5-7.虎視眈々


 遠映(トウエイ)、この妙な名前の街は、集縁一円の山林地帯を抜けた街道沿いの平野に、白紙にぽつ

んと黒点が現れるかのようにして存在する。

 開けた地形である為、よく見通せる所からそう付けられたのか。或いはこの街からなら四方八方真っ直

ぐに見通せる所から、そのような名になったのか。

 正確な所は解らないが。地形を反映した由来である事には、まず間違いないだろうと思われる。

 障害物が少なく、自然、多くの軍勢を並べられるので、会戦を行なうのに都合が良く。千や二千の兵数

であれば問題なく進退する事が可能で、数の優勢を覆し難い。まさに力圧しの正面決戦の為にあるような

場所である。

 付近には林のような地形もあるが、規模が小さく、兵を伏す事はまず不可能だろうと思える。

 小手先の戦術は通用せず、力ある事のみを美徳とするかの如く、古来から大規模な勢力同士の決戦がよ

く起こなわれてきた。

 中央方面を見るに、ここより便の良い場所は他に無く。ここを取る事が、中央制覇への第一歩だとも云

われているようだ。

 楓流が現在は所有している訳だが、その前は一年と同じ勢力が所有し続けた事が無く、数月に一度は激

しい戦が起こり、その度に所有者を変え、屍を積み重ねている。

 付近の何処を掘っても、すぐに無数の人骨が湧いてくると云われ。古来より怪談の絶えない地でもある。

 遠映は元々軍事拠点として造られた街らしく、各所にその名残が見え。昔から修練や武具の製作も盛ん

で、民の気質が荒く、或いは怜悧であり、大抵の者は一通りの武術を身に付けているか、算術を習う。

 武と智を重んじる、軍事と商業の街である。

 楓流がこの場所を選んだのは、一つには領土の関係上、どうしてもこの付近を選ばざるを得なかった事

もあるが。むしろ数に置いて祇一国であれば、まず凌駕出来ると判断したからだと思われる。正攻法で崩

す自信が無ければ、この地だけはどうしても避けた筈だからだ。

 遠映一帯で戦えば、必ず数の少ない方が負ける。その言葉を信じる者は多い。

 勿論、実際にはそんな事は無いのだが。勝率を見れば、数の多い方が圧倒的に有利である事が解る。

 確かに地形がどうだろうと、数の多い方が有利だろうといえば、それはそうなのだが。やはり数の優劣の差

が、古今のどの戦を見ても、如実に表れていると思える。

 そして数の有利性を信じている者が多いと云う事がまた、兵の間に精神面での優勢と劣勢を与える。こ

ういう噂も馬鹿にはならない。

 故に敢えてこの地で挑むと云う事は、楓流の自信の現れであり、祇と隻へ精神的圧力をかける目論見が

あったのだと、そう考えていい。

 実際、祇を放って窪丸へ攻め寄せた事からも解るように、総兵力と軍事能力では間違いなく楓流の方が

勝っているし、領地も広い。

 隻と合わされば脅威だが、祇一国であれば、滅ぶ滅ばぬを考えるような不安はなかった筈だ。もし隻と

挟撃できるならば、一蹴できるような相手と言ってしまえば、それは言い過ぎになるかもしれないが。ど

う見ても、一国同士で考えれば、楓流の方が優勢である。

 だからこそ、隻も身の振り方に、考える余地が出てくるのだろうし、様々に画策しているのだろう。

 ともあれ、楓流がこうして自らの意志を明らかにした以上、開戦は時間の問題であった。

 祇の動きも活発になり、ある程度予想していたのか、こちらも程無く動員兵力のほぼ全てを、この地へ

と集結させる動きを見せている。

 楓流と違い、祇は他の勢力同様未だ鈍重で、兵力を集める為には結構な時間がかかる。その隙を楓流が

突こうとしなかったのは、隻の動向が不安だったのか、それとも祇を焦らせ、兵を疲弊させる為だったの

だろうか。

 彼は遠映に兵を結集させた後、軍を止めたまま不思議な沈黙を保っている。

 しかし意志を見せた事に変わりは無い。動き出した流れは止め様がなく。後は勝つか負けるか、或いは

共倒れか。決着が付くまでは、決して終わる事は無いだろう。これは単純な示威行為ではなく、明らかな

宣戦布告である。

 この流れがどこに行き着くにせよ、この一戦の結果には、隻の動向が大きく関わる事になるだろう。隻

次第でどちらにも勝敗が傾く。そう考えれば、一体本当は誰が何と戦おうとしていたのか、奇妙な疑問が

湧いてくるような気もする。



 楓流はまるで競技の相手を待つかのように、まず相手を同等の位置へと導くように、祇軍集結を待った

まま、動かない。

 いつでも出撃出来るように軍を待機させているが、決して今すぐ出るような緊張感は無かった。

 確かに今祇軍が来るような事は無いとしても、これはよほど肝が据わっている。祇もこの遠映に執着し

ない訳が無く。数キロという距離に拠点となる砦と関を造り、自らの領地を宣言しつつ、軍備にも余念は

無い。

 一年は戦えるだろう食料と武器が貯蔵され、千を超える兵が常駐されているとの、専らの噂だ。

 近いが近過ぎる事は無く、そう言う意味で少し余裕を持った距離ではあるが、それでも悠長に待ってい

られるとは、余程神経が図太いか、緊張や不安を感じる心が鈍っているとしか思えない。

 しかもそこに集まる兵の数が、今も増しているというのに。よくも平然と構えていられるものだ。

 兵長や副官達も不可解に感じていたらしい。何故、楓流は動こうとしないのかと。

 動こうとしないと言えば、隻も同様であった。隻もまた祇の後方に座しつつ、この一戦を無視するかの

ように黙り込み。同盟国である祇に沿うようでなく、しかし楓に味方するでもない、不気味な沈黙を保ち

つつ、無言の圧力を両勢力に加えており、その真意が量れない。

 もしかすれば、漁夫の利を狙っているのかもしれぬ。

 そもそも隻が今も劣勢である祇に、形だけは変わらぬ盟約を結んでいるのは、隻が楓に付いた場合、現

在の三国の均衡が崩れるが為である。だからもし楓の方が弱ければ、隻は祇の力を危険と見、すぐさま楓

と結んでいただろう。

 隻の王も愚かではない。興亡激しいこの時代に、一国を築こうという力を見せている者である。王とし

ての力量は充分に有り、今までも自国存続の為にあらゆる手を打ってきた。

 結局同盟などと言っても、三勢力の均衡を崩さない為の方便に過ぎない。楓が祇を討とうと、祇が楓を

討とうと、例え隻がどちらに協力しても、最後は必ず隻が滅ぼされるだろう事は、誰にでも解る。

 名だけは属国として残してくれたとしても、支配権は必ず奪われ、一臣下へと次第に落とされるだろう

事は、子供にでも解る事だった。

 三国の中で最も弱い以上、同盟を結んでも、いくら友好的な関係を築こうとも、結局は常にどちらかの

足下に跪(ひざまず)いておらねばならない。

 楓は李を許したが、それも李に利用価値あってこそ。李を滅ぼす方が楓にとって不味い事になると判断

したからこそ、生かされている。何も情や気分で許した訳ではなく。情やその場の気分に動かされるよう

では、人の上に立つ資格はない。

 隻には李氏のように、わざわざ生き延びさせるだけの理由が無かった。簡単に言えば、邪魔になる。

隻もそれを知っているから、どちらにも温情や義理などは当てにしていない。それは逆に言えば、隻にも

また、義理や情けを感じる心は無いと云う事でもある。

 だから隻もまた、己の利のみに動く。

 そう考えれば、祇や楓に付くよりも、いっそ西方に付いた方が、或いは自然とは言えまいか。

 確かに立場としては同じ、結局は弱い立場にならざるを得ない。純粋な個々の力関係を見ると、隻が周

辺のどの勢力と比べても、おそらくは一段弱い。西方の諸国の中には、隻と同程度の力の勢力もあるが、

少なくとも隻の近辺にはそういう国は無い。

 故に、誰かの下に付かねば生きていけぬが、下に付いてもいずれは滅ぼされる。という運命には、悲し

い事に、どこに付こうと変わらない。

 しかし例え西方の大同盟が成り、中央へ侵攻して来るとして、彼らが一枚岩になるとは考えられない以

上、必ず付け込む隙が生まれる筈だ。そこを突けば、単に一国が滅べば勝敗が定まってしまう中央よりも、

隻が上手く立ち回れる可能性は、自然と大きくなるはず。

 西方も中央への踏み台、或いは盾として残す方が利があるだろうから、素直に従い協力すれば、大同盟

の末端には加えてくれるだろう。

 例え大同盟成らずとしても、楓か祇、中央を見る限り、西方にとって隻の利用価値は大きくなる。更に

は西方には西方の事情がある以上、わざわざ隻にまで侵攻の手を伸ばすとは思えない。それよりは友好な

関係、或いは従属関係を結ばせ、中央からの余計な干渉を防ぎつつ、肥しにしようとでも考えるはずだ。

 その分、大した協力は得られないだろうが。それでも楓や祇からすれば、西方を無視する訳にはいかず。

ただ結んでいるというだけで、その実体がどうであろうとも、隻には簡単に手出し出来なくなる。

 これは双、孫、楓の三同盟と同じ理屈。正に隻には願ったり叶ったりではないか。

 しかも、もし楓と祇の決戦の後、西方の協力を得、疲弊した楓と祇を喰らえでもすれば、隻こそが中央

の覇者。そうなれば或いは西方にも対抗出来るし、大同盟が結ばれていなければ、逆に威圧する事も可能

になるかもしれない。

 どう考えても、祇や楓に付くより遥かに多くの可能性が生まれてくる。

 隻が西方に付いたとしても、不思議な事ではない。むしろ当然とすら思えた。別に祇に拘る必要も、わ

ざわざ楓に協力する必要も無いのだ。祇が楓と組み、隻を襲う心配が無い以上、今は静観しながら機を待

つ方が、遥かに得だろう。

 どちらが勝とうと負けようと、隻にとって、色んな意味で同じ事なのだから。

 このように、隻、そして西方への不安は拭えない。だがそうであるからこそ、今、祇の鈍重さを突き、

後の碧嶺のように神速を持って蹂躙(じゅうりん)すれば良いと思える。それが早ければ早い程、他者の

付け込む隙が無くなり、逆に楓へ次の戦までの準備期間を与える事になるからだ。

 しかし楓流は待った。必勝の状態にありながら、その利を捨てるかのようにして遠映に軍を止め、準備

だけは怠らず、じっくりと待っていた。

 何を待っていたのかは、誰にも解らない。祇攻めの決意が鈍るような事は無いとしても、誰にもその真

意を窺い知る事は出来なかったようである。

 それでも大人しく従っているのだから、この時点ですでに軍内にはよほどの規律があったのだろう。

 或いは、目前に敵勢が続々と集結しているという焦りの気持ちが、逆に将兵の心を引き締めていたのか

もしれない。多少の不安や焦りであれば、むしろ良い緊張感をもたらしてくれる事もある。

 だがそんな事が楓流の狙いではあるまい。

 彼は解っていたのだ。隻が動かぬだろう事も、祇との戦のその先も。この流れの行く末が、必ず西方に

行き着くだろう事を解っていた。

 目前の祇でも、その背後の隻でもなく、楓流は遠く西方を見据えている。隻を通し、西方の動向を掴み、

後の流れを懸命に読み取ろうとしていたのだ。

 だからこそ動かない。単純には進めない。

 もし神速を旨とし、思う様攻め、圧力を加えれば、必ず祇は怖れをなし、砦や街へ引き篭もる。

 となれば、一つ一つ拠点を落していくのには時間がかかり過ぎ、その上防衛設備を破壊し、街に被害を

出す事にもなって、後の事に支障が出てしまう。隻を前衛とした西方との戦にも、初めから不利な状況で

挑むしかなくなるのである。

 それに街に被害を出せば、民からの恨みを買ってしまう。

 結局、時間を浪費し、疲弊を増し、自ら冥府へ進むような、愚かな進軍を繰り返す事になる。これ以上

の愚があるだろうか。

 何でもかんでも速ければ良いと云うものではない。理由あって、後の事を考え、その上で神速であるべ

きだと判断出来たのなら、何を置いてもそれをすべきであるが。逆にその意味が薄ければ、目先の利に拘

って、無理に進軍すべきではない。

 何をしても消耗し、費える物がある。それを理解せねば、決して最後に立っている事は出来まい。

 楓流は電撃戦を得意としたが、所謂、猪突猛進と云うのとは、全く性質が違う。むしろ座して待つ型の

武将であって、様々な経験から軽挙妄動する事を心から嫌っていた。

 無論、それでも間違いを犯す事も少なくなかったが。冷静な時の彼は、とにかく慎重で、焦りを嫌っ

たのである。彼は確実な勝利だけを目指した。

 どっしりと構え、あらゆる手段を使って存続させ、準備が整うまでは無理をしない。派手や華美など、

重みの前には消し飛んでしまうものなのだ。

 わざわざ祇の準備が整うまで待っているのも、祇が砦を出、会戦に乗って来るのを待つ為である。

 裸にさせ、この一戦で祇王の首を獲る。そうして一気にけりを付ける。それこそが楓流の旨とした、本

当の意味での速さ、神速なのである。

 それを得る為ならば、どれだけの被害も厭(いと)わない。何故ならば、そうする事が、結局は一番被

害を抑える事になるからだ。目の前の数字ではなく、結果としての数字を見る。それが重要だと思える。

 楓流は待つ。弓矢を極限まで絞り、祇の首に狙いを定めるが如く。

 その時は、もう間もなくやってくる。




BACKEXITNEXT