4-5.花鳥風月


 食事を終えた後は場所を変え、ゆったりとした寝椅子に身体を委ねながら談笑するのが、貴人の風であ

る。楓流も当然のように別室へ案内され、寝椅子を勧められた。

 明慎が変わらず付き従っているが、今は給仕もおらず、この部屋にはこの三名しかいない。何処かに衛

兵が忍ばせてある可能性もあるが、こちらに敵意が無い以上、それはどちらでも良い事だろう。

 楓流は初めての経験であるから、どうしても馴染めず、どうしたものかと悩んだのだが。ここで誘いを

断るのは非礼になる。雲海から言い含められていた事もあり、楓流は大人しく勧められるがまま、与えら

れた寝椅子へと身体を横たえた。

 開き直ったのだと、そう考えて良いだろう。

 寝椅子はゆったりとした感触で、とても気持ちが良く、安心して全てが抜け落ちるかのような心持にな

る。ひょっとすればこれも、相手から話を聞きだそうとする、貴人の常套手段(じょうとうしゅだん)な

のかもしれない。

 双家も戦乱と共に育ってきただけに、華美だけでなく、そつが無い。無駄を嫌い、実利を重んじる風潮

は、しっかりとこの家にも根付いているようだ。

 全てに何かしらの理由がある。

 貴族らしくない、そう思う方もおられるだろうが。当時は華美に飾り立てるだけでは、誰も立ててはく

れぬ。貴人ならは貴人に相応しい品位と能力を見せねばならない。

 双正もまた一角の人物、気を緩める訳にはいかない。気を抜いた瞬間を狙い、一体何をしかけてくるか

解らぬ以上、そして双正の楓流に対する憧憬を崩さぬようにせねばならぬ以上、ここは個人という自分を

捨て、云わば仙人になりきる必要があった。

 楓流はゆっくりとした呼吸に戻し、別れた父を想い描く。

 父こそが、人に出来うる限りの、真正の仙人であると思ったからである。あくまでも人間の範疇である

が、確かに父こそは仙人と呼ぶに相応しい人間だった。

 双正の理想は、おそらく楓流よりもより父の姿に近い。話を聞いていると、そういう想いを強くする。

楓流自身が父を尊んでいるように、双正もまた、話しに聞くだけの、見知らぬ父を尊んでいるのだろう。

 生の父を知らないだけに、ひょっとしたらその憧れは楓流よりも強いのかもしれない。何故ならば、憧

れはそれに対して無知であればあるほど、強くなる感情だからである。

 憧れは理解の対極に座す、自らの内にだけあるもの。だからこそあれ程に強く、それが裏切られた時の

失望も、あれ程に大きいのだろう。

 知らぬからこそ勝手な妄想を抱き、憧れを抱くのである。その中にはその者の理想しか入っていない。

 ならば多少演じてでも、ここは仙人である事を、それらしさを今だ失っていない事を、双正に見せなけ

ればなるまい。今だけでなく、彼が楓流の側に居る限り、途切れる事無く、そう見せ続けなければ。

 でなければ双家の後ろ盾を失い、即座に楓流は失墜する事になろう。おそらくどれだけ楓流が大きくな

っても、双、という字は、決して薄れる事無く影響し続ける。

 双の名は、当時でも、まだそれだけ重いものであった。

 この時より、人知れぬ、楓流のもう一つの長い戦いが始まる。

「我が双家は、古よりの血筋を守り、先祖の英名を未来永劫伝える事を旨とし、それだけの為に生きてま

いりました。その為にはさまざまな事をし、耐え忍ぶ時も無数にあり、今のように再び双家の勢威が高ま

るまで、我らと祖先は筆舌に尽くしがたい苦悩を得て参りました」

 頃合を見、双正が語り始めた。その意図は解らなかったが、どうやら今度は聞き役に徹すれば良いらし

い。双正と話す事にいい加減疲れを覚えていた楓流からすれば、これは願ってもない事である。

 無論、そんな事はおくびにも出さなかったが。

「しかしその事に、私は少々疲れを覚えるようになっております。私はね、楓流殿。何も双家が大陸を治

める必要は、ないと思っているのですよ」

 側に控えていた明慎がはっと顔を上げ、数秒もの間、主人の顔を凝視する。

 気付き、慌てて顔を下げたが、そこからもこの発言が真に迫っている事が感じられた。どうやら腹の底

を見せ合っても良いと思われる程に、この主人に気に入られたようである。

 いや、これとても、罠の一つなのだろうか。

「それは、どういう意味でしょう」

「私はね、もう良いと想っているのです」

「良い、とは」

 双正は目を細く伸ばし、遠くを仰ぎ見るようにして、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 万感の想いが込められたそれは、正真正銘真実の言葉に聴こえる。もしこれが嘘であるとすれば、思っ

ているよりも尚、この男は恐るべき男だったと云う事になる。

 その時は、最早負けを認めるしかない。楓流には初めから双正の真意が掴めなかった。

「歴史は変わり、始祖もすでに七家が潰え、我が双の血筋だけが残りました。いや、すでに長過ぎたのか

もしれませんね。始祖八家の時代は当の昔、記憶も残らない昔日の彼方に終わっており、今私がこうして

此処に在ることすら、或いは天命に反しているのかもしれません。

 楓流殿、天は留まる事を望みません。常にそれは変動し、人が御しえるようなモノでは無い。故にそれ

を掴めると思うことこそが、全ての善行を奪う人の驕りであり、天から与えられた罰なのかもしれぬと、

そう思うことさえ、あります。

 私はね、楓流殿。良いと思っているのです。双家もまた、別の生き方をしても良いのだと。誰の手にそ

れが渡っても良いのだと。何故ならば、それ自体が、すでに我らの手の中には無いのですから。それは我

らの手を逃れ、時代のうねりへと変わり、人の世を今も乱し続けております。

 それを引き止め、もう一度この手に戻す力は、我らには無い。誰がどう夢を見ても、それだけはどうに

もならないのですよ。

 八家で辛うじて抑えていられたそれは、とうに我らの手には無いのです。だからこそ、私は主である事

を捨て、従として生きたい。それが時の流れというものであれば、私が今、受け容れましょう。そしてそ

うするからこそ、もう一度立つ機会が天より与えられるものと、私は考えております」

「つまり、それは・・・・」

「そう、私はね、貴方にそれを託したいと思っている。すでに盟約を結んだ孫文ではなく、貴方にこそ、

それを託したい。貴方にならば、それを手中に収める事が出来る。人であって、人でない貴方であればこ

そ、それは望んで貴方の胸中へと留まる事でしょう」

「なんと・・・・・」

 流石の楓流も言葉が出せなかった。

 つまり双正は、ただ盟約を結ぶだけでなく、楓流を主とし、今すぐという訳ではないだろうが、楓流に

従属する事を望むと言う。

 しかもすでに孫文とまで手を結んでいたとは、どうやら楓流の考えている事などは、とうに見通されて

いたようだ。

 しかしそれを差し引いて尚、これは魅力的な提案である。

 だが本当にそれを鵜呑みにして良いものか。そんな事をして、一体双家にどんな利益があるというのだ

ろう。双正が個人的興味だけで動く男ではない事は、当人を見ればすぐに解る。この男もまた、化物。大

陸一美しい獣であろう。

 託すにしても(この言い方自体にも、何やらきな臭いものを感じる)、従属するにしても、何故孫文で

なく、楓流なのか。軍神とでも呼ぶに相応しき漢と比べ、あまりにも彼は非力である。

 しかし迷う彼に対し、双正は容赦なく止めを刺した。

「楓流殿、貴方を兄と呼び、義兄弟の契りを交わしたい」

 楓流は暫し、呼吸をするのを忘れた。



 明慎が息を呑む。そして平常ならば決してしないであろう非礼を犯す事にも、これ以上躊躇(ちゅうち

ょ)していられなかった。

「双正様、そ、それは、それはいけません」

 貴人に生の声を聞かせるなど、万死にも等しい行為である。お気に入りだろうと、所詮は明慎も臣下の

一人、しかもその地位は決して高くない。

 必要外に直答する権利などは無く。ましてや異論を唱えるなど、穢(けが)れと思われても仕方の無い

行為である。

 でも、それでも明慎は黙っていられない。

 義兄弟。それは師弟よりも尚濃い絆。なまじ血が繋がっていないだけに、その繋がりは相当に深く。も

しそれを破るような事があれば、そういう規律が薄れている当時でも、永遠に削ぐ事が出来ぬ恥を、深く

刻む事になろう。

 親兄弟という血縁関係に対しては、大陸に血統信仰が根強く残っているだけに、人の目が厳しい。いか

に双家当主といえども、いや、双家当主であるからこそ、余計にその名前に瑕(きず)が付く。

 下手すれば全ての権威が失墜してしまう程に、それは深刻な瑕となるはずだ。

 それをこの名も僅かな、たかだか中原にほんの少しの領地を持つだけの、大陸に腐るほど存在する、新

興勢力の一人などに、義兄弟の重い契りを結ぶなど、乱心したとしか思えない。

「皆が納得するとは思えません。どうか、どうか御気を鎮め、よくよくお考え下さりませ」

 明慎が命を捨てて放った言葉は、しかし双正の心に何の揺らぎも与えない。

 彼は平然とこう応える。

「明慎、無礼であろう」

 それだけだった。しかしその言葉は、この双家に仕える者にとって、何よりも重い。死の宣告以上に、

その言葉は明慎の心に突き刺さる。

 無礼者と呼ばれ、礼と血筋だけを重んじるこの地方で、最早生きていける訳がなかった。

「私の心は決まった。明慎、お前はこの方と共に行き、そこで生涯を徹して償うがいい。お前には随分目

をかけてきたが、それも今日までの事。お前がこの方を解らぬと言うのなら、解るまでこの方の側に居よ。

もし生ある内にそれを悟れるような事があれば、もう一度お前を呼び戻してやろう。お前は今すぐ家へ帰

り、私に仕えられる者を選べ。そして自らの旅支度をせよ。最早、無用である」

「は、ははッ」

 気圧されたのか、条件反射なのか、あれだけ不満そうだった明慎の顔はたちまち従者のそれに戻り、た

だの俗物として、急ぎこの部屋を出た。主の逆鱗に触れたのだと思えば、それ以外の事など、どうでも良

くなるのだろう。

 如何に隠者とはいえ、世に塗れれば、独歩していられない。彼もまた、悲しむべき仙人くずれなのであ

る。所詮は人である事を捨てられない、憐れな妄執(もうしゅう)家。

 それを眺めながら、楓流もまた、明慎とは別の理由で黙っているしかなかった。

 頭をいくら働かせても、答えに導かれない。彼にしても、このような状況はまったく予想外であって、

新しい状況に慣れるまでは、上手く思考出来なかったのである。

 反して双正はたおやかに微笑み、変わらずその心は空である。

「私との契り、結んでいただけますね」

「是非もなく。是非も無い事です」

 結局双正に支配されるより他に方法は無かった。流石は唯一つ生き残った貴種、噂通りその胆力も覚悟

も、常人には計り知れぬものがある。

 半仙人とでも言うべき楓流すら、この方面では圧倒する力があった。人を使う、人に関する事では、お

そらく誰もこの双正には敵わぬのではないか。彼らは完全なる貴となり、人すら半ば捨てる事で、初めて

その存在を保った一族なのであろう。

 人の内、人の外、どちらに歩を進めるにせよ、たどり着く所は、どちらも同じ。個人、感情からの解脱

である。例え見せ掛けだけでも、人以外の者になるしか、生き残る道が無い。悲しき、過ぎた者への業と

でも云うべきか。

 ともあれ、楓流にとって義兄弟の契りは願っても無い事。元より異論を唱える意味はない。これで双正

はよほどの事が無い限り、楓流を裏切れなくなる。ただし楓流もまた、双正を裏切れない。

 だがそれを差し引いても、明らかに楓流の得る利益の方が大きい。しかも彼の方が兄なのだ。親子が主

従関係であったのと同様、兄弟にも主従関係がある。長兄は父親に次ぐ権威があった。

 例えその拘束力が、始祖八家の権威同様、薄れ始めていたとはいえ。双の家名に恥じぬよう、双正は決

して楓流を下に置くような真似はすまい。

 ようするに双正は楓流に、双家を丸ごと投資したのだ。

 それを当たり前に出来る事に空恐ろしさを覚え、何やら双正の意のままに動かされているようでもあっ

たが。ともかく楓流の目論見は成功したのだ。ならば今はそれで良しとすべきなのかもしれない。

 この当時の楓流では、まだまだ万能には程遠い。




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