6-7.山窮水尽


 楓流の手元には、五百程度の兵が残っている。もし先の戦で逃げ延びている兵が居れば、また増えるか

も知れないが、現在残っているのはこれだけである。

 そのほとんどは集縁出身、或いは長く集縁に居た兵であり。これに凱聯と胡虎の率いてくる兵を加える

と、上手くすれば千近い兵数を確保出来るかもしれない。

 しかし傷を受けた兵と女子供、そして老人達の数はそれを大きく上回る。

 集縁の民のほとんどは、最後まで楓流と共にある事を望み。動けない者以外はそっくり楓流に付いて行

くと言ってもいいくらいで、街を一つ丸々移転するのと変わらなくなっている。

 その為、行軍にかなりの困難を伴うと思えたが、楓流にはどうしてもこの者達をそのままにしておく事

は出来なかった。

 出来れば家や木、土までも、ここに在る全てを一緒に持って行きたいくらいなのだ。それだけ思い出深

く、集縁そのものが楓流と言っても良いくらい、彼はこの土地と深く繋がっていたのである。

 民達もだからこそ必死に付いて行きたがるのだろう。ここで大人しくしていれば、命まで奪われる事は

無く。運が良ければ、今までとさほど変わりなく暮していけるかもしれない。

 しかし彼らはそれを望まない。

 此処に残る者も、あくまでも自分は留守番だと言い張っている。怪我や動けぬ父母が居る為にここに残

るしかないが、それもいずれ楓流が戻ってきた時、不自由なく出来る様にする為に、自分達は楓の一族と

して、決して諦める事無く工作し続けるのだと。

 そんな言葉を聞き、思い出を手繰れば、思わず涙も流れる。

 土地、人、記憶、愛すべき全てを捨て、先の見えぬ逃避行をする破目になってしまうとは、これも戦に

明け暮れた報いだろうか。

 こんな事ならば、幼少過ごした山で、あのまま養父と共に、仙人のように欲望とは無縁の暮らしを続け

ていた方が、良かったのではないのか。自分のやってきた事は、結局乱世を助長しただけで、不幸を撒い

ただけではなかったか。

 この集縁にも、運び屋の時と同じく、結局不幸をもたらした。

 流石の楓流も耐えきれなったのか、人知れず声を殺し、涙無く、泣いたと伝えられる。自身の記録には

残っていないが、趙深遺文に胡曰(ウエツ)から聞いたのか、そういう事が書かれている。

 何を思ってそれを書き残したのかは解らないが、どうも趙深は人間としての碧嶺を残したくもあったよ

うである。

 そう書く事で、人間碧嶺を思い出していたのか。或いは碧嶺という名が、虚像になってしまう事を恐れ

たのだろうか。

 人間は全て同じ。その違いは、何をやろうとしたか、そしてその結果として、何を残したかに過ぎない

のだと。

 ともかく、楓流は哀しみに暫し震え。その側で、彼と最早一心同体といえる、胡曰(ウエツ)が優しく

微笑んでいたと云う事だ。

 胡虎が楓流の表の補佐ならば、胡曰は裏に隠れる部分を補っている。

 楓流はしばしば人知れず泣いた。彼も人の子、悲しみは泣いて晴らすしかない。ただし涙を見せる事は

ほとんどなかった。彼の涙を知るのは、ただ胡虎と胡曰の二人のみ。いやもしかすれば、胡曰一人だけで

あったのかもしれない。

 しかし勿論泣くばかりではない。心の重みが少しでも減れば、もう二度としくじりはせぬと、逆に哀し

みを気力へと変え、楓流は何度でも再起を心に誓う。

 必ず、この集縁を取り戻してみせる。決してそれだけは忘れぬ。一生を賭してでも、全てを取り戻して

みせるのだ、と。

 そう、楓流達はここを去る為に逃げるのではない。ここへ帰って来る為に、今は逃げるのである。

 その想いを、理解しておく必要がある。



 窪丸移住計画、敢えてそう呼ぼう、自体はそれなりに順調に進んでいる。

 家財道具はほとんど捨て置き、必要な衣服と食料、水のみを持たせる。欲を捨て、身一つで出て行く覚

悟を、全ての者に決めさせ、極力荷物を減らす。

 人が移動する時、困るのは人自身よりも、むしろそれに付いてくる物である。逆に言えば、物を減らせ

ば、それだけ身軽になれると云う事だ。

 帰還を待つ、凱聯と胡虎の方も、後退してくるだけなら、それほど困難ではなさそうだ。隻もまた孫文

と同じく、焦らず、確実に領土を広げており。こちらから手を出さなければ、向こうから打って出るよう

な様子は無い。

 周辺の街にも自由にするよう命じてあるから、素直に投降する街が多いのだが、それでも隻はじっくり

と進んでいる。楓軍はすでに寡少(かしょう)とはいえ、それさえも孫文と戦わせ、少しでも多く被害を

与えたいのだろう。胡虎からの伝令によると、戦いを避けているとしか思えない動き方であるそうだ。

 ここに到っても冷静と言うべきか、狡猾(こうかつ)と言うべきか。まあ、流石と言っておこう。これ

で隻は、祇と楓を上手く手玉に取った事になる。その技量だけは認めるべきだった。

 上手く使われ、悔しさが募るが、隻が信頼出来ないのは、楓流も初めから解っていた事。ようするにこ

れも楓流の失策であり、怒ろうと罵(ののし)ろうと、自らが虚しくなるのみである。

 無用の苛立ちは、毒にしかならない。

 ともかく、隻の侵攻が鈍い事だけは確か。孫文と楓を出来る限り戦わせたいのも本心だが、無用に功を

立て、後で孫文に睨まれるのが怖いのもある筈だと、楓流は見ている。

 孫文の同盟は、あくまでも一時的なもの。未来永劫の友好を望むなど、どう考えてもありえない。単純

に、今お互いに利用価値があるから、お互いに利用し合うべく同盟を結んでいる。つまりは隻も孫文から

見れば敵なのだ。倒す順番が違うだけで、立場は楓も隻も違わない。

 敵、いずれ倒すべき敵でしかない。

 だから欲を出して余計な事をすれば、その分大きな報いがある事は、誰にでも解る。

 本心がどうあれ、隻は強引に行動する事が出来ない。隻の望みは国家の延命。孫文に勝てない事は明ら

かだから、信の無い同盟を結び、倒される順番を後回しにしてもらう事で時間を稼ぎ、時勢が変わるのを

待っている。

 情けないやり方だが、しかしそれを誰も笑えまい。隻も必死で生きたいだけなのだ。そもそも楓が隻と

同盟を結んだのも、似たような理由からである。

 それに隻が孫に遠慮し、好きに動かないのは、楓にとっての大きな利点。ならばそれを歓迎しよう。

 このおかげで時間が稼げ、準備を整える事が出来る。孫文への恐怖は変わらないが、皆一緒に撤退する

事だけは、少なくとも叶う。

 そうであればこそ、可能性も生まれるのである。

 ただ一つだけ大きな問題が残されている。

 移住予定地の窪丸には未だ李氏が居り、その支配下にあるが、その李氏が楓流を素直に受け入れてくれ

るとは、思えないのだ。

 形として楓に臣従しているとはいえ、それは名ばかりの関係である。楓流の勢威が衰えた今、今までの

ように従う姿勢を見せるとは思えない。

 王である李牧の身になって考えれば、楓流を厄介者扱いこそすれ、受け入れる筈がないのである。

 計算高い彼の事、孫と楓を量りにかければ、どちらに付くのが有益かは、今更考えるまでもない。楓に

は双も付いているが、最早双も孫文への抑止力とはなりえない。

 孫文も双など眼中に無く、中央を統べれば、次は西方に目を向けるつもりだろう。孫文の相手が出来る

とすれば、後は西方の大同盟だけだろうからだ。北方などは今更牽制(けんせい)するまでも無い。だか

らこそ双の意向を無視し、宣戦布告ともとれる楓侵攻にも乗り出した。

 中央と、そしてすぐに完全に支配下に入るだろう東方を思えば、どれだけ権威があったとしても、たっ

た一個の勢力で勝てる訳が無い。

 未だ統一政権の見えぬ北方など、後回しにしてもどうと云う事はあるまい。今の孫文から見れば、烏合

(うごう)の衆である。

 となれば、北方と繋がる窪丸にも、暫くは興味を示さないと考えられる。

 西方が片付くまでは、孫としても窪丸と盟約を結ぶ事は吝かではないと思える。そして愚かな李牧はう

まうまと利用され、北方の穀倉地帯から得る、豊富な食料と金銭を散々搾り取られた挙句、最後には綺麗

に滅ぼされてしまうだろう。

 李牧がどう考えているかは知らないが。窪丸、そして双に価値があったのは、孫文が中央を手に入れる

準備を整えるまでの事。今更何の価値も無い。

 いや、前に少し触れたように、確かに窪丸程度なら放っておく可能性はある。しかしそれも今はさほど

高くないと思える。

 まあ、その事は良い。孫文の事情や、窪丸の将来は、今の楓には関係ない。大事なのは、李牧が楓流を

歓迎する事は、まず無いだろうと云う点である。

 逆に軍を率いて迎え撃ち、楓流の首を取って、孫文への土産にしようとでも企む可能性の方が高く。そ

の不安だけは、現実の問題として、どうしても消す事が出来なかった。

 しかし独立を諦め、最後の手段として双を頼るにしても、結局は窪丸を通るしかない。他の道は隻と孫

に塞がれてしまっている以上、進む先は一つしかない。

 結局、楓流がどう進もうとも、行き着く所は窪丸なのである。

 それは孫文も良く知っていよう。先に手を打ち待ち構えるのも悪く無いが。わざと逃がして窪丸へ進ま

せ、李牧と挟撃を計るのも上策だ。そうなれば、正に袋の鼠、楓流は完全に逃げ場を失う。

 楓と違い、今の孫文はどんな手でも打てる。楓に望みがあるとすれば、孫文が確実さを求める余り、楓

流と同じ失敗をしないかと云う事だけだ。

 楓が隻を使おうとしたように、孫が窪丸を使おうとすれば、或いはそこに隙を見出せるかもしれない。

 結局、他者を使えば、そこに何かしらの歪みが生まれてしまう。それは防ぐ事は、人には出来ない。

 後は覚悟を決めるだけである。



 楓流は今更失うモノは無いと、最後の賭けに出る事を決めた。

 そう、窪丸には李氏が居座っているが、忘れてはならない、白祥(ハクショウ)が居る。そしてこの白

祥は李氏の保存など一切考えていない。彼にあるのは、窪丸とその民の保護のみ。何せその情熱だけで将

になったような男である。

 白祥が李牧のように、目先に眩む事もありえない。孫文からの使いがすでに窪丸には行っているだろう

が、それに対しても、嫌悪感しか持っていない筈。

 孫文のやり方は白祥も解っている。李牧程度では、簡単に利用された後、あっさりと捨てられるだろう

事も、痛い程良く解っている。

 白祥は長年李牧に大して疑問を抱いてきた。李氏が交易の一切を執り行っている為、その下に甘んじて

いなければならなかったが。交易以前に、窪丸の民が苦しむとなれば、話は別になる。

 孫文が如何に民に寛大とはいえ、利用できる者に手心を加えるとは思えない。むしろ小さな街一つくら

いなら、食い潰しても、さほど問題は起こらないと考えても、おかしくはないだろう。

 窪丸は周囲から一つ離れ、ある意味浮いており、半分孤立している街である。その為に孫文もさほど攻

め滅ぼす事を考えないで済むが、逆に言えば生かしておく必要も無い。

 どちらでも良い街。だからこそ上手く立ち回れば、孫文と共存して行ける可能性があったのだが。李牧

にその才があるとは思えない。そして白祥自身にもあるとは思っていまい。

 白祥は今こそ楓流に価値を見出すのではないか。楓が滅ぶ瀬戸際のこの時に、不思議な事だが、頼りに出

来るのはこいつだけだという思いが、白祥に芽生えてもおかしくないのである。

 交易を初めからやり直す苦難にさえ目を瞑れば、李牧には用が無く。孫文は初めから頼りに出来ない。

 後に残るのは、誰か。

 であれば、白祥を完全に味方に引き入れ、孫文に一杯食わせる事が出来るかもしれない。

 幸い白祥とは沢山の手紙を交わし、知らぬ仲ではなくなっている。しかも楓流が白祥を買っているよう

に、彼も楓流を買っている。

 上手く白祥を味方に付けたとしても、決して楽な道とはならないが。もし可能性があるというなら、そ

れだけが楓流とその一党を生かす、唯一の道であった。

 これは明確な賭けである。

 白祥の一存で全てが決まる。初めから、答えは楓流の外にある。しかもそれが成功したとしても、孫文

から逃れられるとは限らない。

 例え逃げられたとしても、見逃してくれれば良いが、意地になって執拗に攻めてくるかもしれない。

 不安が無い筈が無い。むしろ不安だらけだ。四面楚歌ならぬ、四面不安とでも云うべきか。何処からも

不安の音が忍び寄ってくる。

 しかし可能性は在る。窪丸に逃げ込む事が出来れば、再起の道は繋がる。

 それしかないのならば、そうすべき。

 楓流はおそらく生涯でも一、二を争う程の緊張の面持ちで、白祥への密書をしたためた。

 これで決まるのだ。彼と、彼を慕う者達の命、そして未来が。

 楓流は天へ祈りながら、今居る中で一番信頼出来るだろう鏗陸(コウリク)へと、その文を託した。

 もしかすれば逆効果になるかもしれないが、白祥に一杯食わせた彼ならば、活路を開いてくれるかもし

れない。その一本気な性格にも、白祥と何処となく通じる所がある。

 今は、それに託そう。




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