3-9.睥睨するは意志力なるか


 放たれた刃が、したたかに彼らを睨み据えている。その前には何者も反意を許されない。首筋に感じる

寒気だけが、その事を雄弁に告げている。何処にも逃げ場はないのだと。

 ぬめるような気配に包まれ、一言も発せない。想いが力とならず、明晰なはずの頭脳がぴたりと動かな

い。舌先は奮え、怯えにも似た感情が奔る。

 雲海でさえ、屈服するしかなかった。彼は楓流という人間を見誤っていた事に気付く。彼は確かに王威

を持っている。まるで幼子が父親を見るような気持ちにさせ、彼は全てを圧する。しかしそれだけではな

い。そこに加えるべき何かを、彼は多分知っているのだろう。

 疲労した脳と身体が、雲海からも意志力を奪っていく。結局、根競べなのだ。楓流が如何に優れようと、

所詮自分には及ばぬと、何処かで侮っていた自分は、その時点で油断し、勝機を失していたのである。

 今となっては何も考えられない。真の敵は里長ではなく、楓流自身であった。その事を悟れなかった雲

海には、もう楓流に抗うだけの余力は、残されていなかったのである。

 肺が悲鳴をあげているのに気付く。完全に圧倒され、呼吸する事すら忘れていた。

 すでに呑まれてしまっている。

「・・・・どうせよ、と、申すのか」

 里長が搾り出した言葉で、辛うじて場の全ての者が呼吸を取り戻した。送られてくる何かで、心中にも

新たなる力が湧き、再びその身体に活力が漲(みなぎ)る。しかし最早情勢は覆せない。

 いくら叫んでも、例え拳を振り上げようと、自ら敗北を認めた以上、力関係に変化は無い。白々しくな

る。自分で叫びながら、それを自分で信じられないのである。何をやっているのかと、自問自答しながら

何をしても、それは意志ではなく、ただの迷いなのだ。いつまでも。

 人の機とは即ち呼吸の事であり、これを乱されれば、何事も為す事が出来なくなる。たった一欠けらの

呼吸、それでも無限の力を生む事があるが。逆に言えば、それがなければ、一切の力を生み出せない。

 呼吸を乱されれば、そこで終わっているのだ。

 人間はそういう脈動で動いている。全ての動作には、常に呼吸がある。そういう風に創られている以上、

それだけは鍛えようも、変えようも無い。力の抜けた間を捉えられれば、無力なのだ。

 楓流はそういった事をじっくりと確認し、全てを終えた事を悟ると、ゆっくりと刃をしまった。この刃

もきっかけに過ぎない。用を成せば、後は無用の物となる。

「まず、ここから我らを出してもらおう。貴方の孫娘も連れて行く」

 里長は悲鳴をあげた。

「そ、そんな事をすれば、子種が尽きてしまう。わしも長くは無い。跡継ぎが居なければ、誰がこの里を

まとめられるというのか」

 しかし楓流は冷酷だ。

「そのような事は問題ではない。策を講じた時は、しくじった後の事も覚悟すべきである。そんな事は良

く解っているはず。貴方はしくじったのだ。敗者には何の権利も無い」

「むう・・・・」

 里長には力がなかった。あれだけあった気魂が、まるですっぽり抜け落ちてしまったように、その動作

にも表情にも声にも力が無い。溜息と共に、全てが奪われてしまったのだろう。

 口惜しそうに口元を歪めているが。こうなった以上、覚悟したはず。いや、するより他に無い事を解っ

ているのだ。これ以上多言を弄すれば、それこそ自らを貶(おとし)め、より力を失する事となり。そう

なればもう楓流に口を開く力すら、消えてしまうだろう。

 雲海は黙ったまま、驚いたような目を変えず、状況を窺っている。この場は、彼の手からもとうに離れ

ている。彼は部外者として、隔離されたようなものだった。何も言えない。視線も言葉も届かない。

「しかし、私も鬼ではない。凱聯と娘の間に子が生まれれば、貴方達へ引き渡してもいい」

「本当か!」

 里長は過敏になり、楓流の意のままに反応する。一つの言葉でさえ、彼には絶対の力を及ぼし、その為

に心が二転三転する事にも、彼は疑問を抱けない。その動きについて行くのが精一杯で、まるで楓流しか

居ないかのように、彼の言葉だけが脳裏へ響く。

 里長としては、こうなった以上、子種だけが問題だった。楓流と凱聯を帰す事に、異議を唱える事は出

来ない。しかし自らの血筋を護る事が、即ちこの里を護る事と考える里長にとって、孫娘を取られる事は

死にも等しい宣告なのである。

 だから、出来た子供を譲ってくれると言うのであれば、それこそ願ってもない事であり。敗者である里

長にとって、全てに優先してもいい、まったく降って湧いたような幸運なのだった。

 例えそれが詭弁(きべん)であったとしても、縋(すが)り付くだけの価値はある。

「ただし、条件がある」

「解っておる。こうなった以上、是非も無い事だ」

「ならば、貴方達の力を借り受けたい。私と共にこの山を下り、私と共に尽くして欲しい。無論、全員と

は言わぬ。残りたい者は残ればいい。しかし、技術の長ける者は、須く下りてもらう」

「し、しかし、そんな事をすれば・・・・」

「この里は滅びるかもしれぬ。護るべき技術を伝えられなければ、在る意味を失するかもしれぬ。だが、

どの道私が凱聯と娘を連れて行けば、いずれは滅びよう。ならば、ここを出でても良いのではないか。む

しろそうすべきなのではないのか。使われない技術をいくら保存しようと、何も用を為さぬのだ。

 それに捨ててしまえば、貴方達は安全に暮せるだろう。貴方達が特別だからこそ、狙われる理由がある。

先も言ったが、そんなものが必要であるとは思えない。貴方達の祖先が望み、貴方達が望む平穏を得る為

には、害にこそなれ、まったく必要の無いものだ。

 いずれにせよ、いつかは選択せねばならぬ。技術を捨て、全てを捨て、真の隠者として隠れ生きるか。

それとも外に出で、その力を役立てるのか。

 私に天意があるのかは解らない。しかし、少なくとも、貴方達を無下に扱うような真似はしない。その

気があるのならば、喜んで迎え入れよう」

 里長は悩んだ。だが結局は頷くしかないのだ。ここで逆らっても、例え逆らえても、楓流の言う通り、

彼の血筋は途絶えてしまう。どうせ滅びるのならば、賭けても良いのかもしれない。先祖が特異な技術を

伝え続けたのも、確かにいずれは使う為であったはずなのだ。

 その気になれば、どうにでも解釈できる。人はそうして生きていく。どちらが間違っているか、どちら

が正解なのか、そんなものは長い年月が経てば、答え自体が風化してしまっている。人も歴史も時代も、

全ては変わり続けて生きるのである。

「よかろう。それしかないのであれば、確かにそれこそが天意、天命であろうよ」

 里長は最後に力なく頷く。正直なところ、未来や過去よりも、彼はただ疲れきっていたのだ。



 雲海は何も言わなかった。

 彼からすれば、見事に楓流にしてやられた形になり、前哨戦にでも使われた格好となってしまったが、

今更何を言う事も出来なかった。

 里長が屈し、雲海もまた敗北したのだ。楓流に綺麗に負けてしまったのである。

 いつの間にか、この里が楓流に協力する事は、当たり前の事とされてしまい。それを雲海自身も不思議

と受け容れてしまっている。

 腑(ふ)におちない悔しさは残るが、反抗しようという気力も、楓流の考えを変えさせようという意志

も、最早湧いてこないのである。情熱が湧き上がらない以上、何を言っても空回りしてしまう。人を説得

するには、まず自分がその言葉に自信を持たなくてはならない。その言葉に酔わねばならない。

 それが出来ない以上、何を言っても無駄だった。

 しかも憎めない。鮮やかな裁き、奇術師のような術、そういうもので怒りも嘆きも、全ては誤魔化され

てしまっていた。

 笑うしかない。そういう気持である。

 そしてこうと決まったからには、彼は自身の考えの方を変えてしまい、少しでも里の為になるよう、つ

まりは自分の為にもなるよう、積極的に楓流に協力した。

 彼に満足してもらって、一刻でも早くこの里を出てもらわなければならない。雲海が感じた通り、楓流

の影響力は強すぎる。そこには絶対的な何かがある。どうしても心を乱される。彼が本気になれば、誰も

止める事は出来ないのではないか。

 当たり前に支配する。つまりはそれが王威であり、楓流の、意志というモノの力であろう。

 退かざるをえない威圧感は、それだけで王に相応しい。というよりは、王以外の何者にもなれない。

 それが幸福かどうかは知らないが。楓流は覇者であり、全てを打ち砕き支配する者である。逆らおうと

しても無駄な事だった。対抗しようなどと考えていた雲海の方が、愚かであったのだ。

 私欲を最低限とし、意に反しても積極的に協力する事が、覇王の被害を食い止める、ただ一つの方法だ

ったのである。ならば、もう二度としくじるまい。

 雲海は里長と相談し、この里でも最も巧みな技術を持つ者を選び、その中から強靭な体力、或いは強靭

な精神力を持つ者を選んだ。歳は関係ない。実践出来る力が足りずとも、指導出来れば同じ事である。ど

ちらかに使えれば、それで楓流は満足するだろう。

 里長の孫娘も、大人しく凱聯と一緒に送り出す事にした。里長は最後までしぶったが、しぶった所でそ

れ以外に無い事は、彼も重々承知していたのである。それに楓流は約束を必ず守るはずだ。幸い、それだ

けは信用出来る。

 孫娘が身篭り次第、こちらの里へ送る事を、楓流は天と泰山の名の下に宣言した。凱聯は不満そうだっ

たが、逆らう様子は見えない。彼もこの状況が解らぬ程、馬鹿ではないのだろう。

 楓流以外に執着を持たないこの男にとって、むしろ用が済めば離れてくれる女だと考えれば、好都合な

のかもしれない。凱聯自身が自覚していたのかは知らないが、少なくとも楓流の方はそう思っていたよう

だ。一緒にさせるよりは、むしろ帰した方が、娘とその子供にとっても幸せだろうと。

 凱聯は、決して誰かを幸福へ導く事は出来ない。そういう人間なのだ。

 ともあれ、こうして準備は着々と進み、雲海を道案内に立て、早々に下山する事になった。

 この山に滞在したのが、わずか数日であったとは思えない程、濃密な時間を過ごしたが。それよりも楓

流は、この大いなる自然とまた離れる事の方に、一抹の寂しさを覚えたようである。

 彼は泰山に踏み入れて以来、目に見えて活力が増した。それはここに居る事が、彼にとって如何に自然

であるかを現していたが、かといってそれで彼の道が変わる訳ではない。

 楓流は下山し、再び人の中へと帰る。数日立ち止まる事はあっても、もう二度とこの自然に還る日は来

ないだろう。あの日父に放たれて以来、楓流はその道を失ったのだ。

 万感の想いを込め、楓流は一度だけ、この神なる山を、仰ぎ見た。



 雲海の案内は行き届いており、来た時の半分にも満たない時間で抜け、麓の村へも寄らず、最短の道を

行き。少しでも早く、少しでも遠くへ、楓流を引き離していった。

 無理な歩速ではなかったが、雲海の顔に焦りがあったのは事実である。とにかく急いでいた。

 楓流達は黙って歩き、彼の云う事に素直に従った。雲海は達者だった。山賊強盗から世情まで、あらゆ

る事を知っており、その内部まで全てを理解しているようにも思える。

 楓流は再び彼への興味が深く湧いてくるのを感じた。

 里長にしても、全ての事情を知っている訳では無いようだが、それでも里の出入りを許していた所を見

れば、よほどの訳があるのだろう。先代の里長にそこまでさせただけの、何かを彼もまた持っているのだ。

 彼もまた異人ではないかと、楓流は思ったのである。雲海もまた、楓流と同種の人間ではないかと。

 だからこそ興味が湧き、どうしても臣下に、いや盟友として迎えたく思った。

 しかし道々何度説き伏せても、何を言っても、彼は一向に首を振らず。さらりと受け流して、ただただ

道を急ぎ、一行を安全に、そして迅速に運んで行く。

 楓流はそれも見るにつけ、ますます彼が欲しくなったが、雲海は楓流以上に頑強だった。

 遂には予定の地にまで着き、別れる時になっても、雲海は一言とて聞いてくれなかったのだが。楓流の

方は諦めるどころか、断固とした決意が、熱情のように浮んでくるのを感じていた。

 決めたのである、雲海を必ず迎え入れると。何故だかそうしなければならないと思えた。それを運命と

呼ぶのなら、楓流が感じた最も大きな運命であり、使命だったのである。

 こうしてこの日を境に、楓流は足繁く雲海の許へと通い。何があっても途切れる事無く手紙を放ち、交

流を保ち続ける事になる。

 そう、この雲海こそ、後に趙深と名乗り、楓流の盟友、真の友となって、彼の覇業を成す第一等の功労

者、功績者となる男。

 しかし前述した通り、その日が来るまでには、まだまだ長い時間が必要である。今この時は、雲海とい

う偽名しか、楓流はまだ何も知らなかった。

 ただただ言葉にし難い、愛情にも似た、執着心だけを、彼は感じていたのである。

 雲海もまた、それから逃れられぬだろう事は、何処かで感じていたのかもしれない。雲海の穏やかなる

時間は、もう終わっていたのであろう。

 出会った以上、それは止められない。




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