんか」

「・・・・・・・・」

 こう返されれば、黙り込むしかなかった。

 雲海の言う通りなのである。今すぐにでもここを出たければ、彼に従うより他に無い。何しろ、他に手

立てを考えられないのだ。ここに何ヶ月、何年も居れば、活路を見出せる可能性もあるが、そんな時間は

何処にも無い。

 一月くらいならともかく、二月も三月も長く集袁を空ければ、また余計な事を企む者が出てこないとは

限らない。まだまだ大陸には、豪、袁など及びもつかぬ、数多の勢力がひしめいている。油断していれば、

簡単に呑み込まれてしまうだろう。

 正直言って、これは魅力的な提案だった。凱聯を厄介払い出来、その上ここをすぐにも出られる。上手

く取引すれば、何かしらの技術を得られる可能性も生まれる。都合が良すぎる程だ。

 しかし本当にそれで良いのか。良い事の裏には、必ず害悪な事が潜んでいる。あまりにも都合の良いこ

の話にうまうまと乗れば、それだけの代償を、後々まで支払わされる事になりかねない。

 だが、だがしかし、今のまま暮していても、時だけが過ぎていくだけ。手立ては無い。

 時がゆるやかに感じられるこの里に居ても、やはり時は外と同じように動いている。異界も所詮は人の

世界、何も変わらない。

「質問に答えていただけますか」

「答えられる事なれば」

 簡単には決められない。そこで楓流はまず、集まるだけ情報を集めようとした。

 嫌なざわめきが、強く胸を打つ。どちらにしろ、酷く厄介な事になりそうだ。



 里長が眉根を顰(しか)め、雲海を睨むように見ている。

 また何か仕出かす気かと、その目が無言で問いかけているようにも思えた。

 意外にもこの二人の関係は、あまり上手くいっていないのかもしれない。楓流は少しく不安を覚えたが、

それでも今は見ているより他になかった。成り行きを見守るしかない、その時まで。

「貴方はよくよく外の者がお嫌いのようだ」

 里長が疲れたように呟く。おそらく誰かに向けた言葉なのではなく、零れ落ちるように流れ出たものだ

ったのだろう。まるでその声が溜息その物であるかのように感じられ、深い苦悩が見え隠れしていた。

「いえ、外の者という括りではなく、この方自身が危険なのです。里長、どうかこの方だけでも、下へお

返し下さい。貴方の望みは、もう一方だけで叶えられるはず。多くを望むものは、その望みにて滅ぼされ

ると、私は先代の里長に教えられました。貴方もその耳で聞かれた事があるはず。

 それに、一度入った者は出られない、という法もありません。ならば、ここでお一人を帰したとて、誰

に責められる謂れは無いはず。

 聞けばこの方は一国の主であるとか、この方にもこの方が負わなければならない天命と、責務がおあり

なのです。ならばそれを汲んで差し上げるのも、天意に適うのではないでしょうか。欲の為に引き止めれ

ば、必ずや悪しき事をもたらしましょう」

 雲海の声に澱みは無く、まっすぐに見詰めている。傍から見ている楓流も寒気を覚えるほど、張り詰め

た光景であった。

 しかし里長は揺るがない。雲海の言葉など、その身に触れることすら叶わぬとでも言うが如く、どっし

りと座り込み。眉のみを動かして、絶えず不快の情を表している。

「雲海殿、貴方をこの里へ置いておき、自由にさせているのは、そのような事を聞かされる為ではありま

せん。よろしいか、例え法は無くとも、不文律というものがある。そしてその不文律こそが、我ら、いや

人の間では大切なモノなのです。

 貴方は天意、天意と仰られているが、この方を帰せば、大地を今まで以上に乱す事になろう。王威を見

られるのは、雲海殿だけではない。私とて、とうに気付いている。だからこそ、この里へ引き止め、覇王

を生まぬようにする事が、真に天意に適う事なのではありませんかな。

 それを証明するように、この方は覇王となる前に、ここへ来られたではないか。これこそ、この方を自

然へと還せという、天の御意思に違いない。

 見なされ、楓流殿から発する仙気を。これは生来だけのモノでは無い。おそらくこの方も自然とともに

生きてこられたのだ。ならばこそ、今ここで自然に還す事が、真に天意に適うのではないかな」

 見た所、歳は親子程離れているが、この二人は兄弟弟子のようなものだったのだろう。

 言い回し、考え方、そして気魂のようなものが、どこか似ている。まるで鏡に向って、お互いに答弁し

ているようなものであり、一向に終わりが見えない。

 二人の言葉は、挙げられた名を言い換えれば、そのままどちらにも当て嵌まるくらい、底にあるモノが

似通っている。

 記録にはこれ以上詳細に残されていないが、同じような応酬が何度も繰り返され、この議論は食事や休

憩を挟み、丸一日は続けられたようである。

 二人には楓流の問題だけでなく、元々何か含む所があったらしく。時に二人の過去へと話題が外れ、何

度か口喧嘩のような事になる時もあったらしい。

 雲海の方は兄弟子として敬意を払っているようだが、里長の方がどちらかと言えば一方的に彼を嫌って

いる風だった。理由は解らないが、確かにこの雲海は、何処となく敵意を誘うような所がある。

 才気走っているというのか、あり過ぎて彼自身も抑えがきかないのだろう、競争心を無闇に煽るように

感じる。卑屈さを一片も感じさせぬその強い眼差しが、相手に誤解を及ぼすのかもしれない。

 例え一応の礼を含めているとはいえ、兄弟子に対し、このように率直な物言いをするべきではないし。

話を付けるにしても、もう少しやり方があるはずだ。真正面から自分のやり方を否定されて、しかも若い

弟にそれを言われ、気分の良い人間などどこに居ようか。

 悪気が無いのは良く解る。真面目さ、真摯さと思えば、雲海の態度も腹が立つ程では無いが。どうして

も小煩く聞え、不快なのは免れない。

 それでも時が経つに従い、雲海が場を圧倒し始め。疲れてきたのだろう、里長が口篭る事が多くなって

きた。

 それを気遣ったのか雲海が口数を減らし、その口調をやわらかくした所で、とうとう里長は折れた。こ

れ以上続けても、里長の品位を落すだけだと、そう考えたのかもしれない。

 いや、もしかすれば、初めから勝つつもりが無かったのかもしれない。雲海はあまりにも強固だった。

彼が楓流を遠ざける事が天意に適うと信じた以上、誰もそれを止められないのだろう。終わってみれば、

里長の方が痛々しく見える。

 里長が始めに洩らした言葉は、或いはそれに対する諦めだったのかどうか。

 一度折れると話はどんどんと進み。凱聯に里長の孫娘を娶(めと)らせ、跡継ぎとする事さえ叶うのな

ら、楓流の事はもう気にかけない、という事に決まった。

 里長は疲れたように頷き、雲海はそれを無視して優しげな笑みを楓流に向ける。事は彼の計算通りにな

った訳だ。雲海には疲れすら見えない。

 しかしそこで今まで黙っていた楓流が、初めて異論を述べる。

「凱聯を質に入れ、私だけが帰る訳にはいきませぬ」

 里長、雲海だけでなく、その場に居合わせた者達は、その言葉にあんぐりと口を開き、呆然と楓流の目

を見やった。どこをどう見ても、冗談を言っているようには見えない。これは何と言う事だ。

「何を馬鹿な事を!!」

 当然のように里長は激怒する。ここまで議論させ、その上で息子のような歳の若者に折れてやったのだ。

例え当事者といえども、異論を挟むとは何事だろう。これ以上人を馬鹿にした話もあるまい。

 幸い近くに刃が無かったから良かったものの、里長は今すぐにも切り伏せん勢いで立ち上がった。

 雲海も呆然自失と楓流を眺めている。呆れを通り越し、彼は固まってしまっていた。里長を抑えようと

いう考えも浮かばないようだ。

「馬鹿なのは、そちらの方だ!!」

 しかし楓流は構わず怒鳴りつける。むしろここを潮とばかりに、言葉を存分に叩き付けた。

「誰が凱聯を置き去りにすると、そのような事を申したか! お二人がどうしようと、何を話されようと、

何を決められようと、私の知った事では無い。賢しげに何を言う! 人を無理矢理閉じ込め、帰すの帰さ

ぬのと、片腹痛い。

 私が従うのは天命のみ。誰がどう考えようと、何を望もうと、私の道を決めるのは天と私のみ。天意に

適わねば死せるだけ。今更余人に決められる謂れなど無いわ!!」

 それから楓流は雲海を圧してどかし、彼の居た場所へどっかと座り込むと。今度は自分の番だと言わん

ばかりに、ぎろりと里長を睨み付けた。

 そう、今こそが、里長を説き伏せる好機だったのである。おそらくこれを逃せば、里長の心が揺らぐ事

はあるまい。楓流はこの時を辛抱強く黙って待っていたのだ。

 里長が疲労する時を。




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