5-4.遠吠え


 楓流隊は静寂を捨て、只管(ひたすら)に進軍を強めた。

 鳴り響く金属音、そして喚声(かんせい)と怒号、様々な音が入り乱れ、突如として出現した彼らの存

在を、より濃厚に表示する。

 猛る軍勢は何者も恐れず、慌てたように飛来する矢など物ともせずに叩き落し、或いは横目に避けなが

ら、駆ける。

 無我夢中に射た矢などは、例え至高の境地に達した者でさえ、そうそう当るものではない。例えそれが、

無数に蠢く人の群であったとしても、ただ射るだけでは当らないものだ。

 目標に当てる為には、緻密(ちみつ)な計算と動作が必要になる。人は当たり前にそれを行なうが、そ

れが出来るのも脳を最大限に働かせてこそ。何も考えずに撃つと云うのは、無心と云うのとは全く違う。

有意識、無意識問わず、脳を使わねば当る物ではない。

 だからこそ、人の虚を突く事で、人を劣勢に陥れる事が出来。数字を見ただけでは理解できぬ現象を、

人の世に生み出すのである。

 全ては人の意識あってこそ。それは解りやすき、諸刃の刃なのだ。

 すっかり鏗陸の攻勢に意識を取られていた白祥も驚いてしまい、その判断が大きく鈍った。急いで援軍

を窪丸側へ向わせようとしたが、さりとてこの場を彼が離れる訳にはいかず。迷いが迷いを生み、白祥を

泥沼へ導いて行く。

 例の木槍に度肝を抜かれて居た所へこの奇襲。流石の白祥も苦悩を避けられぬようであった。

 焦り、苛立ち、困惑す。

 こうして砦を築いた事で、皮肉にも本来護るはずの窪丸への注意が逸れてしまい。尚且つ、多くない兵

力を二点に分散してしまっていた事に気付く。

 窪丸、砦、どちらか一方であればどうにでも対応出来るが、双方を同時に攻められればどうにもならな

い。白祥を裂いて二つにする訳にもいかず。李牧の不甲斐無さ、頼り無さに対し、心から憤慨の気持ちが

湧き、その心は不信感を越え、憎しみにまで膨れ上がろうとした。

 苛立った白祥に、それを抑えようという気は、全く起こらない。

 考えれば考える程に、苛立ちもまた増していく。

 未だ劣勢とは言えず、現状では白祥側に有利なのは間違いはない筈なのだが。どうにも払いきれぬ圧迫

感と危機感があり、或いはそれが傭兵達を刺激し、統率と忠誠を乱す事になるかもしれぬ。

 砦だけならまだ白祥の力で抑えられよう。しかし窪丸に居るのはあの李牧。彼は内政家としてはまずま

ずの能力を持つ、それは白祥も認める。だが軍人としては無能としか思えぬ男で、仲も悪い。

 或いは白祥を見限り、楓流に引き渡そうとするのではないか。全てを白祥に押し付け、いつものように

難から逃げるのではないのか。

 そんな考えが白祥の脳裏に浮んだかどうかは解らないが。後の事を考えると、随分に悩み、そこまで考

えただろう事は、可能性としては低くないと思える。

 楓流が窪丸へ近付くに従い、目立って窪丸兵が浮き足立ち始め。単に二点を同時に攻められているだけ

であるのにも関わらず、まるでもう街を落とされたかのような騒ぎになっている。

 白祥もそれは感じていただろう。

 不思議な事だが、どうも人は勝っている内から負ける事があるらしい。勝敗などと、まるで全能の理の

ように仰々しく述べても、所詮は人の中だけの出来事だと云う事だろうか。

 流石に白祥は負けたとまでは考えていなかったろうが。兵達、特に傭兵達の心に迷いが生まれた事が、

大きな問題であった。

 彼らは利に聡く、忠誠と愛国によって戦っている訳ではない。むしろこちらが不利になれば、即座に裏

切り逃亡。下手すれば強盗に早変わりするような相手だ。

 今の所、直接的な被害はさほど無い為、皆戸惑っているくらいの範囲に収まっていたが。もし楓流が窪

丸入りを果たせば、一挙に白祥の軍は崩れ去ってしまうかもしれない。

 窪丸が落ちれば、砦を護る意味自体が無くなる。勝つ負けるではなく、根本的な意味を失う。その事が

また白祥を悩ませ、その苦悩が更に兵達を刺激し、不安を起こした。

 そんな中で、白祥は決断せねばならない。

 窪丸を、李牧を信じ、砦をこのまま維持するのか。それとも砦を捨て、窪丸へ救援に向うのか。或いは

ここで李牧を見限り、民の命と引換えに降伏する事を申し出るか。

 おそらく、救援に向うのが最良の手段だったのだろう。李牧が独り堪えられるはずはなく、下手すれば

恐怖でさっさと降伏してしまう可能性もある(最悪、全ての責任を白祥に擦り付けて)。

 それを防ぎ、窪丸の民と兵の精神的支柱となって、例え防衛力は落ちても、砦を失っても、窪丸の防壁

を使い、必死に抵抗する事が、一番良い方法であったはずだ。

 それは解る。解っている。しかし白祥は迷った。

 本当に良いのか、それで。窪丸が今まで生存、独立出来ていたのは、この堅固な砦があってこそ。街を

護れても、楓流軍は砦を思うままに破壊して行く事だろう。そうなればもう、次は抗えまい。

 それに敵は楓流だけではない。疲弊すれば、第三者に平らげられてしまうだけである。こんな所で楓流

と心中を決める事に、一体何の意味があるのだろう。

 これ以上に愚かな事はあるまい。

 白祥の願いは窪丸を護り、存続させる事である。つまりそれは、民を生かす事。元々勝つ為でも、力を

示す為でもない。彼は護る為に、生きる為に戦ってきたのだ。

 それしか方法が無かったから、そうしたまでの事。考えてみれば、初めから勝てぬ戦で民を殺す意味も

理由も無い。

 砦を維持する事も、軍を置く事も、ただの手段でしかなかった筈。それならば、今民を生かす為、少し

でも道があるならば、戦いに拘って死ぬのは愚かと云うモノ。本末転倒、それこそが悪であろう。

 白祥は決心し、窪丸と楓流、双方へと使者を発した。

 そう、彼は李氏という勢力を護る為に、あれほど苦労し、苦悩し続けてきたのではないのである。



 同じ頃、李牧も大いに動揺していた。

 今回もいつもと同じ、白祥が撃退しよう。そういう民と同じく気楽過ぎる考えしかなかった彼は、次々

にもたらされる報に対し、暫くは拒否反応しか示さなかった。

「白祥が居るではないか! 白祥はどうしたのだ!」

 と叫び、珍しく目に見えて怒りを見せていたと云う。

 彼もまた窪丸の平穏に慣れすぎていたのかもしれない。でなければ、彼だけでも何か手を考え、最善と

は言わなくとも、この時に何かしらの対処をしていたはずだ。

 しかしこの時の李牧の動きは重い。

 暫くして、ようやく逃れられぬ事を知ったのか、仕方無しに伝令を発し。配備されていた手勢に弓矢で

応戦する事を命じ、住民へ避難する事を通達し、それを速やかに実行するよう伝えたが。兵達も慌ててい

たのだろう。動揺までも伝令と共に伝心されたのか、皆上の空のようになり、何をするにも動作が鈍くな

ってしまっていた。

 流石に防壁の兵は、命じられる前から必死に矢を放っていたが。その他の兵が動き出す頃には、すでに

楓流は防壁下に辿り着いており。鏗陸の真似をして木を引き抜かせ、防壁を破ろうと何度も突かせる。

 そしてその間に、縄や木を立てかけて兵に壁を登らせると、まるで砦の激闘が嘘であったかのように、

真にあっけなく内部へ侵入出来てしまった。

 窪丸の守備兵も訓練は受けている筈だが、あくまでも白祥あっての軍勢。指揮官無き戦いにおいて、大

した働きを示せる筈がなく、あっと言う間に劣勢に陥(おちい)る。

 その上、避難誘導されつつあった住民が楓流軍の侵入に気付き、ただでさえ焦り苛立っていた所に止め

を刺された格好となって、所構わず悲鳴を上げ、逃げ回ったものだから、堪らない。

 あっと言う間に収集が付かなくなり、守備兵達もそれに巻き込まれ、もうどうしようもなくなってしま

っていた。下手すれば、楓流軍のもたらした被害よりも、そちらの暴徒の被害の方が、深刻であったかも

しれない。

 極少数の兵が、街内に浸入したという、それだけの事だったのだが。その威力は絶大で、住民達も平穏

になれきっていたのだろう。最早以前のように退避する事が出来ず、ただ喚き、罵り、騒ぎに騒ぐだけの

物と化して、その騒ぎに侵入した楓兵の方が驚いたくらいである。

 真にあっけない。

 敵兵が居る中で、流石に強盗に早代わりするのは躊躇われたのか、傭兵達もさっさと逃げ、それに釣ら

れたか正規の兵までもが逃げようとする始末。

 その隙を突いて浸入した兵が防壁門を開き、楓流自身が街へ入った時には、もう決着は付いたと見て良

かった。この状況では、例え白祥が居たとしても、治める事は出来なかっただろう。

 民は続々侵入する楓流軍に怖れを為し、慌てて家に引き返した事で、再び街内に静寂が戻ったが。この

恐怖心が無ければ、腹が減り疲れが極まるまで暴れ、恐怖に騒ぎ続けていたかもしれない。

 楓流はそんな彼らを横目に、隊列を縦長の横陣に変え、広めの道をゆっくりと進んで行く。住民達が戸

の陰から覗いているのだろう、静けさの戻った街内に、時折窓や戸の開く音が聴こえた。

 もう戦う必要は無い。鏗陸へ停戦するよう伝令を送り、自身は降伏勧告の文面を考えていると、その手

間を無くすかのように、白祥、李牧、双方から使者が送られて来た。

 どちらも言い分は違うが、降伏を望んでいる。

 砦の方を見やると、そちらの声もとうに止み、辺り一体が鎮まり還っていた。あれだけの騒ぎがあった

のが嘘のようで、何だか別世界に来たような、不可思議な気持ちに捉われる。

 頭を静め、ゆっくりと街を見渡すと、ふと頭を過ぎったモノがある。

 絶対なるモノ、ここでは白祥だが、その絶対なる白祥自身が、他ならぬ窪丸の弱点であったのだ。いつ

の間にかこの街は、彼独りになってしまっていたのであろう。白祥一人が、全てであったのだ。

 更に思う。

 もし白祥が砦などに篭らず、この街を都督していたとしたら、この街はこうも簡単に落ちたのだろうか、

兵の意気がああも容易く崩れたのだろうか。

 白祥がこちらに居れば、楓流とて手が出せなかったかもしれぬ。

 鏗陸の発想、楓流の指揮があったとして、白祥が窪丸から離れておらず、何の不安も恐れも無いままに、

彼一人がこの地に座していたならば、楓流も敵わなかったかもしれない。

 無意味な仮定だが、空恐ろしさは感じた。

 遅れて、鏗陸から伝令が着く。

 正直意外だったが、鏗陸自身も生存しており、死傷者の数も、想像していたよりはずっと少なかった。

 だからといって慰みになる訳も無いが、それはそれで悪い事ではない。

 まあ、死ぬ時が少し遅くなっただけ、とも云えるかもしれないが。

 楓流は街の要所をささと占拠すると、二通の降伏状を並べ見、この結末をどう付けたものかと、改めて

思考に沈み始めた。

 結果から云えば、不思議にも、この戦いで最も苦悩した時は、実はこれからなのである。

 降伏、それもまた政治、生きるか死ぬかの戦であるからには、簡単にいくはずがない。しかも二者から

の降伏状。名義の当主、実際の支配者。さて、どちらの言を取れば、この場が上手く収まるのだろう。

 もししくじれば、いやしくじらずとも、厄介な状況になるだろう事は、明白である。

 手勢に戦闘の姿勢を維持させ、鏗陸に砦を包囲させたまま、楓流は大いに悩まされた。




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