6-6.獅子と蛇


 楓軍は森へと引き摺り込まれた。

 そう表現していい。楓が押していたのではなく、孫が退いていたのでもない。文字通り引っぱられてい

たのである。

 楓流の疑惑が確信に変わったのは、いや変えられたのは、森に入り、左右に伏されていた兵から、挟撃

を受けた時であった。

 つまり楓流はまったく伏兵に気付いておらず、その対処もしていない。完全に虚を突かれた形となり、

楓兵は混乱し、大きく乱れた。

 孫文は森に兵を伏し、退くように見せかけて、その場所まで楓軍を誘導していたのである。

 いくら攻めても押しても軍が崩れぬ訳だ。初めから引く予定だったのだから、いくら押したとて、崩れ

る事も、兵が混乱する事も無い。初めから計画通りの後退であれば、誰も不安や焦りを感じる必要は無い

のである。

 むしろまんまと引っかかったと、孫兵は心中で笑っていた事だろう。

 孫軍は一転し、混乱する楓軍を攻め返し、粉微塵に砕くが如く、伏兵と共に半包囲の形を作りながら、

容赦なく襲いかかった。

 今まで優勢と思わされていた楓兵は堪らない。

 初めは状況が理解出来ぬまま、それでも楓流の命に従い、無我夢中で前進していたが。徐々に状況がは

っきりしてくるにつれ、本来持っていた恐怖心が目覚めたのだろう。今までの虚勢が一気に消え去り、勝

手に行動し始め。混乱が混乱を呼び、最早軍の形を保てず、ただの逃げ惑う群集へと変わってしまった。

 何処に誰が居るのか、今何をどうして良いのかが解らない。

 皆が思い思いに騒ぎ立てるので、命令も太鼓の音なども何も聴こえない。誰かが何かを発しているのは

解るが、まったく聞き取れないのである。

 冷静な者もいつの間にか混乱に巻き込まれ、訳の解らないまま、流されるようにして仲間に押し潰され

てしまう。

 将も兵も無い。荒れ狂う大河のように、人の群は邪魔な鎧や刃を捨て、思い思いに逃げて行く。とにか

く逃げろ、孫軍から逃げろ。それだけが今の彼らに通じる唯一の言葉であり、全てであったのだ。

 まだ楓流が鍛えに鍛えた精兵達は彼を信じ、持ち堪えていたが。各領地から集められた集兵達には、そ

こまでの度胸も信頼も無い。訳が解らないまま、とにかく敗北したと思い、命令など何処吹く風、各々が

勝手に逃げ出し、離散してしまっていた。

 楓流が必死に精兵を集め、何とか持ち直そうと試みたが、如何せんこの流れは覆(くつがえ)し難く。

兵のほとんどが命令を無視している今、軍として保つ事は不可能であった。

 目前には猛然と攻勢を仕掛ける孫文の姿。乱戦の中でその姿を視認できないまでも、楓流にははっきり

とその姿が見えるように思え、心底からはっきりとした恐怖が浮き上がる。

 蛇に睨まれた蛙、ならぬ、獅子に睨まれた蛇である。

 蛙を喰らってきた蛇も、獅子相手には全く歯が立たない。叫ぼうと牙を剥こうと、何一つ通用せず、弄

(もてあそ)ばれるようにして、当たり前に敗れた。

 考えてみれば詰まらない手である。自分も何度も使ってきた手、史上何度も使われてきた手。伏兵を配

し、そこへ敵勢を呼び込む。それだけだ、それだけで見事なまでに敗北を喫した。

 これは戦いにすらなっていない。単に孫文の思考の中で踊らされ、踊らされた挙句に足下を掬(すく)

われた。それだけの事である。

 仕掛けた孫文自身ですら、驚いていたのかもしれない。それほどに無様な負け方を晒している。

「各自撤退せよ!!」

 悔し紛れに叫んで見たが、今更それを受け取る者はいない。

 孫文は混乱の極みに陥った楓軍に対し、冷静に、そして容赦の無い刃を加えている。命乞いをする者も、

果たしてその声が聞き遂げられたのかどうか。楓流は自らの無様な敗北と、愚かな指揮を恥じ。せめて兵

達が少しでも生き延びられる事だけを祈る。

 しかしその祈りも虚しく、凄まじい怒号と悲鳴の中で、楓流の耳目は塞がれ、自分の居場所すら失って

しまった。

 何も解らず、何一つ状況が掴めない。とにかく逃げなければならない事は解っていたが、まだ兵が居る

中で、自分だけが逃げる訳にもいかない。

「落ち着け、落ち着くのだ!!」

 一人立ち止まり、精兵を鼓舞しながら、何かそのような事を叫んでいたと思うが、はっきりと思い出せ

ない。つい数秒前にした事も、今この場で行なっている事も、何やら夢の奥の景色のようで、ふわふわと

現実味が無く、頭の中からすうっと抜けて行く。

 手を伸ばしても伸ばしてもソレはいつも逃れ、決して届く事はなかった。

 このまま死ぬのかと漠然と思った時、体に何かが触れるのを感じたが、楓流はそのまま抗えず、その何

かに飲み込まれるように、そのまま流されてしまったのだった。

 気付けば、見知った兵と共に、懸命に走り続けている。

 疲れと乾いた喉の痛みだけがやけに現実的で、苦しみだけが楓流をこの世に繋ぎ止めているようにも感

じる。とすれば、ここは冥府なのだろうか。地獄に落ちるとは、こういう事であるのか。

 流された後の事は、良く覚えていない。いや、壊乱してしまった時から、もうそれらを認識出来る状況

ではなかったのだろう。あまりにも大き過ぎる力を前に、楓流の精神も正常ではいられなかった。

 思い出したように周りを見回すと、百か二百か、それくらいの兵が共に逃げている姿が映る。伏兵の居

た森から逃れ、開けた場所を抜け、再び森林に包まれ、息を切らしながら駆け続けている。

 自分達は何をやっているのだろうと、場違いな疑問が浮び。現実的では無いとその疑問を払えば、今度

は情けなさだけが込み上げてくる。

 逃避するか、向き合うか、二つに一つ。しかし今の楓流には、どちらも辛過ぎた。後は泣くしかなかっ

たが、兵達が共に居る以上、そのような姿を見せる訳にはいかない。撤退時こそ、強い姿を見せなければ、

兵達は付いて来ないからだ。

 辛い時こそ、将は胸を張らねばならぬ。

 だから辛い気持ちは何処にも消えない。楓流は、この時程馬が欲しいと思った事はなかった。せめて馬

上に伏す事が出来れば、一人先頭を駆ける事が出来たなら、人知れず弱みを見せる事も出来たろうに。

 それに馬が在れば、少しは余裕が生まれ、まだ何かやりようがあったかもしれない。夢想とは思いなが

ら、ありえない思いに縋りつく。

 喉が渇き、息をする度に刃が通り抜けるような痛みを味わう。足腰はまともに動かず、果たして今本当

に走っているのか、走れているのだろうか。

 追っ手は何処か。孫文は今何処に居るのか。

 余裕があれば、まだ状況を見る事も出来たはずだ。そして馬の足があれば、死なずに済んだ兵も居ただ

ろう。

 幸い地理を把握している為、迷う事は無いが、これではただ逃げる事しか出来ない。なんと云う愚かな

将の姿だろう。何と無様な姿か。

「・・・・・・、・・・・」

 共に走る兵に言葉をかけようにも、何も頭に出てこない。いや、どちらにせよ無駄だったか。どの顔も

絶望に在り、まるで精気が無い。おそらく楓流もまた、彼らと同じか、それよりも尚酷い顔をしているの

だろう。

 まるで死人の群だ。

 楓流はならばいっそ死人になってしまえと思い。この痛みや苦しみも死人ならば感じぬ筈だと言い聞か

せながら、後はもう何も考えず、必死に逃げた。

 幸い、傷はほとんど無く。孫文も深追いを避けたのか、背後から追っ手が来る気配も無い。

 とにかく彼らは命を拾う事が出来たのである。

 ほんの少しの、延命かもしれなかったが。



 孫文が理由無く追撃を止める筈がない。やはりそれにも訳があった。

 楓流はからくも集縁まで辿り着いたが、彼を追ってきた兵は約千。後は何処へ行ったのか、死んだのか、

囚われたのか、或いは寝返ったのか、何も解らない。

 しかしそんな事に構っていられない事態が、逃げ延びた楓流を待っていた。

 隻軍が盟約を破り、敗れた楓に追討ちをかけるように宣戦布告し、進軍を開始したのである。

 孫文と申し合わせていたに違いない。だからこそ孫文は楓流を逃がし、これまた楓流が祇路へ行なった

のと同様、確実に仕留める為に拠点へ籠らせ。同時に楓兵に時間を与える事で、楓流の手勢を減らし、孫

軍の消耗を減らそうとしたのである。

 窮鼠(きゅうそ)猫を噛む、という言葉もある。孫文はわざと時間的余裕を与える事で、死を覚悟した

死兵と化すのを防いだのであろう。

 決死の人間は怖ろしい。孫文が負ける事はまず無いとしても、当然被害が大きくなる。孫文としては楓

も大陸統一までの、一障害に過ぎず。ここで無意味に消耗する事を避けたのだ。

 孫文は大勝を収めても奢(おご)る事無く、尚冷静である。

 遠映(トウエイ)一帯の護りとして、楓流と入れ替わりに、凱聯と胡虎を配しているが。ほとんどの兵を

孫文との決戦に使っている。最低限の守備兵だけでは、時間稼ぎしか出来ないだろう。

 孫文も勿論あれだけで歩を止める筈がない。準備を整え、次は確実に楓流の首を狙ってくる。

 隻と孫に挟まれては、防ぎようがない。

 楓流は運び屋時代の最後を思い出し、戦々恐々と震える思いであった。

 考えた末、集縁を、いやこの大陸中央部に得た領地を全て放棄し、窪丸(ワガン)へ逃げ延びる事を決

めた。

 抗う術が無い以上、逃げるしかない。集縁の防衛力が高いと言っても、とても孫隻軍は防げない。

 集縁の民は悔しさに涙を見せていたが、こうなれば仕方がなかった。全てを捨てて逃げ、再起を計る意

外に無いのである。

 先の一戦で勝敗は決した。予想通り孫文の圧勝であり、今更楓流に付き従う者はいないだろう。今はま

だ残ってくれている兵達も、そのうち去って行く。楓流にはそれを繋ぎ止める力は無い。

 このまま兵として置く事はかえって逆効果になり、下手すれば内側から深刻な一撃を加えられる事にも

なりかねないので、開戦前と同様、逃げたい者は今すぐ去るように命じた。

 最後の一戦が始まる前なら、それを命じられるだけの影響力はある。今の内にやれる事をやり、すっき

りした後、付き従ってくれる者達だけを集め、一路窪丸を目指す。

 窪丸ならば、或いは孫文を食い止められるかもしれない。それでも駄目なら、双を頼る以外にないが、

後の事は考えていない。とにかく今は逃げる事だけを考えている。

 それになるべく双に借りを作りたくないという気持ちもある。

 確かに双へ落ち延びた方が、まだ楽な道かもしれない。当主、双正(ソウセイ)は決して楓流を邪険(じ

ゃけん)に扱うまい。それに北方ならば、まだ孫文の影響力も少ない。

 しかしそこまで他者に頼るのは、如何なものか。命の借りは命で返すしかなく。双正から受けた恩は、

後々まで楓流の人生に深い影響を及ぼす事になるだろう。おそらく一生頭が上がるまい。

 それに比べ、窪丸は半独立勢力ではあるが、名義上はあくまでも楓流の領地である。そこへ落ち延びよ

うと、恩義を感じる必要は無い。礼はするべきだろうが、双に頼るような深刻さは無い。

 楓流は西に置いてある凱聯と胡虎にも、去りたい者は去るよう命を出させ。自分と共に行く者だけを連

れ、技術を盗まれぬよう炉などを壊し、なるべく早く帰ってくるよう伝え。自らもそれを待つ間に炉を破

壊し、準備を整え始めた。

 今まで傘下にあった街を放って行く事にもなるが、街や砦、民や兵であれば、孫文は問題なく投降を受

け容れてくれる。王や将に対しては苛烈なまでに厳しいが、戦中でなければ、彼は兵や民に寛大である。

 だからこそ、孫文も勢力を大きく出来たのだろう。

 結局その地を支配しているのは、その地に住まい、その地を耕している民であり。その地を治める力は、

その民達から出る兵士である。それさえ押さえておけば、他の事はさほど問題にはならない。

 無論、街からすれば楓流に捨てられたも同然であり、恨みを買う事は避けられない。

 心は痛むが、楓流にはどうしようもなく。望む兵を街へと帰し、街を解放してやる事しか、今は出来な

いのであった。

 ただ一つ不安があるとすれば、隻の支配下に置かれる街の事。孫文なら安心だが、隻はその性質から言

っても、民を任せるに足りない。しかしこれもまたどうしようもない事だ。今の楓流では、隻一個にすら

勝てない。

 孫文が口入してくれる事を願うしかなかった。

 敗北した後に、敗北させた張本人を頼りにせねばならないとは、まったくもっておかしな話であるが。

楓流も、孫文が残虐非道でなかった事だけを、せめて天に感謝するしかなかったようである。

 この時の彼は、本当に無力だった。




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