5-8.貫く波動


 祇、その素性は定かではない。流れ者が勢いに乗って勃興した。本はそういう当時よく居た小勢力の一

つである。

 しかし次々に数多の勢力が脱落していく中、しぶとく生き残り、いつの間にか豪や袁という中勢力とも

肩を並べるまでに成長した。様々な要因が、祇という勢力にも味方したのである。

 豪、袁という二勢力の不仲を突き、どちらとも争う事をせず、敢えて一歩下がるように慎重に行動し。

今丁度楓と祇の間に隻がいるのと同じように、豪と袁の溝を上手く利用して領土を保ち。二勢力が自滅す

るように滅んだ時にも、楓流には及ばぬながら、遠慮なく領土を平らげて大きくなった。

 状況や背景が楓と祇には共通する部分が多く、だからこそ邪魔に感じるのかもしれない。お互いの思惑

を遂げる為には、その利害が似通うが為に、常にお互いが邪魔となる関係なのだろう。

 祇からすれば、散々苦労して豪と袁の間を泳いで時間を稼ぎ、苦労して周辺の小勢力を呑み込み、よう

やくここまで来れたものを、今更楓などという者に奪われてたまるか、という気持ちがあり。中央制覇は

祇王の半生の悲願でもある。

 祇王の名は、祇路(ギジ)。彼もまた一代で小さいながらも一国を築いた、小覇王とでも呼ぶべき者の

一人である。豪や袁のような出自が割合確かで、その土地との繋がりも濃い豪族王とは違い。楓流と同じ

く他から流れてきた他所者で、後ろ盾がなく、自らのみを頼って成り上がってきた。

 その理由には、大部分運の良さが占められるとしても、間違っても無能力者ではない。

 むしろ器用な方で、これも楓流と似、ある程度何でもこなす。だが、それはある程度までであり、苦手

が無い代わりに得手も無い。楓流を一回り小さくした存在、と言ってしまえば語弊があるだろうか。

 とにかく似た部分が多く、そういう事情も楓祇不仲を広げさせる事に、一役買っていたと思われる。楓

流、祇路共に、今ではお互いに対し、根深い感情を抱いている筈だ。

 豪と袁の遺産争いもそうだが、双や窪丸を狙っていたのも共通するし、孫文との協力を望んでいた事も

また同じである。

 場所が近ければ、ある程度似てくるのは仕方ないとしても、それが若干似過ぎたといえば良いのか、と

にかくお互いに目障り極まりない。何をするにも邪魔である。

 祇路が楓流と違う所といえば、あまり住民との繋がりを重視せず、家臣に頼る事もせず、あくまで己一

個の自信と器で勝負している所だろうか。

 もしかすればそれこそが、彼が楓流にいつも一歩及ばぬ事の、最大にして唯一の原因なのかも知れない

が、勿論それを認めようとも考えようとした事も無かった。とにかく楓が邪魔で邪魔で仕方なく。しかし

楓の強さは無視できず。追い越されていく中、何も出来ずに悶々とした日々を送ってきた。

 最近は少々焦りが目立ってきており、怒りっぽくなっているようで、特に双孫同盟や窪丸陥落の事を聞

いては黙っていられなくなるそうだ。

 だが状況の全てが不利だとは考えておらず、逆に今が好機だとも考えている。例え楓侮り難しといえど、

窪丸とまともに争った以上、相当な被害が出ている筈。

 ならば今こそが好機、楓がもう一段成長する前に、疲弊している今の間に、全力を持って討つべきでは

ないか。孫文の楓に対しての興味が薄い事を知り、双孫同盟の実体をおぼろげに掴んだ事もあり、その想

いは日増しに強まっている。

 双と孫が力を貸さない、貸せないのであれば、祇にも勝機が見えてくる。

 それに今楓流がこうして解りやすく挑んできている以上、祇としても受けざるを得ないという事情もあ

る。窪丸陥落の噂が広まり、ここで祇まで逃げたと思われれば、今祇に付いている街が、いつ楓に寝返っ

てもおかしくなくなる。

 ここは調子に乗った楓の挑戦を受け、それを見事に散らしてやるべきだ。そうすればこそ、祇の道が生

まれ、楓との関係も逆転する。楓流も負けてしまえばただの人。皆祇路に乗り換えよう。

 しかし問題は背後に居る隻の事。何故隻はこの大事な時にやって来ないのか。今こそ隻の力が必要な時

であるのに、何故援軍を出し渋る必要があるのだ。

 祇路も当然隻のきな臭い噂を知っていたが。隻もまた楓を滅ぼす為に、楓憎し故に祇と同盟を結んだと

単純に考えており、ここで動かない事は全く信じられない事であった。

 楓に勝ちたくとも、祇一国では分が悪い。だからこそ辛抱強く隻に働きかけてみたのだが、どうしても

その返答は芳(かんば)しくない。

 しかし待つのにも限界がある。今までは兵の集まるのを待つと称し、時間を作っていたが、集まった以

上その理由は使えない。単軍攻めるしかなかった。祇王として、楓にだけは弱腰を見せる訳にはいかない。

隻がおらずとも、今更逃げる訳にはいかなかったのである。

 祇路はこの時期、大変に迷っていたようだ。進むしかない、しかしその時は何時だ。今日か明日か二日

後か。遅らせるにも理由が要る。天候、準備不足、何を言えば兵は納得するのだろう。

 隻に対する未練も、大いに残っている。

 そして迷いに迷う。

 迷いは時間に追われて焦りへ変わり。焦りは短慮を招き、短慮は無用の即断と強行を生ずる。

 その時こそが、祇の崩れる時。そしてその時は、遠くない。



 楓流の用意した軍勢は約三千。これは現時点で動かせる最大の数であり、これ以外には各地に置いた守

備兵しかなく。もし万が一負けるような事があれば、もう次の機会は無い。

 これは国家の存亡を賭けた一戦である。最大の力を使う以上、負けた時の良い訳は効かない。その権威

が幻想だと知れた瞬間に、王国という物は崩壊する。楓流さえ居れば、その縋り付くような想いが消えた

時、楓と云う結束は無残に散り、後には何も残らない。

 だからではないが、流石の楓流も緊張していたようだ。勝つ自信はあるが、それも天運尽きれば無力で

しかない。人の自信など、何事にも通用しないものだ。

 慎重を期し、万全にも万全の体勢を維持した。

 そして野外に二千の兵を出し、残る一千を後詰として遠映内に伏す事を定め、令を発したのである。

 いざという時の為に予備兵を持つ事は、大変重要な事であるが。今回わざわざ二千の兵のみを出したの

には、他に理由がある。

 それは敵対する祇の兵が、ざっと二千から二千五百程度だと判明したからである。

 おそらく各地の守備兵を削り集め、隻が来ないなら来ないで、隻を西方への盾として利用する事で、無

防備になる地域への不安を無理矢理解消したのであろう。

 無謀極まりないが、しかしそうでもしなければ、楓に対抗出来る兵数を得られないのは、事実である。

いくら焦りがあるとはいえ、祇路も断腸の思いで、結論した事だろうと考えられる。

 だとすれば、それを優に上回る数を見せる事は、祇路の決心を揺るがしかねない。故に楓流は二千と見

せる事で、祇路の負担を軽くし、こちらの思惑に乗ってきやすい状況を作った。

 祇路はうまうまとこれに乗る。彼は楓流の窪丸攻めの兵数を千五百程度と知り、最大動員兵数を多くて

も二千〜二千五百と読んでいたらしい。難攻不落の要害である窪丸に対し、余力を残しておくなど、全く

考えられない事であったからだ。

 だからといって祇路の諜報能力がお粗末だと云う事ではない。当時の大抵の勢力の諜報能力は、大抵こ

の程度のものであった。その重要性に気付く者は多かったらしいが、精々将が何処に居るのか、また軍勢

の数はどうかとの、そういう戦場での報を重視し、そこにある思惑や、敵国の情勢や拠点情報など、そう

いう事は大して考えられなかった。

 つまりは戦う相手としてだけの報を重視し、もっと言えば敵の数だけを重視していたのである。

 だがその中であって、楓流や双正、孫文といった後に飛び抜けてくる者達は、後から見ても異様に映る

程に、情報に対して例外的に執拗であったのである。

 諜報機関を設け、定期的に調査するなど、考えている者はまだまだ少なかった。

 だからこの楓と祇の決戦も、祇路は、その覚悟にしては兵数が少ないと考えたかもしれないが、突詰め

て考えようとはしなかった。楓流の進軍速度も大して評価していないし、まさか自分よりも早い時間で、

自分よりも多い数を集められるとは、とても考えられなかったのである。

 窪丸攻めでそれだけ被害を受けたのだろうと一人合点し。これなら隻も要らぬ、どころかこの一戦で楓

の領土を呑み込み、後にこの時の不戦を理由にして、隻攻めの大義名分も出来た。むしろ僥倖(ぎょうこ

う)であると、一人喜んでいたようだ。

 そうして自身に都合の良いように解釈し、祇路は軍を砦から出してしまった。彼の持つ全ての兵を。

 その数は二千三百くらいか。楓流以外にあまり詳細な記録が残されていない為、こういう細かな点で不

分明になってしまう事が多い。この数も楓流側と照らし合わせて算出した数であり、伝聞や祇側の記録を

見ると、四、五千だの万を超えるだのという物もあり、全く要領を得ない。

 楓流側よりも若干多いようであったので、二千を超えている事に間違いはないと思うが、あくまでも参

考値だと考えていただきたい。まさか本当に万を超えるような軍勢が居たとは思えないが、否定する確固

たる根拠が無いのである。

 ともかく祇路は持てる限りの兵を繰り出し、遠映前の平野へと軍を進めた。そして予定の場所へと布陣

し、野営の支度など様々な準備を始める。

 何故彼が先に出たかといえば、勢いを付ける為でもあるし、先に陣を置いた付近が戦場になる為、戦い

やすい場所をある程度好きに選べるからだ。

 主導権を握るという事は、何に置いても重要な事で、受身である防衛側よりも、大抵は攻撃側に有利で

あり。だからこそ、いつも先手を取れる、電撃的な進軍の優位性が生まれてくる。

 そしてそれは、相手に準備を整えさせず、逆に自分が充分に準備出来るという副産物をも生み出す。

 受身受身ではいずれ押し切られてしまう。先手を取らねば変化を生み出すことは出来ない。勝利と敗北

もまた変化であるからには、その重要性が解るだろう。

 単純に攻めろとは言わないが、待つだけではいずれ滅する。

 そう言う意味で、祇路のやり方は適っている。しかし彼は何故楓流が今まで動かなかったのか、それを

考える事を怠(おこた)った。

 主導権を握る事が重要で、その為には即断即決が必要であるとしても、他者を相手にする以上、自分だ

けを見るのは危険である。何をするにせよ、必ず相手との関係を考慮しなければ、折角の智も地に落ちる

事になりかねない。

 目が開いていても盲目な者は、余計な物が見えるが故に、かえって最後に屍を晒す。

 祇路はすでに楓流の術中に嵌ってしまっている。そしてその事に気付いていない。おそらく想像すらし

ていなかったのではないか。

 祇路はいつもの如く己のみを見、全てを決した。隻への対応もそうだが、やはりその程度の男であった

と、そう言うしかあるまい。人も勢力も、滅ぶして滅ぶ。理由なき滅びはなく、だからこそ滅びを延々と

繰り返す人間だけが、自分で自分を憐れむのか。

 真に愚かしきは、そう云う事かもしれない。



 楓流も祇軍に誘き出されるようにして出軍したが、念のいった事に、もう一呼吸置いている。

 過敏に反応すれば見透かされる。今更慌てるのも愚かしいと、逸る自分を戒めたのだろう。

 兵達も今更どうとも思わず、特に軍律が乱れるような事はなかった。彼らもまた、今となっては腹を括

るしかなく。敵が出てきた事で開き直れ、逸るのではなく、逆に性根が座ったのかもしれない。

 帯陣するのは誰でも飽く。何をするでもなく、かといって気を抜けない。そうして疲弊した心は、楽に

楽にと考えを移し、いつしか無用の事を考え始める。

 それを鍛えられた精神で律しながら、平気な振りをして耐えているが、見た目通りの心情ではない事は

確かだ。だからそうして中途半端で待つよりは、いっそ目前に敵が居た方が、心も収まるのかもしれない。

 楓流はそういう状況を確認し、その上で更に入念な準備、各隊への伝達法から部隊運動と連携の復習ま

でさせてから、ようやく遠映を出た。

 今度は祇軍が待つ番である。精々戦を望みながら、焦れに焦れるがいい。或いは楓流にはそういう気持

もあったのかもしれない。




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