6-8.要


 鏗陸を使者として発してから数日、ようやく凱聯と胡虎が安全に連絡を取れる距離にまで、後退する事

が出来。楓流は足の遅い者から順に、精兵を護衛に付け、出発させ始めた。

 敗残の兵には落ち武者狩りが待っているものだが。その手の事を孫文は好まないし、楓流とその兵団は

民からさほど憎まれてもいない。その点はそれほど心配無いと思える。人通りの少ない場所など、自分か

ら怪しい場所に足を踏み入れなければ、おそらく被害は無いだろう。

 それに未だ孫、隻共に付近で動いているのだから、余計な事をして戦禍に巻き込まれたくはないだろう

し。山賊強盗の心配も無いとは言えないが、精兵達であれば簡単に返り討ちに出来るはずだ。楓にもその

程度の力は残っている。

 大きな山賊団、強盗団などは、すでに楓流が討伐していたし。そこはむしろ数少ない安心出来る部分で

あった。

 楓流は民と兵を数個の塊に分け、自らと共に殿(しんがり)を受け持つ兵を百だけ残すと、後は全て民

達の護衛に回している。

 彼ら護衛役には、もし楓流に何かあった時、抵抗せず投降するように命じてある。

 その命に不満はあるだろうが、その時はそれが楓流の遺言になるのだから、兵も民も従ってくれるだろ

う。そして素直に投降さえすれば、孫文は悪く扱わない。彼も治めるべき民と、従えるべき兵は、いくら

でも欲しいのだから。

 孫文が敵とするのは、ただ勢力を率いる者とその家族、そしてその後継となる人物のみ。

 何度も言うが、楓流死して後の事は、さほど心配していない。心境は複雑だが、孫文はその下に付きさ

えすれば、誰よりも頼れる主人なのである。

 彼と同等になろうとか、特別な権威が欲しいなどと望む事は許さぬが。従順な部下に甘んじてさえいれ

ば、最良の主人でいてくれる。だからそれはいい。

 今楓流に心配があるとすれば、鏗陸の事だけである。

 白祥が孫文の方に利と信を見れば、その時点で楓の滅亡が決まってしまう。

 覚悟はとうに出来ているが。望みがある限り、それを捨てたくはない。楓流は生を簡単に諦める事だけ

は、したくない。

 死ぬ覚悟と生を諦める事は根本的に違う。この場合の覚悟とは、生を貫く為の覚悟であり。今から逃れ

る為に諦めるのとは、根底となる部分が違う。

 楓流は養父に拾われた命を、簡単に捨てるような事は考えていない。むしろ逆である。生き延びる為に

こそ、死す可能性すら覚悟する。死中にすら活路を見出そうとする覚悟であり、死を賭して生を掴もうと

する為の覚悟なのだ。

 例え死ぬとしても、多を生かす為に死ぬならまだいい。しかし無責任に命を放り出すような事だけは、

楓流は絶対にしたくなかった。

 それは全ての生命に対する冒瀆(ぼうとく)である。

 彼に付いて来てくれる者達への責任と、感謝の気持ちも忘れてはならない。彼らの気持ちに応える為に

も、今まで楓流を生かす為に費やされた命を無為にしない為にも、必死で生きる事は、絶対に放棄しては

ならない事である。

 だからこれからの道筋が決まるという点で、鏗陸のもたらす結果が、狂おしいほどに気になる。

 投降するにしても、戦いが始まってしまってからでは遅いのだ。やるならば、戦いが始まり、血を見て

両者の気が猛る前に、済まさなければならない。

 孫文の前にて、自らの首を刎ねる事を。。

 しかしその焦りにも似た気持ちは、やるべき事をやっていくにつれ、いつの間にか消えてしまっていた。

孫隻軍の動向を見つつ指示するだけで手一杯で、悩む時間すら、無くなってしまったのだろう。



 楓流は凱聯達が到着するや否や、凱聯を前線指揮として先発隊へ向わせた。

 無論、この火急の時に、凱聯の面倒まで見ていられない、というのが本音であったが。当人にはお前を

信頼し、民達を任せる為だと、言い含めてある。その辺の凱聯操縦術とでも呼ぶべき技術なら、楓流も上

達している。

 何しろ長い付き合いだ。ある程度なら、凱聯の思考を読む事が出来るようになっていた。完全に理解し

ている訳ではないが、とにかくお前を特別に信頼しているのだと、そう思い込ます事が出来れば、凱聯は

従順なのだ。それさえ守れば、余計な不安を起こさずに済む事だけは、解っている。

 だからこそ面倒なのであるが。とにかくそれだけを理解し、守っていれば、上手く使いこなせる。決し

て裏切らないのだから、使い方さえ理解すれば、凱聯も悪くは無い。むしろ有益かもしれない。

 火急の時だからこそ、その決して裏切らないという心が生きてくる。それもまた、楓流が凱聯を手放さ

なかった理由の一つなのかもしれない。

 憂いを除いた後、楓流自身は胡虎と約四百の兵を従え、集縁で充分に休息をとった後、ようやく窪丸へ

と出発した。

 すでに始めている以上、急ぐ必要は無い。いつ始めるかが問題だったのであり、始まってからは急いで

も害になるだけだ。ゆっくりしているように見えても、先発させた傷病者や年老いた者達の足を考えれば、

まだ早いくらいである。

 楓流の読み通りであれば、孫文も窪丸への道を空けていてくれるだろうし。もし楓流の読みが外れ、孫

文がこの時点で楓一党を殲滅するつもりであったとしても、初めから勝ち目が無い以上、それは同じ事で

ある。

 急ごうと何をしようと結果が変わらないのであれば、何を今更急ぐ事があろうか。

 孫文の流儀からして、傷病者や少数の兵を各個撃破するような事をすまい。

 敗残兵相手に姑息な手段など使わず、むしろ全て集まるのを待って、堂々と正面から殲滅する筈だ。戦

力差は歴然、万が一という不安さえ無く。先のように策を講じるまでもない。

 楓と孫の勝敗は、すでに決している。この上で孫文が望むのは、楓流の首一つのみ。彼もまた、急ぎは

しない。ただ確実さのみを重んじる。それが孫のやり方。

 だから楓流もまた急がす事をせず、ゆっくりではないが、通常の行軍速度を保った。旅人が歩くのと同

じか、若干劣る程度の速度である。遅いとは言わないが、間違っても速くはない。

 上手く楓流の思惑通りにいったとしても、怒り猛るだろう孫軍を、ある程度は凌がなければならず。凌

いだ後も、窪丸と白祥の力を使って、孫軍を撃退せねばならない。

 そう考えれば、少しでも兵を疲弊させない事は、この状況でも大切な事なのである。

 全ては先を見るからこそ。未来を信じるからこそなのだ。



 孫文も疲弊を嫌う。行軍速度は、やはり速くない。

 その行動も今の所は楓流の読み通りで、窪丸への道を閉ざす事無く、むしろ追い込むように包囲陣を執

っているようだ。

 包囲陣に参加し、おそらく決戦兵団とするのであろう兵数は、孫が三千余り、隻が千程度。ざっと調査

しただけで割り出された数だが、まずまず正確な数である。

 充分過ぎる数で、隠す必要は無い。むしろ圧倒的優勢を知らしめるように、堂々と行軍しているのだか

ら、正確なのは当然だった。

 後の兵は中央平定と、戦後を狙う山賊強盗への抑えにでも使っているのだろう。

 孫文は慎重にして堅実、箍(たが)もきちっと締めてくる。各街に自兵力を置き、例え決して裏切りは

しないだろうと思えても、釘を刺しておく事を忘れない。彼は万が一を許せないのだ。

 そんな鉄壁の孫軍に比べ、楓の兵はどれだけ見積もっても千程度。まったく話にならない。

 おそらく隻の兵は使わず、孫兵だけで最後の一戦を済ますはずだが、それでも三倍の兵数差がある。素

直に投降しなければ、おそらく簡単に全滅させられてしまうだろう。

 例え死兵と化し、一丸となって戦いを挑んだとしても、大した効果無く、予定通り滅ぼされる。

 孫の兵は初めから死兵と変わらず、孫文の命のみに従う。恐怖をも超越した、絶大なる信頼の中に、孫

軍は成り立っているのだから、孫文が揺らがぬ限り、決して兵も揺るがない。窮鼠(きゅうそ)も獅子の

前には無力と云う事だろう。

 獅子を猫に戻す術でも無い限り、何をしても決して通用しまい。

 孫文がこうして時間をかけるのも、恐れているのではなく、ただただ必勝を期したいが為だ。確実に仕

留める為に、まるで詰め将棋でもするかのように、慎重に事を運んでいる。

 逆に言えば、一敗というものを、それほど怖れているのだろう。

 当時は碧嶺統一後にくる王道の時代のように、正義とか正道に拘るのではなく、あくまでも力こそが全

て。勝利だけが覇道を進む資格であり、敗北すれば全てを失う。

 全ての権威は虚構であり、それは孫文とて同じ。誰もが砂上の楼閣にて、権威を誇るしかない時代であ

った。

 楓流に目があるとすれば、孫文とて一敗を怖れるという点だが。その一敗を付けられるのであれば、彼

は今こうして撤退戦を行なっていない。

 あるとすれば窪丸との連携。孫文の予想を越えるには、愚かとしか思えないその楓と窪丸との連携しか

ない。だが鏗陸は未だ帰還せず、楓流も流石に不安を覚え始めていた。

 やはり賭けは賭けでしかなかったか。

 鏗陸が逆効果だったのかもしれない。それとも今となっては楓流の名などに何の価値も無いと云う事か。

 帰って来ない以上、何も状況は解らないが。さりとて予定を変更する訳にはいかない。ここまで来た以

上、突き進むしか他に道は無く。とにかく最後の最後まで諦めず、窪丸までの道を進む事が必要だった。

 楓流が諦めてしまっては、すべての頑張りが無駄になる。それだけはしてはならない事である。

 最後まで諦めず責任を取る、それが上に立った者の最後の務め。

 楓流はともすれば絶望に呑まれそうになりながらも、丁寧に行軍を続けた。

 この時にはもう、これは最後の勤めなのだと、覚悟していた節がある。最後だと思うからこそ、この怖

ろしいまでに精神を消耗する仕事を、最後までやり遂げる事が出来たのかもしれない。



 楓軍が窪丸へ続く道に入ると、それを待っていたように孫軍が速度を増し、人一人すら通れぬよう、し

っかりと出入り口を塞いだ。

 隻軍は下がり、孫の背後にてゆるりと陣を置く。これで隻軍の役目は終わったのだろう。後は逃げ道を

確保しながら、大人しく待っているだけだ。

 何故役目が終わっているのに、逃げ道が居るのか。それは楓と決着が付いても、それで終わりではなく。

返す刀で、孫軍が隻軍に襲い掛かる可能性もあったからである。

 孫文はしたたかで、個人的な情には囚われない。用が済めば、その時点で隻に襲い掛かってもおかしく

はないのだ。

 そもそも、孫が隻の力を必要としていたかすら、疑問である。

 西方への盾として、隻に使い道を見出している可能性があったが、それも絶対必要とは思えない。それ

に戦で気が猛っている時、しかも勝利した後であれば、その勢いに乗じて・・・と考えても、何らおかし

くはないと思える。

 ようするにそういう事を考え、最悪の事態を想定しながら行動するのが隻である。確かに楓流よりも上

手だろう。

 しかし孫文はその更に上を行く。実はこの段階で、隻には知らせず独自に別兵団を動かし、すでに集縁

一帯を制圧しており、隻の退路も断っていた。

 これを隻が知るのは、無論自国へ引き返す時であるが。その時に自らの危うさを痛感する事になる。そ

れまでは何処か孫文を舐めていた節があったが(だからこそ孫と同盟を結んだのだろう)、それを見て、

自らの浅はかさ思い知らされる。

 そしてその事が、後の情勢に少なからず影響していくのだが、それはまた別の話。

 今は戻そう。

 楓軍は圧倒的な力を誇る孫軍に圧し出されるように、窪丸へと押し込まれていった。

 それは楓流が窪丸を目指していたからでもあるのだが、事実、圧されてもいたのである。

 言葉にするのは難しいが、楓側は皆それを感じていた。孫文の圧力はそこまで凄まじく、影響力が大き

いと云う事なのだろう。

 或いはそれが実物をも超えた影、威霊となり、だからこそ軍神とまで呼ばれるのかもしれない。確かに

彼の力は、何処か人を超えるモノがあった。

 こうして窪丸に益々近付いているのだが、鏗陸が戻らない。その上、どうやら窪丸の軍勢が姿を見せた

ようで、更に緊張が増した。

 完全に諦めてはいないが、こうなってはもう望むだけ無駄である。

 しかも窪丸軍を率いているのが、どうやら白祥本人であるらしい。

 これが他の者であれば、まだ白祥が裏で工作を続けているとか、希望を見出す材料もあるのだが。白祥

本人が出てきた以上、楓流を見限ったと考える方が自然である。

 白祥の旗印を実際に見ている者が報告してきたのだから、勘違いと云う事もまずありえない。

 白祥が李牧の怒りを買って処刑されてしまい。しかし白祥亡き事は悟られたくないから、旗印だけを置

いて誤魔化している、という事も考えられない事はないが。軍のほとんどを白祥が掌握している以上、そ

れは考え難い。逆に李牧が殺されるのが落ちであろう。

 しかし楓流はそれでも必死に自己を保ち、心中の不安を見せぬようにしながら、歯を食い縛って窪丸へ

の道を進ませた。

 それは希望を信じているのではなく、半ば意地からではなかったかと思える。

 窪丸軍から攻撃を仕掛けられてない以上、まだ決定的ではないし。例え白祥が楓流を見限ったとしても、

土壇場で気が変わるという可能性も極々僅かだが残っている。

 しかしこの状況でそんな望みを抱く方が、常軌を逸しているし。やはり信念というよりは、意地であっ

たように思える。

 白祥は未だ鏗陸を返さない。

 窪丸までの道のりは、もう僅かだというのに。




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