7-10.綽綽にして泰然とす


 北方には平野が多く、豊富な水のおかげで植物の発育もいい。しかし長い年月の間に切り拓かれてきた

のだろう、街の近くになればなる程森が少なくなる。その為、わざわざ北東の山岳地帯から木材を切り出

し、それを輸送する事を生業とする者達も居るそうだ。

 山岳地帯付近にはそういう樵と輸送隊(傭兵含む)の小さな村が数多くあるという。

 街道沿いも似たようなもので、街付近同様森林の類は少ない。これは視界を良くし、敵勢の侵攻を逸早

く察知しようという知恵であろうし。山賊の類が身を隠せるような場所を減らそうとした結果でもあるの

だろう。

 つまり兵を伏せるに相応しい場所が驚く程少ない。故に正々堂々と正面からぶつかり合うのが、北方で

の流儀と言うべきか、そうなるしかなかったと言うべきか、純粋な力比べになる事が多かった。

 中央の遠映(トウエイ)付近もそうだったが、見通しのいい場所では敵の不意を突く手段が限られ、そ

の結果兵力の差を覆す事が難しくなる。

 これが峻厳(しゅんげん)な地形であれば、少数を持って大軍を暫く食い止められる可能性が生まれる

のだが、ここではそうもいかない。

 おまけに紀軍は川を前にして陣取っている。どう言い繕っても不利である。

 何故川が不利なのか。それは水温による体温の低下、川底が滑りやすい、渡河中には身を隠す事が出来

ない、などの理由による。後は水の流れも曲者だ。平常ならば良いが、戦中にもなると気が猛り、焦り、

ちょっとした流れでも足を取られてしまう事が多い。

 そして足を取られ、体勢を崩してしまえば命取りである。雨の後の水量の増している川や、元々水深の

深い川であれば、尚更危険だ。

 だから川を越えて攻める事は避けたい。しかし川を前にして布陣されれば、川を越えるしかなくなる。

我慢比べをしようにも、敵地へ踏み込んだ方は補給にも不便で、自国を護る側よりも消耗が激しい。よほ

ど国力があれば別だが、待っていても勝てる筈が無く、いずれ撤退する事になる。撤退中、しかも空腹の

状態を後ろから攻められればどうなるか、言わずとも答えは知れている。

 不退転の意味を込めて、敢えて川を越えた位置に布陣する、背水の陣という方法を使った者も居るが。

これは極めて危険な方法であり、将と兵によほどの信頼関係と覚悟がなければ、成功する事はない。

 川とはそれだけ軍にとって嫌なもので、気安く触れるべき場所ではなかった。

 そしてその事は両軍の精神状態にも影響する。不利な状況に持ってこられたと思えば士気は下がるし、

逆に有利な状況にもってきたと思えば士気は上がる。

 ようするに戦う前から負けている。

 趙深はどうするつもりなのか。趙起は泰然自若を装いながら、その心から不安が抜けなかった。

 紀霊は強い。正面から戦えば、劣る兵力では決して勝てないだろう。例え賦族の力を差し引いたとして

も、三倍もの兵数を相手に、どこまで戦えるか。

 例え紀霊が油断しているとしても、それだけでは埋まらない。

 賦族軍は確かに強い、大陸でも有数の軍だと明言できる。しかし何か決定打が足りない。その力を活か

すのには、まだ足りないものがある。兵数差を補えるような力は、今の趙軍には無いのだ。

 それは趙深も良く解っている筈。彼もまた賦族兵を良く見ていた。趙起がわざわざ言わぬでも、重々承

知している。

 承知して尚出兵させたと云う事は、それなりの勝算なり策なりがあるのだろうと思っていたのだが。趙

深がここまでにやった事といえば、牛と余剰の松明を買った事だけ。敵を間近に控えてそれでは、流石の

趙起も心配になって然りというものだ。

 牛一頭に付き一兵、そして松明を二本ずつ与えているが、これが一体何になるのだろう。まさか五十の

牛で三千の兵は破れまい。確かに牛の力を使えば、兵を怯ませる事は出来ようが、それも一時の事。せめ

て牛兵を伏せられれば良いのだが、地形的にそうはいかない。

 もしそれが出来るなら、牛の突進で紀兵を怯ませた後、死をものともせぬ賦族軍が突撃すれば、或いは

一時でも勝ちを奪えるかもしれないのだが。

 勝つ為に敵兵を全滅させる必要は無い。ただ敵兵に負けたと思わせられれば、そして将に退かせられれ

ば、それで勝ちである。だから少数で大軍を撃ち破るような事も出来るのだが、さりとて大が小を討つ方

が圧倒的多数である。

 戦力で劣る趙軍で紀軍を打ち負かす事が出来たなら、趙深と趙軍の双にとっての価値も飛躍的に増すだ

ろう。しかしそれが口にする程容易ければ、誰も苦労しない。不可能と思えるからこそ、それをやった事

に評価が付く。人の世は甘くない。

 だが可能性はある。

 牛を活かす事を考え、松明という付属品にも着目してみると、おぼろげながら趙深のやろうとしている

事が見えてくる。兵を隠せるのは森林や丘陵だけではない。もっと身近な、そして最も人の目を欺く現象

が、この世にはある。

 しかし本当にそれが出来るのか。それが出来るとしても、現実に勝利へ導く程の効果があるのだろうか。

 全ては絵空事のように思える。

 だからこそ成功すれば人の虚を突けるのだが、それは全く困難な事である。

 趙深は如何にしてそれを成そうとするのか。

 楽しみではあったが、不安はいつも残る。



 趙深は紀軍を隔てる川より一km程離れた場所へ陣取り、まだ昼間であったにも関わらず、見張りを立て、

食事を摂らせ、ゆっくりと兵を休ませた。

 それは紀軍からも良く見えた筈だが。戦慣れしている事が仇となったのか、川に拘る余り趙軍の動きを

挑発と思い込み、川を越えて攻め込む事を躊躇させた。

 趙深はそれを見越して本当に兵を休ませたのだろうが、敵前で堂々とそれを行なうとは、彼もその顔立

ちに似ず剛胆な男である。

 趙起もその剛胆な行動に肝を冷やす想いであったが、それを顔に出す事はなかった。

 こうして一人で軍を率いていると、如何に将の心が兵に敏感に伝わり、大きく作用するのかが身に染み

て解る。例え些細な迷いであれ、すぐにざわついた気配が兵に広まる。

 賦族兵は従順で強靭であったが、人間である以上、そういう所は他の兵と変わらない。いや、むしろ賦

族の方が大陸人よりも臆病かもしれない。臆病だからこそそれを忘れ、考えない内に行動しようとする。

それが従順さと勇猛さに繋がっているのかもしれぬ。

 将として一番大事な役目は、兵を怯えさせない事である。

 その為に彼は兵達と寝食を共にし、剛胆な自分を演じもし、自分を隠さず、むしろ見せ付けるようにし

た。将が平然としている間は、兵も少しは安心出来るものだ。

 それに演じる事で、趙起自身もいくらかは楽になる。自分も他人も誤魔化す事で、不思議と救われる事

もある。



 両軍動かず、とうとう夜闇が訪れる時刻になった。

 相変わらずひっそりとしているが。例の牛達に付けた小隊を趙深自ら率い、牛が鳴かぬようその口に藁

と枝で作った口木のような物を噛ませて、すでに別の場所に移動している。

 それが何処かは知らない。いつそれを使うのかも趙深次第。趙起が解っている事は、彼が夜襲を企てて

いるという事である。

 しかしあからさまに休息を取った事もあり、紀霊もその可能性を察しているだろう。森林の少ないこの

地方で長く戦ってきた男だ、その程度は充分に解っている。寡兵で大軍を撃ち破るには、夜襲くらいしか

ない事を、重々承知している。

 紀霊は哂っているだろう。北方の戦い方を知らぬ愚かな輩よ、と。

 夜襲とは敵兵の不意を突くからこそ意味がある。夜闇で兵数を知られないからこそ意味がある。敵に悟

られた夜襲程無様な事は無く、格好の餌にしかならない。

 それでもやろうというのか。やるならば、せめてもう数日隙を見た方が良いのではないか。

 確かに今が一番疲労が少なく、兵に怪我も無い為、後にやるよりも成功すれば効果的だ。しかしそれは

成功すればの話。失敗すれば何の意味も無い。後には仲間の屍が晒されるだけだ。

 種の知れた夜襲を、敢えて行なう趙深の真意は、一体何処にあるのか。

「私が信じねば、誰が信じようか」

 解らない。しかし趙起に解らないからこそ、紀霊にも通用する可能性がある。すぐに予想できるようで

あれば、紀霊に通用しまい。解らないからこそ、そこに勝機が見えてくる。

 趙起は無用な悩みを捨て、軍を動かす事だけを考えた。趙軍にとってはこれが初陣である。その事も考

慮し、素早く的確に判断せねばならない。余計な事を考えている暇は、初めから無かったのだ。



 趙軍が静かに動く。

 まるで暗闇そのものがさざめくように、無音の喚声が流れていく。そこに一切の音が無いではないが、

自然に紛れたそれは、沈黙ならぬ沈黙を彼らの上にもたらしている。

 趙軍は陽光から離れた闇人となり、星明りの下、敵軍を目指した。

 紀軍は予想通り篝火(かがりび)を大げさなくらいに焚き、川面を煌々と照らし付けている。目標を見

失う事は無かった。例え目を閉じていても、その方向は解っただろう。

 趙軍は闇のまま一直線にそこを目指す。

 もしこの時、篝火を囮(おとり)にし、愚直に迫る趙軍へ奇襲でもかけていれば、趙深がどんな策を使

おうとも、趙軍は完膚なきまでに叩き潰されていただろう。

 この時の趙兵は光に群がる虫の如く、その火のから誰も逃れえぬように思えた。

 だが紀霊はそのような手を使わなかった。布陣した場所にて、まるで位置を知らせる事が誇りであるか

のように動かず。予想していた為対応は早かったものの、馬鹿正直なまでに正面から趙軍を受け止めたの

である。

 紀霊は敵前にて吼え、その自慢の武勇を見せ付けるかのように、先陣を切って槍を揮う。

 しかし賦族も膂力では大陸人の誰にも引けは取らない。正面から打ち合って尚、互角に渡り合った。

 ただ時間にして一刻程経過した頃だろうか、三倍の兵力差が徐々に深刻な影響を及ぼし始め、趙軍は圧

されて行き、弾き返されるかのように後退するしかなくなっていた。

 趙起が上手く指揮し、斯と百を中心とした隊長達が上手く兵を操ったおかげで、何とか壊乱を免れ、ぐ

いぐいと圧されながらも何とか陣を保てていたが、最早この状況を覆す力は無く。見る間に昼間趙軍が布

陣していた辺りまで押し返されてしまった。

「左翼、端が崩れかけているぞ、すぐに補強せよ! 右翼、暫く耐えるのだ、その間に中央を立て直し、

すぐにそちらへ回す!!」

 趙起は声を枯らしながら絶えず叫び、隊長達はその声に良く応える。

 しかしもう崩れ去るのは時間の問題だった。横一線に並んでいた部隊は小隊毎にまとまってはいるが、

もう全体としてはばらばらで、陣形を保てていない。

 あちらを抑えればこちらを圧され、夜闇のおかげで紀軍の統制が多少鈍っているからいいものの、昼間

であればとうに崩壊していたかもしれない。どれだけ奮闘しようと、とても対応出来なくなっている。小

隊の反応も少しずつ悪くなり。怪我人が増えた事も相まって、軍として機能しなくなってきた。

「まだか、もう持たぬ」

 趙起は趙深を信じ、噛み締める歯を砕くような思いで耐え。兵も趙起自身が怖れすら感じる程に働いて

くれていたが、どうやら限界である。初陣と考えれば、これでも出来過ぎであろう。これ以上はとても無

理だ。

「趙深、趙深」

 最早手が残されておらず、後は祈るような思いで、その名を呟き続けた。




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