6-9.白祥


 いよいよ窪丸を視認出来る距離にまで近付いた。

 軍を見せたのは孫文に自らの意を知らせる為だったのか、今は窪丸軍も砦に引き、旗だけが風に揺らめ

いている。静かなものだ。

 森、その先の切り拓かれた空間、そして門と防壁。先の一戦を思い出す。

 結果として勝利したものの、十の内十勝てる戦ではなかった。今、ただでさえ不利な状況で、白祥まで

敵に回してしまえば、例え敵を窪丸軍一個と想定したとしても、まず勝ち目は無いだろう。

 白祥に同じ手は通じるとは思えず、窪丸は相変わらず強固である。鏗陸が付けた傷も見えず、完全に修

復されているようだ。

 それに比べて敗残の楓軍の惨めな事。確かに見限られても、文句は言えなかった。

 楓流が白祥であっても、このみすぼらしい姿を見れば、果たして助けようなどと考えるかどうか。わざ

わざ弱者を助け、滅亡を賭けてまで、強者と争う意味があるとは思えない。

 孫文、その力はあまりにも明らか。楓流も敗北した以上は見捨て、一か八かだとしても、孫文との外交

に賭けた方が、まだ窪丸にとっては可能性がある。

 楓流でさえそう思うのだから、どう判断されたとしても、やはり文句は言えない。全ては弱い楓流が悪

いのである。力なき者は滅ぶ。それが乱世の理(ことわり)。いや、自然の理。

「鏗陸は死したと思うしかあるまい・・・」

 楓流は呟き、決意を固めた。今更迷っても仕方ない。

 発した言葉にも、特別な意味があった訳ではなかった。今となっては鏗陸もまた、どうでも良い事。運

命が決まった以上、死んでいようが、生きていようが、出来る事は無い。天に委ね、後は祈るだけ。

 気の毒とは思うが、それ以上の気持ちは無かったし、初めから持つ必要も無かった。

 鏗陸もまた、覚悟して出向いたのだ。今更それに水を差すような感傷は、慎むべきである。それは彼の

覚悟を辱(はずかし)める行為なのだから。

 楓流の独り言を聞いた者達も、静かに覚悟した。思えばそうさせる為に、わざわざこんな事を言ったの

かもしれない。これは鏗陸云々ではなく、窪丸への希望が絶えた事の、宣告であったのだろう。

 そうして半ば諦めたが、その歩みまでは止めない。砦を避けるようにして、楓勢は街門の方へ進む。

 わざわざ見晴らしの良い拓けた地形に進んだのは、余計な企みは無いという印であり。砦を避けたのも、

一戦交える気はないという意味である。

 楓軍は武器さえ抜いていない。

 黙って進む楓流の態度を見、従う者達は涙を流す事を恥じ、下を向くが。晴れ渡る空はそれを隠しては

くれなかった。陽光が涙を光らせる。足下に落ちる雫も、光の前ではその姿を晒すしかない。

 そしてその涙は、悲しみよりも悔しさの方が先に立つ。彼らとしては、例え楓流がどう繕(つくろ)っ

たとて、主と認めた男を、何も出来ず、見殺しにしてしまう事になるのである。

 そうする事が一番良く、また楓流自身の望みに適うとしても、これは耐えられる事ではなかった。これ

に耐えられるようであれば、とうに楓を見限っている。ここまで付いて来た者達にとって、最早主従など

という簡単な問題ではない。

 彼らは楓流と一つであり、確かに繋がっていたのだ。

 だがその楓流自身から後を託されるとあれば、後追い自殺をする訳にもいかない。まるで半身を強奪さ

れるような想いがし、せめて涙でも流さねば、やりきれるものではなかったのである。

 単純な悲しみではない。それは魂の問題であった。

 だから、涙と化して魂から吐き出す事で、初めて生を保つ事が出来る。

 つまりは忘れる事、消費する事、飲み下す事。それもまた、生には必要な事なのである。捨て去る事も

また、必要な事なのだ。例えそれが、自らの半身であったとしても。

 生きるとは、至上に酷な事かもしれぬ。

 街門前まで着いた。

 白祥は動かず、砦門はぴくりとも動かない。何故か遠目にも少し騒がしく感じたが、おそらく後の準備

をしているのだろう。どうなるにしても、どうするにしても、窪丸は忙しくなる。騒がしくとも、別段不

自然な事ではない。

 街内もそれは同様で、大きな事をする時特有の騒がしさを感じたが。門が開く様子は無く、窪丸はどっ

しりと構えている。改めて見ると、この街はあまりにも堅固だ。だからこそ、こうも突き放されたように、

切り離されたように、感じるのか。

 敵にも味方にも、付け入る隙が無い。

「私に相応しい最後かもしれぬ」

 しかしそれでこそ諦めもつくというものだ。はっきりした態度こそ、滅びの前には相応しい。

 集縁と同じく守りに重点を置いた街で、楓流と同じく守る事のみを考えてきた男の前で、守るべきもの

を守る理由として滅びる。

 望んでいた最後ではなかろうか。

 楓流が死ねば、他の者の命は助かる。望む所ではないか。

「見納めとしては、良い場所か」

 見晴らしも良い。人の手が加えられ、不恰好になってはいたが、山に近く、森に囲まれたここは、故郷

を思い出させる。自然の中で没するのならば、屋内で死ぬよりも、より彼に相応しい。

 楓流は自身の生を振り返る。

 目の前には愛すべき無数の顔。彼らを守る為、そして自身を繋ぐ為、今まで生きて来た。それは初めは

養父の願いに応える為であったが、もう今となっては彼自身の願いでしかない。

 ここに居る全ての者が、楓流の全ての結果であり。自身の死、そして楓という勢力の滅亡こそが、今ま

で積み重ねてきた事の答えである。

 失敗の方が多かったが、今更悔いはしまい。精一杯生きてきた。それは善ではなかったが、懸命なる生

であったと思う。

 ただ、すまないと、強く想う。力足らず、このような地で息絶える。守るべき者、守りたいモノを残し

て死ぬしかないとは、恥ずべき事だと、心の奥底から想う。

 だが、今となっては嘆きもまた無用。死すべきならば、潔く死すべき。何も思わず、何も願わず、ただ

死して後、彼らを見守り、力となれる事だけを祈ればいい。

 これだけ強い結び付きがあるのだ。魂の全てを切り離される事は無いだろう。彼もまた大地に封じられ、

その一部となって、後に生きる人々を繁栄させるのだ。

 楓流は刃を抜き放ち、最後に仕損じるという無様な事をせぬよう、刃先を入念に調べ始める。

 彼を見る者は全て下を向き、肩を揺らしながら、それでも一声も漏(も)らさなかった。その光景は、

神聖な雰囲気さえ伴う。死する者には、何よりの糧だろう。

「悪くない」

 気が付けば、孫文軍は森を埋めるように陣を敷き、孫文と一部の兵だけが空けた地に身を晒して、楓の

動きを見計らっていた。澱みなく、その姿もまた神聖に映る。

 楓流は一人で偉大なる軍神の前に進み出る。

 怖ろしい場面の筈だが、冥府でもこのような事をするのかと思うと、不思議と笑みが湧いた。

 冥府で恥じる事の無きよう、堂々としてやろう。その為の練習だと思えばいい。

 誰も追おうとはせず、誰も止めようとはせず、楓も孫も、その最後の時を見守っていた。



 孫文とは、これが二度目の対面になるが、戦場で見(まみ)えるのは初めてである。戦場で会う彼は、

また違った雰囲気を持っていた。しかし今更気圧される事は無い。

 手の届くような距離ではないが、しかし表情を確認出来る距離にまで近付き、楓流はゆっくりと刃を天

に掲げた。

 陽光によって刃が浄化され、浄化された刃によってのみ、罪人はその罪を贖(あがな)う事が出来る。

目の前の者への挑戦ではなく、それは儀式のようなものだった。

 楓流はここに到って、尚笑顔を見せた。清々しく笑う。それが最後の抵抗であるかのように。

 しかしそれを見る孫文の目には、遠目だからだろうか、何か違和感があった。何故か意識がこちらに集

中していない。この最後の時に、例え無数に居る中の一人とはいえ、敵者が滅びるのだから、その為にこ

こまで慎重に事を運んだのだから、気にならない筈が無いだろうに。

 それとも、すでに終わった事には興味が無いのだろうか。それとも・・・。

「まさか、迷っているのか。孫文ともあろう者が」

 信じられない事だが、そう考える方がしっくりくる。いや、迷いではない。不安、そう言った方が正確

か。こちらを気にしているようだが、その奥に別の不安が読み取れるのである。だがこの絶対優勢の時に、

何を心配するというのだろう。

 不思議な気持ちのまま、孫文を眺めていると、時折砦門の方へ目をやっているのが解った。

 辿るように視線を向け、砦を見上げれば、そこには確かに白祥の旗が在る。砦には常に白祥の旗が掲げ

られていた。これの何処に不思議があるというのだろう。

 それでも孫文はさる者。砦の方を気にしているのは確かだが、苛立ちを見せても、不安を漏らすような

事はなかった。ただその態度から違和感が匂ってくるだけだ。

 おそらく楓流しか、彼の奥にある不安か焦りに、気付いてはいないだろう。同じく勢力を率いる者にし

か、その僅かな気は感じ取れまい。

 同様の不安を抱いた事のある者にしか、それは感じ取れぬモノである。

 諦めたのか、納得したのか、孫文がこちらに注意を集中し。その見据えた目と視線が合うと、彼はゆる

りと頷いた。

 全てを解した、気にせずに死ぬがいい、という合図なのだろう。

 しかし今度は楓流の方に迷いが生まれる。

 何故かは知らないが、何かが違ってきている。孫文の予定に僅かだが狂いが生じ、だからこそこの違和

感が現れた。楓流の与り知らぬ何処かで、何かが変化している。

 だとすれば、今このまま素直に首を刎ねて良いものだろうか。

 まだ違うのではないか。まだ出来る事があるのではないか。

 迷うまま、天を見上げた。まるで教えを乞うように、楓流は天を仰ぎ見る。

 空は晴れ、白い雲を僅かにまとっているが、広々と広がるそれは、扉を開き、ここに飛立てと迎え入れ

てくれるかのようであった。

 今の今まで、それは死する自分を迎え入れる為だと思っていたが、どうやら違う意味であるかもしれぬ。

「臆したとは、言わせぬぞ」

 変化した何かを感じ取り、楓流の様子から不審を見出したのか、初めて孫文が声を発した。

 その声は迷い無く、鋭い。だがやはり何処か違和感を感じる。そもそも今急がせる必要など、何処にも

ありはしないのだ。何故今になって自決を急がせる必要があるのか。

 臆していないのは、誰が見ても明らかだろうに。

 楓流はその声を聞き、確信する。やはり何かが起きている。孫文の内にあるのか、はたまた別の何処か

にあるのかは知らないが、少なくとも同様の違和感を彼もまた嗅ぎ取っているに違いない。

 それが今、孫文を急かせた。

 ならばこの首、あっさりとくれてやる訳にはいかない。

「貴殿ほどの漢が、心を鎮める時間も与えぬと言うのか」

「要らぬ心配だ。すでに決しておるわ」

「そう、決している。では何故、急がせる。死ぬ間際くらい、好きにさせても、罰は当るまい」

「ぬかせ! 臆したならば、臆したと、言うがいい!」

 あの孫文が明らかに苛立を見せている。彼を囲む兵達にも、ようやくいつもと違うのが解ったのだろう、

その表情に初めて見る色が浮んでいた。

 いつもと違う孫文が現れれば、いつもと違う孫兵が現れる。今の彼らは、常勝不敗のそれではない。別

の孫軍である。ならば、付け込む隙が、見出せるかもしれない。

「良かろう、直々に断してくれる」

 暫く睨みあっていたが、痺れを切らしたのか、不意に孫文が立ち上がり、手にした刃を抜き放つ。その

刃は蒼く波打ち、陽光に照らされると、淡い光を帯びるかのようにも、まるで輝く空の一部であるかのよ

うにも見えた。

「祈りの一つもあげてやろう。安じて死するがいい」

 孫文が近付く。周囲を圧する気魂そのままに、山のような威圧感が歩いて来る。彼を守るべき兵も今は

その事を忘れ、神に畏れを抱くように、身を固くその場に縛り付けられていた。

 しかし楓流は神をも畏れない。弱みを一点でも見付けた以上、臆する理由は無い。楓流は死に臆したの

ではなく、孫文に臆する事を忘れたのである。

 孫文は明らかにらしくない。

 自ら単身近付くなど、例え絶対有利の状況にしても、いかにもらしくない。いつもの慎重さは何処へ行

ったのか。それがつまり、楓流の希望。彼以上に鋭敏な孫文がこうまで意識しているのだ。それは必ずや

楓流を助けてくれるだろう。

 今死ぬ訳にはいかない。しかしこうして出て来られた以上、孫文の挑戦からも逃げる訳にはいかない。

 まるで試合うように、楓流と孫文、竜王と獅子王、二者が対峙し、牙を剥き合う如く、その刃を互いに

突き付けた。

「往生際が悪いな、楓とやら」

「刃を向けられた以上、黙っている訳にはいかぬ」

 二人はゆっくりと円形を描くように動きながら、徐々にその距離を狭めて行く。

 いつの間にか一騎打ちの形となってしまっていたが、誰もそれに異を挟む者は居なかった。竜と獅子が

本気になれば、余人が立ち入る事は許されぬ。

 幸か不幸か、今どちらの陣営にも、王を止められる者がいない。もし雲海でもここに居れば、何として

でも止めたであろうが。胡虎も凱聯も、そして孫の将達も、ただ見守るのみ。

 彼らには止められる何かが足らないのである。

 楓流は恐怖を乗り越え、竜へ還り、今一度天へはばたこうとしていた。

 獅子は牙を突き立て、再び地上へ引き戻そうとしているが。何故だろう、それが出来ぬ事は、誰よりも

獅子その人が解っていた。

 未だどちらも死ぬ定めに無い事を、そして楓流が死の定めから逃れてしまった事を、孫文のみは認める

しかなかったと思える。でなければ、わざわざ単身斬り合いを挑むような事は、決してしなかった筈だ。

自身ならば天命をも変えられると、そう信じていなければ、とうに諦めて見逃していただろう。

 孫文ならば竜も斬れる、天運を引き戻せると想えばこそ、刃を抜いたのだ。

 しかし、確かにその力があるだろう孫文ですら、この時は抗えなかった。

 運命は決してしまった。

 突如として騒音を撒き散らしながら砦門が開き、白祥率いる軍勢が、一斉に孫軍へと突撃したのである。

 虚を突かれた孫兵は度を失い、孫文を慌てて攫(さら)うようにして抱き取ると、陣形を立て直しなが

ら、即座に撤退した。孫文もその流れを止めなかった事を思えば、あらかじめそうするように言い含めら

れていたのだろう。

 いくら虚を突いても、常に手は打たれている。怖ろしい漢だ。

 予定外の事態が起きれば、孫文は無理をする事は無い。そして諦めれば、冷静に還る。

 楓流を睨み付けていた視線を、一度戻せば、もうそこに執着の色は無かった。

 追撃する隙が無く、白祥も深追いを避けたようである。

 楓流は急転する流れに目眩する思いを抱きながら、その心を落ち着かせるように、ゆっくりと刃を鞘へ

と収めた。

 これで終わりではなく、状況は変わらない。首の皮一枚は繋がったが、一日の延命で終わるかもしれぬ。

 何としても勝たねばならない。獅子に一勝し、天に竜足る証を示さねば、そこで武運は尽きよう。

 竜と獅子、どちらがこの地上を統べるのか、存亡を賭けた戦いは、まだこれからである。




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