3-8.汝、褥より翔び立たんか


「そもそも」

 と言う。

 そもそも、里人達がこの仙境に篭ったのは、何の為であったか。

 解脱、悟り、そういうものでは無く。否定、肯定すらも無く。結果として、この地へ落ち着いたに過ぎ

ず。結局は、

「貴方達は今も尚、逃げ続けている」

 泰山も逃亡の果てにあるのではなく、所詮は一時の逃げ場でしかない。逃げ続けた挙句、疲れ果て。一

晩だけ、ふと目に入った空き家へと篭ったようなものだ。

 それを天啓といえば、そうだろう。しかし一時に過ぎぬ。

 この地に落ち着いたから何だと言うのか。しかも閉ざしていながら、外の血を求めるとは、一体どう云

う事なのか。こうもこの里に外界の影響が強いのはどう言う訳か。

 何故に、外界へと筒抜けているのか。

「それは否定しないからだ。結局は、望んでいるのだ、貴方達は!」

 逆に依存しているとすら思える。外界を否定するのではなく、自らの安全を望むのでもない。震えなが

らも、忘れられる事を恐れている。その存在意義を失う事を恐れている。

 確かに、最高の技術を保ち続けるには、比較対照となる外界の技術を、常に知り得ている必要がある。

 その為に僅かながら開き、しかし決して一度訪れた者を逃さぬ為に、特別の理由無くして、この里から

抜け出す事を禁じ。来訪者を取り込んでしまう。

 自らの技術力を衰えさせぬ為には、こうするしかない。と言われれば、理由になるかもしれない。それ

が、この高度な技術を保つ事が、先祖の誇りを護る事になる。そう言われれば、これも頷くしかない。

 しかし、それこそがそもそもの元凶である以上、何故それを捨て、完全に外界との接点を断ち、完全な

る平穏、本当の意味での隠者としての生活を築かなかったのか。

 何故、危険を推してまで、知らしめる必要があったのか。

 矛盾極まりない。何故だ。

「何故、それを捨て。追われる身から、自らを解放しなかったのか」

 噂にかくあり。その技術故に、里人はこの里に篭る以外になかったのだと。

 だが、それも遥か昔の事。人は人の時間でしか基準、比較出来ぬ以上、たかだか何十年ですら、途方も

無い大昔である。この時代、それだけ時が流れれば、八割の人間は死んでいる。

 そうなれば、とうに記憶にも、記録にすら、残っていない可能性の方が高くなる。

 記録が王の特権であった以上、民間の識字率がほとんど零に近かった以上。この里人達も、忘れさせよ

うとすれば、簡単に存在を消せたはずだ。例え痕跡は民間伝承として残ったとしても、それが実在してい

るなどとは、誰も信じまい。

 彼らは滅び去った過去となっていたはずなのだ。

「外に頼らずとも、この里はこの里のみで生きてゆける。だのに何故か!」

 技術か。しかし技術を向上し続ける事が、必要とは思えない。今は失われた技術でも、いかにそれが貴

重であっても、果たしてそれがある事で命を狙われる、騒乱の原因となるのであれば、それに一体何の価

値があるのだろう。

 確かに。暮らしが便利になり、生活が向上し、そして飢える人が減る。そういう面もあるだろう。

 しかしそれ以上の人が争いで死に、あらゆる物が消費されるとすれば、そんな技術に価値というものが、

存在するのであろうか。存在していいのであろうか。捨てさるのが賢明とは言えまいか。

 それに例え進歩しようと、

「支配者が望む限り、圧政を敷く限り、いくら食物を生産しても、結局は全て取られてしまうはずだ」

 そう、結局国も王の私物でしかないこの時代。民がいくら国を富ましたとて、それで民が救われる事は

少ない。どれだけ技術があっても、どれだけ豊かであっても、それで救われるのは、それを本当の意味で

享受出来る人間だけである。

 搾取される側には、小さな救いも無い。

「それは解っていたはず。古来より、王権が誕生して以来、それは解っていたはず」

 ならば何故、里人は忌避しながら、求められる事を欲しているのか。

「いや、言い訳は聞かぬ・・・」

 楓流は里長の機先を制した。ここで余計な言葉を吐かれるわけにはいかない。全てを支配しなければな

らない。この場に満ちる全ての気魂を圧し、ただ一人の王とならねば。

 空間支配、それこそが人を圧倒する力ではないか。

「結局、貴方達は、自らの名誉欲に溺れたのだ。愚かしくも。この里は、穏やかに見えているが、その実、

下らぬ欺瞞(ぎまん)と欲望に満ちている。貴方達は、この雲海も同様、人の妄執に支配されている。決

して逃げ出せている訳ではなく、そうである限り、ここも安住の地とはならない。

 それは貴方達が、そう望んでいるからである。その心がある限り、決してそこから離れる事は出来まい。

 先祖から受け継ぐ遺産を、変えてはならぬと言うか。何故変えてはならぬ。理由などは無い。先祖を言

い訳に使いながら、ただ貴方達が望んでいるのではないのか。貴方達こそ、先祖の英霊を冒涜(ぼうとく)

している。恥と思わぬのか。何故気付かぬふりをし、誤魔化して生きていけるのだ。そこまで堕ちたか。

 情けないと思わぬか。全てにもったいぶった理由を付け、先延ばし先延ばしにし、子や孫に難題を押し

付けてほっとしている。先祖を言い訳にして、自分は安楽にしている。都合の悪い事は先祖、面倒な事は

子孫。

 自らのみを考え、この世代は乗り切った、などと平気で言う。そんな事で満足するべき事が、それが貴

方達のいう天意というか。そこに天意などあるものか、それこそ人の欲そのものではないか。

 天は何も望まず、天は誰も望まない。天はあるがままにこそ在り、何者の、何事の理由にもならない。

そして理由も与えない。だからこそ天であり、至上であられる。望むのは、人ばかりであろう。罪は全て、

人ではないか。天は果たしてどちらに怒るだろう。悪業はどちらにあるとお思いか!」

 楓流の言葉がぴしりと響く。畳み掛けるような言葉が、後から後から折り重なり、矛盾や本来は無意味

な言葉でさえ、全てを内包しながら、重い厚みへと変えていく。

 圧倒されると云う事は、そういう事か。ただただ気を飛ばされてしまう事なのか。

 解らぬが、そこに確かな勝利があるとすれば、相手の戦意が失した時だけであろう。

 とすれば、この時の里長も雲海も、そう言う意味で敗北している。

 楓流は二人の言葉を真似たに過ぎないが。そこには純粋な怒りがあり、そして僅かな正当性があり、里

長に少しばかりの罪悪感があった。里長はそうである限り、抗えない。少なくとも、自分でそう思い込ん

でいる。

 雲海もそうであろう。結局彼もここに辿り着いた、流れ者。逃れたようで、逃れられない。妄執に憑か

れた、一匹の亡者にすぎない。亡者が何を言おうと、誰がそれを聞くだろう。誰に声が届くだろう。

 罪人と亡者が如何に舌鋒(ぜっぽう)研ぎ澄ませたとて、その言葉が本来無力である事は、当人達が一

番良く知っている。愚かしくも、初めから皆それを知っている。

 楓流もそれは同じだが、同じである以上、より強い方が場を制す。然りである。

「戯言を並べても、この里はいずれ滅びる。ならば今死ぬもまた同じ。権威を振りかざす愚か者に天恵無

し。亡者に従う法も無し。我は天命に従い、我が敵を誅しよう。・・・覚悟なされよ」

 楓流はその気を込めるように、懐から短刀を取り出した。抜き放てば、天意が示される。



 結局、言葉などどう並び立てても、どう繕っても、同じである。

 何を言ったとして、言葉は言葉として届かない。示さなければならぬのは、そのようなものではない。

 意志である。決意である。確固たる志である。

 正当性だけでは、何の力も生み出さない。それは上辺を塗り固めるだけの、事後承諾にも似た、結果論

であるはずだ。所詮は力であろう。威圧、圧力である。意気の、勢いの強い方が勝る。

 人を動かすには、やはり相応の力が要る。それは他者を動かす以上、他者の心に宿る力である。

 人が他者に動かされる事は無い。確かにそれがきっかけとなる事は多いが、そこに自らの意志が無けれ

ば、動かない。人の肉体はそういう風に出来ている。

 例え強制されようと、逆に望もうと、そんな事は関係の無い事だ。人は自ら動かす事で動く。肉体はこ

の世で唯一つだけ、自らが自由に出来る僕である。従順とまでは言えないものの、ある程度の敬意は払っ

てくれている。

 それは精神と肉体が、共生していると言っても良いのかもしれない。

 他者が思うままに自分を操る事は出来ない。神ならば別だが、人にそういう力は備わっていないのだ。

 それこそが唯一与えられた本当の意味での自由であり、個という祝福なのだろう。

 つまり、人を動かす為には、他者の心へと働きかけ、その当人に動かさせなければならない。

 これは面倒である。

 しかし頭の中で考える程、困難ではない。

 今楓流が突き出している刃。殺意の満ちた鉄片。無論本当に殺す気は無いが、彼の心の中では何度も何

度も相手を刺し殺しているはずだった。

 彼は繰り返し思い描き、視線として目を通して相手に送り続けている。

 するとただ突き出しているに過ぎない刃が、何故だろう、まるで閻魔(えんま)のような絶対的な裁定

者に思え、そこへ抗えぬ恐怖を感じるのである。

 楓流が如何に喧嘩を売ったとて、短刀一本で多数に勝てる道理は無い。だが今ここにある抜き身の刃は、

彼の持つその一本だけであるという事実が、不可思議な力を加える。それが人の判断を狂わせる。

 こうして絶対性、正当性を帯びた刃は、突きつけている楓流にも不可思議な雰囲気をまとわせ、膨らん

だ殺気がその場を奔流し、圧倒する。

 里長も雲海も虚を突かれた。それは彼らの心が無防備であったと云う事だ。

 心は脆い。常のように何重にも気構えというモノで包まれていれば、このような恫喝にも揺らぐ事はな

かっただろう。しかし今それがすっかり剥がれてしまっている以上、心を守るモノは無く。圧倒した何か

が彼らの思考へ浸透していく。

 そう、高き所から低き所へ並ぶように、それはその場に等しく満ちるのである。

 しかも意志というモノはおかしなもので、交じり合って違う物に変化するのではなく、そのほとんどが

強い方に塗り替えられてしまう。

 里長、雲海、他の同座している者達。彼らの心が等しく楓流の殺意に塗り潰された。

 楓流は本気である。少なくともそう錯覚させるくらいは、彼は本気で殺意を示している。死なない程度

には必ず刺してやろうとまで、考えているくらいだ。

 心が殺意に圧された時、芽生えるのは誰もが同じ、言葉に出来ぬ恐怖。どうしようもない恐怖。凍りつ

くような恐怖。そこから抜け出す為には、より大きな力を生むしかないが、今の彼らにはそれが無い。

 何故ならば、何よりも確かな形で、彼らの目の前にあるからである。抜き身の刃として、楓流のどうし

ようもない決意が示されている以上、後手に回った彼らには、焦りしか生ずる事が出来ない。

 おかしい事は解っている。常に違和感がある。こんなはずではなく、こんな場面はおかしいと。それは

不可能だ。いくら刃を突き立てようと、勝機はこちらにあるはずだと。そういう思いは確かに有る。

 しかし虚しい。何もかも圧倒され、消え果てて逝く。確かなはずなのに、今は信じられない。疑えば、

それは力となれない。

 人が確固とした証明を渇望するのは、己の心に何一つ確かなモノを感じられないからかもしれない。

 里長は屈服するしかなかった。彼が劣っていたのではない。機を先じられた、楓流よりも疲労していた、

それだけの事である。

 詰まらない理由だが、人とはそういうものだろう。詰まらない理由なのだ、全ての事情などは。




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