7-1.理由


 白祥(ハクショウ)が旗色を明らかにするまでに時間をかけたのは、機を待つ為ではなかった。

 彼は初めから孫文に付く事は考えておらず、例え李牧(リボク)を斬り捨ててでも、それを行なう覚悟

があり。その点に付いては迷う事無く密かに準備を進め、李牧の動向を窺いながら、その時を待っていた

のであるが。単純にその準備が困難であったのだ。

 白祥が苦手とする仕事であった、と云う事もそれを助長した。

 事を為すというのは、その大小に関わらず、困難な事である。窪丸(ワガン)の状況もそう単純ではないのだ。

 確かに、この状況に対する李牧の考えはすぐに読めた。李牧とその一党だけならば、その考えは単純で

ある。自らを生かす為、自らの権威を守る為、それだけが望みであり、初めから先の事など考えておら

ず、楓への義理も持ち合わせていない。

 そんな李牧であるから、孫文に従うのは自然の流れ。おそらく彼を知る全ての者が、そうなるだろう事

を予見していた。

 故に、白祥は反旗を翻すしかない。そこまでは単純である。

 しかしここからが難しい。

 まず皆に迷いが生まれる。皆、白祥程、きっぱりと割り切れないものがある。それしかないと思っても、

果たしてそうだろうか、そこまでするべきだろうか、などと考える。

 それに李牧に刃向えば、主君を裏切る事になるのだ。どう弁護しても、自らの利の為に裏切った事を、

否定する事は出来ないだろう。真面目な人間程、これは堪える。解ってはいても、なかなか心を這い登る

ようにして浮かび上がってくるモノを、簡単に払い落とす事は出来ない。

 その心故に白祥に付くが、しかしその心故に李牧に対し罪悪感を持ってしまう。

 更に、孫文に逆らって果たして生き延びられるかのか、という一番大きな不安がある。

 楓流は凱旋して来たのではない。敗北の末、必死に逃げて来た。

 兵数は少なく、傷病者の数も多い。碌な資金や糧食も持っておらず、足手まといと言ってしまっても、

言い過ぎとは思えない。果たして、これで勝てるのか。孫と楓、二つを見比べれば、どちらが優勢かは自

明の理ではなかろうか。

 何をするにしても、ここで負けては意味が無い。それならば、孫に付いた方が良いのではないだろうか。

 迷いが生まれない方がおかしいのである。

 だが白祥は考えに考えた末、孫文に付く利は、一時的にしかないと見た。窪丸は食い潰される。そして

その時いくら反抗しようと思っても、味方は一人も居ない。単騎孫文と争う事になる。李牧など、初めか

ら役に立つまい。

 例え生き延びれたとしても、李牧は上手く使われ、その皺(しわ)寄せが民に回ってくるだろう。そし

て窪丸は衰える。衰えればただでさえ無かった力を、完全に失ってしまう。

 そうなれば後は簡単だ。窪丸の民の命を受け、李氏を滅ぼす。そして窪丸は孫文の支配下で、それなり

に栄える事になろう。

 確かにそれも一つの道だ。しかしそれまでの苦難が大き過ぎる。孫文もしたたかである。彼に善意だけ

を期待できまい。いずれかその時か、高い代償を支払う事になろう。

 ようするに、孫文が信用出来ないのである。容易く双孫楓の三同盟を裏切り、自分以外は結して認めぬ

あの男が、心底怖ろしい。

 それならば、どの道孫と対峙するのであれば、例え今苦難を背負ったとしても、楓と共にあった方が、

いくらかは勝率が上がる。

 それは夢だ。しかし白祥はそれを望んだ。険しい道だが、賭けてみる価値があると考えたのである。

 だが李牧にはそれが解らない。孫文の怖ろしさを、何も解っていない。いや、解ってはいても、それを

理解し実行したくはないのだろう。今安楽な道があるのだから、例え後で困るとしても、楽な方を選ぶ。

彼はいつもそうであった。

 兵士達もそうだ。

 白祥に心服している者ですら、孫文の恐怖には負ける。白祥に払う敬意以上に、孫文への恐怖心が大き

い。何せ白祥を破った楓流を、孫文は事も無げに破ったのだ。よほどの気概が無ければ、孫に立ち向かお

うとは思うまい。

 兵士でさえそうなのだから、傭兵達などは言わずもがな。闘争心の欠片も無くなっている。利のみで動

く彼らに、大陸一とすら云える圧倒的な軍勢を前に、死に物狂いで戦え、という方が無理なのだろう。

 むしろ今は金を払ってでも孫軍に付きたいと願う筈。そして孫軍は、そういう兵も受け容れる。

 孫文直属の兵団に入れる事は無いが、各地の守備兵として、傭兵達でも重宝する。利に聡く、裏切りを

屁とも思っていないとしても、孫文が一番強いのだから、そんな心配は要らない。例え裏切っても、その

時は滅ぼすのみ。だから組み入れる。その程度の、どうでも良い存在なのだ、傭兵等は。

 孫文に逆らう傭兵など、この世には居まい。

 皆安楽な道を選ぶ。そして滅ぶ。その先に崖があるのを解っていながら、皆その道を選び、自滅する。

 それを白祥は許せぬのである。李牧も兵も民も、今こそ気概を見せる時、今こそが窪丸が衰えるか栄え

るか、その節目である。窪丸を愛する者であれば、選ぶ道は一つではないか。何故迷う必要がある。我ら

には、その道しか、残されていない。

 白祥は強引にでも進める事にした。

 彼にも微かな迷いが無かったとは言わない。しかし他者のそういう態度を見るにつれ、むらむらと義侠

心、正義感、そういうものが湧き上がり、生来の頑固な性質と相まって、一個の強固なる意志へ変化した

のである。意地になったと言ってもいい。

 それは自ら窪丸を助けるべきだ、と悟ったあの若かりし頃と、まったく同一の情熱である。そうなれば

白祥を止められる者はいない。彼も彼の信念にのみ従う。

 しかし窪丸は今二つに割れている。今までは守れば良いという単純な思考で良かったのが、急激に複雑

さを増し、兵も民も困惑している。迷っている。一枚岩でない以上、如何に白祥でも、それらを一つにま

とめるのには時間がかかった。

 その情熱を持ってしても、人をまとめるのは非常な困難である。

 一時軍を出して見せたりしたのも、確かに孫文を欺く為という意味もあるが。本当の目的は、李牧一党

を油断させる為であった。

 安堵という隙を作り、李牧に付く傭兵達を油断させ。率いる兵を半ば無理矢理動かし、その隙を突いて

李牧一党を討ち取ってしまう。

 そうすれば、もう後には引けない。進むしかなくなる。

 白祥をして、そういう強引な手段を取らせた程に、窪丸の状態は複雑だった。

 無論、そんな事をすれば、皆混乱する。突然目の前にそれを押し付けられたのだから、それは平静では

居られない。

 李牧を討ち取り、更にその後の混乱を治め、その上で軍を整え、孫文の脇腹を突く。だからああも時間

がかかり、後一歩で、いやもうほとんど楓流が死んでいる状態になるまで、白祥は動けなかったのである。

 もう少し早ければ、せめて孫文がしっかりと陣を組むまで待たせなければ、ある程度の損害を負わせら

れたろうに、残念な事だ。あの状況では、孫軍を一時撤退させるだけが精一杯であった。機を逃す事は、

最悪の事態を逃れ得たとはいえ、大きな損失である。

 白祥は楓流に事情を細かに説明しながら、とにかく謝った。彼のような生真面目な程に頑固な人間は、

誠意を持って謝る以外に方法を知らない。次の戦で挽回するというのは当たり前、そのような言い訳がま

しい事は、言う意味も無いのだ。

 楓流を救えたのだとしても、最低の成功である。白祥はそんな自分に我慢ならないのだろう。楓を救っ

てやったなどという顔は、微塵も見せなかった。

 楓流はその顔を見、それで充分だと思った。確かに大きな機を逃した。孫軍に損害を与えられるという

機会、それはもう二度と与えられないかもしれない。

 しかし贅沢を言っても仕方が無い。それが天意ならば、後悔するだけ無礼というものだ。

 そもそも楓流が負けたから悪いのである。むしろ彼の方が、白祥に詫びなければならない。だから初め

から白祥を責めるつもりなどなく、素直に感謝の意を述べている。

 だが謝る事はしなかった。白祥には、すぐに来るだろう次の戦に期待する、とそれだけを述べている。

白祥のような男には、慰めよりも、激励こそが似合う。



 白祥の言に寄ると、李牧一党は全員殺したそうである。それは李の一族だけでなく、李に組した者全て

と云う意味である。残酷な仕打ちだが、今はそうするしかない。楓流の下、白祥の下、全てを一つにまと

める必要があるからだ。

 無論、そこに李一族への恨みが無かった、とは言わない。人の心には色んなものが含まれている。

 しかし流石に申し訳なく思ったのだろう。白祥は李一族を代々の墓へ葬る事を提案した。楓流も、勿論

反対しない。死者に鞭打つ必要は無い。それにそうする事で兵や民の気持ちが少しは休まる。むしろ望ん

でそうしてもらいたいくらいだった。

 白祥は依然笑顔を見せず、一番似合わぬ役割を与えてしまった事を、申し訳なく思ったが。楓流は前と

同様、その気持ちを白祥に伝える事をしていない。

 白祥と窪丸の期待に応える為、楓流は強く在らなければならない。今は気の弱い部分を、一点でも出す

訳にはいかぬ。

 強くあれ、それだけを心に命じた。そして白祥にもそうである事を願った。



 窪丸の兵数を調べると、五百程残っているようだった。

 少ないが、これは選別した為だという。楓流と同じく、白祥も不満と不安のある兵は害にしかならない

と考え、腑抜け共(白祥の言)は未練無く追い出したらしい。全ての命を奪うような事はしていない。

 似合わぬ辛い役目でも、やるべき事は全てやっている。白祥は任せるに足る。今居る楓一党の中でも、

一番有能かもしれない。その経験と実行力は、特筆すべきものであろう。

 楓軍の兵数は千足らずと言った所か。これも良く残った方だ。あの孫軍にぴったりと付かれ、しかも敗

北が決まっている中で、よくもこれだけの兵が信じて付いて来てくれたものだ。

 負傷者や民達も皆無事である。楓流から思えば、これ以上の結果は無い。これからがしんどくとも、こ

こまで来れば、後は何も憂う事無く戦う事が出来る。窪丸という要塞があれば、余計な心配を抱かずに済

むのである。

 早速、奉采(ホウサイ)や明慎(ミョウシン)に街の運営を。凱聯(ガイレン)、胡虎(ウコ)に軍の

編成を任せ。客として遇されていた鏗陸(コウリク)とも無事対面を果たした。

 鏗陸は何も連絡出来なかった事を詫びたが、無用な事をすれば全てが台無しになっていた可能性もあり、

黙って白祥に従った事を、むしろ褒めておいた。彼にしては上出来である。じっとしている事も、時には

非常に重要である。

 気を良くした楓流は、鏗陸と白祥の仲が予想以上に上手くいっているのを見、鏗陸を白祥の下に付ける

事を決めた。

 今では白祥も完全な楓流の配下であるから、そうする事にも問題は無い。窪丸兵と集縁兵が一つにまと

まるのにも、一役買ってくれるだろう。

 そう思えば、この窮地も楓と窪丸を一つにしてくれる、絶好の機会であった、とも思えてくる。

 都合の良い考えだとしても、そう考える事は悪くない。しけた面をしているだけでは、何事も成せない

のだから。

 しかし一つだけ気になる点がある。いつの間にか魯允(ロイン)の姿が消えていた事だ。

 集縁から送り出す際には兵に付き添っていたのだが、今確認してみると、何処にもその姿が見えない。

初めから期待はしていなかったものの、気分の良い事ではなかった。魯允は何処へ行ったのだろう。袁夏

(エンカ)から楓流に乗り換えたように、今度は孫文に乗り換えたのだろうか。或いは野に伏せ、流れを

見ているのか。

 解らないが、もし楓流が勢力を立て直す事が出来たとしたら、また出てくるかもしれない。今考えても

仕方ないが、心には残しておく事にする。

 窪丸だけを見るなら、充分手も足りている。今更魯允を必要とはしなかった。ひょっとしたら、そうい

う事も考えた上で、去って行ったのかもしれない。その計算高さだけは誰よりも勝る男である。もしその

上に天賦の才があれば、恐るべき存在になっていたのかもしれない。

 まあ仮定の話など、しても無駄な事。楓流は居なくなった者の事は忘れ、目前に迫る戦の為、入念なる

準備を始めた。

 軍備に防壁の強化、やる事は山積みしている。



 窪丸の民はこの状況を概ね受け容れているようだ。

 楓流に集縁があったように、白祥には窪丸がある。窪丸の民にとっても、最早白祥は切り離せない存在

であり、李牧と引換えにしても、いや李牧など初めから懐いてなかったのだから、この事を内心では喜ん

でいるのかもしれない。やっと正当な統治者が就いてくれたのだと。

 民からすれば、何をやっていたのか良く解らない李牧、いざという時に頼りにならない李氏一族よりも、

常に護り、常に民を見てくれていた白祥の方に重きを置くのは、当然の事である。

 上に座れば慕われるのではなく、人はその言動によって、他人から与えられる好悪の情が決まる。李牧

も悪いばかりではなかったが、それを差し引いても、やはり白祥の人気が高い。

 窪丸の民は、白祥こそを統治者として仰いでいる。

 楓流に敬意を払っているのも、白祥が払っているからである。いきなり現れた者を、何となく慕ってい

るのではなかった。

 確かに白祥を負かし、そして窪丸を手中に入れてからも重い税をかけなかった、余計な干渉をしなかっ

た、という点では恨まれてはいないが。慕う程の関わりが無く。簡単に言えば、余所者。良い所でお客

さんである。誰も統治者とは認めていない。

 白祥はこの点も深く詫びたが、楓流は気にもしていなかった。彼もそれを当然だと思っていたし、今は

受け容れてくれただけで充分で、初めから統治者面をする気はなかったのである。

 窮地を乗り越える為にも、今後の統治を上手く運ぶにも、民と王とが一つになる事は、非常に重要な事

である。この地を治められるのは白祥以外にない事を、楓流は良く理解していた。

 窪丸に君臨する積りは無く、白祥さえ楓流に従ってくれるのであれば、文句を言う気は無かったのだ。

 民も白祥が統治を行なうからこそ落ち着いている。感謝こそすれ、恨む理由など無い。白祥は実によく

やってくれる。だからこそ、その期待に応えたいと思う。いや、応えなければならない。

 楓流は民に、孫文を撃退した後も、白祥に永劫に窪丸の統治を任せる事を約束した。

 これで内部の憂いは消える。後は外からの脅威を払うのみ。

 楓流は窪丸側を白祥に任せ、自らは砦へと就いた。



 孫軍も様子を見ているのだろう、あれから攻めて来る気配を見せず、離れた位置にて陣を敷いている。

 が、おそらく数日もすれば動き出す。与えられた時間を無為にせず、急ぎ準備を整えなければならない。

孫軍が動いた時、再び存亡を賭けた戦いが始まるのだから。

 生き延びるか、朽果てるか、その時が最後の審判となろう。

「窪丸は決して落させん!」

 楓流は必勝を誓った。




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