7-11.蚩尤(シユウ)が如く


 破られる。そういう気分が空を介して全兵の間に充満し、防ぐ術は一つとして無いと思えた。

 紀軍はやはり強く。王である紀霊自らが錐をもむかのように趙軍の陣形に穴を穿(うが)ち、それを塞

ごうとしようとも、予備兵はすでに尽きている。紀霊の突撃を止めるには、現存する力だけではとても足

りない。敗色濃厚、ここに到っては軍神ですらさじを投げると思われる。

「趙深、趙深」

 まるでその名を幸運の呪(まじな)いであるかのように念じ、趙起は一心にその時を待った。もう時間

が無い。空けられた穴から陣を分断されれば、二度と立て直す事は出来まい。兵の士気が一向に衰えず、

向うは死のみである現状ですらその力を惜しむ事が無いとしても、それだけでは覆す事は出来そうにない。

 趙起は死が迫るのを察した。

 勝利を諦めた訳では無いが、明らかに現状は敗北している。それを償う方法はあるまい。後は自らが死

を持って挑み、無理矢理にでも勝機を掴む。それ以外に出来る事はない。

 もう百の兵は討ち死にしている。暗闇故死体を見ずに済むのは、果たして幸運だったのか、それとも不

幸だったのか。

 どちらにせよ、今は悼む暇すら無かった。一秒でも長く耐えるには、思考ではなく、ただ手に持つ武器

を敵兵に叩きつける事だけが必要だったのだ。

「北斗の神よ、我を祝福したまえ!!」

 死を司る北斗の神は、夜天に魂を出迎えるが如くはっきりと浮び、絶えず瞬いている。

 趙起は叫び、単身突撃した。

 全ての兵を部隊長に任せ、共に走るは少数の伝令のみ。伝令とは将の言葉を伝える何よりも重要な役目

の一つだが、今となってはもう必要ない。伝えるべき手は尽き、後は死ぬのみなのだから、彼らは迷わず

趙起の後に従って逝く。

 趙起が指揮官として出来る事が無くなったように、伝令達もその役目を終えた。ならば後は一人の兵と

して、為すべき事を為すのみ。

「趙起様に!!」

 一番若い伝令が声を高々と発し、趙起に追従する。そしてそれに負けじと他の伝令達も後を追った。

 趙起に残されているのは、この小数の伝令兵と己自身のみ。しかし最後の手段を使って尚、稼げるのは

僅かな時間。それでも今の彼らにとって、僅かな時間に千金の価値がある。その心に一切の迷いも躊躇(ち

ゅうちょ)も無かった。

 趙起が流れに逆らうよう、一心に突き進むのを見、ほんの少しではあったが、趙兵が活気付いた。将が

自ら特攻するとは、最も忌むべき愚かしい行動である。しかもその程度では何も変わらない。しかしその

心意気が兵達の心を奮い起こす。

 将がその全てをかなぐり捨て、一人の兵、一人の人間として圧倒的奔流に立ち向かって行く。その憐れ

むべき愚かさに、一種の美を感じる。自分の命すら捨てた人間には、神々しいまでの美が宿る。それは善

悪や利害を超えて、人の心に訴えかけるモノがある。

「我らが将に遅れるな! 無様に生き延びれば、二度と天を拝めまい!!」

 趙兵は口々に叫び、疲労からか言葉にならない叫びも多かったが、その心は熱く燃え。疲れを忘れさせ

たのか、少しだけ四肢に力が戻ったように感じられた。

 流れを覆す力はとても無いが、ほんの少し紀軍の速度が緩む。

 その隙を逃さぬよう、趙起は吼えながら駆けた。目指すは紀霊、その首だけは逃さぬ所存。

「我が名は趙起、双の客将なり! 故あってその首貰い受ける!!」

 紀霊を探すのは容易である。彼はその武勇と誇り故に最前線まで突出し、初めから将というよりは兵と

して働いているように見える。紀軍がただ圧すだけの戦なのも、一つにはそれが理由なのだろう。紀霊の

戦は機を掴めば後はただ圧し抜くのみ。

 それが今はありがたい。

「疾!」

 趙起は紀霊の眼前から袈裟斬りに鋭い一撃を加える。

「愚かなり!」

 紀霊はそれを軽々と受け、弾く。疲労しているにも関わらず、その動きに乱れはなかった。息は荒いも

のの、膂力に衰えは無く、逆に趙起の方が手を痺れさせられたくらいである。実戦の中で磨かれた彼の技

と肉体は、この程度では音を上げぬのだろう。確かに誇るだけの事はある。

 しかし紀霊にも誤算があった。彼は双兵など一圧しで無様に壊乱すると思っていたが、それが存外にし

ぶとく陣を保っている。彼の心には違和感があり、そこからくるもどかしさが矛先を僅かながら鈍らせて

いた。

 剛力極まりないが、その一撃には常の鋭さが備わっていない。

 趙起は一合で力の差を痛感させられたが、疲労度は自分の方が遥かに軽い。それを差し引けば、五分五

分に持っていけるだろうと思えた。

「疾! 疾!」

 一撃で崩す事を諦め、軽い足取りで左右に移動しながら連続して攻撃し、主導権を掴もうとする。

「小賢しい手を」

 紀霊は性格と戦術同様正面からの打ち合いが好みらしく、趙起の惰弱な手に怒り、単調といえば単調な

攻撃に趙起が慣れてきた事もあって、大振りとなった紀霊の一撃は、尚更当らなくなっていった。

 しかし趙起の善戦もそれまでである。盛り返した力はすぐに切れ、再び趙軍が圧倒的に圧され始めた為、

彼も下がるより他に無く。紀霊も力が尽きるどころか、最早当てるよりもただ振り回すのが目的であるか

のように、怒り心頭のまま悪鬼の如く槍を鈍器でも揮うように叩き付ける。

 付け入る隙を見付けられず、趙起は悪戯に疲労を重ねる結果となった。そうなれば当る回数も増え、当

ればその勢いと剛力に腕を痺れさせられる。痺れさせられれば動きが止まり、再び当る。悪循環である。

 紀霊の猛攻は止まる事を知らない。

 久しぶりの本格的な戦、どうしても敵将の首を獲るという手柄を挙げておきたく。この流れはもう覆せ

ないと見たのだろう。護衛役の兵すら引き離し、紀霊は一人どこまでも深入りし、趙起を追った。

 趙起は度々追い付かれ、その度に数合打ち合うが、弾かれるばかりで、とても勝負にならない。その度

に伝令が間に入り、趙起を逃がすが。紀霊は数合で伝令を斬り捨て、すぐに追い付いてくる。

 しかし、紀の勝利が決まり、趙軍が崩れ去ると思えたその時であった。

「双の援軍だ!!」

 暗闇から声がしたかと思うと、恐ろしい轟きと共に現れた火の群が、勝ちに浮かれる紀軍の横腹へ容赦

なく襲い掛かった。

 良く見ればその火の正体は牛である。両角に松明を結び、その火に怯えたか興奮しているのか、我を忘

れて突進して行く。その足音と鼻息は闇夜を劈(つんざ)き、古に聞く蚩尤もかくやと思われた。

 そして牛の襲撃に混乱している紀兵の後陣に、闇から矢が射ち込まれる。

 再び声。

「双の援軍だ! 双の援軍が来たぞ!!」

 紀軍は壊乱し、訳も解らず散り散りに逃げ始めた。だから言ったのだ。三千に千で堂々と挑むなど初め

からおかしいと思っていた。そんな風に紀兵達は思っていただろう。

 忠義立てて、必死に留まろうとする者は、まず居ない。皆自分の命が惜しく、不利となれば王を捨てて

あっさり逃げ出すのが常である。

 時は今。

「陣を立て直し、追撃せよ!!」

 趙起の言葉に三度力を盛り返し、趙軍は逃げる紀兵を追った。勝ちとなれば疲れも忘れる、力が湧いて

くる。

 そして趙起自身は、突然の変化に惑う紀霊の隙を突き、周囲の兵と協力して、その首を得たのでる。見

捨てられた紀霊を討つ事は、さして困難な事ではなかった。

 後は暫く逃げ惑う紀兵を追った後、深追いせず軍を引き上げさせている。紀霊の首を獲った以上、目的

は果たした。趙軍も限界である。ここが潮と見たのだろう。



 趙軍、勝利す。その報はすぐに周辺の国家に知れ渡った。

 当時は人の噂のみが伝達手段であり、行商人などを介してそれが広まるのには時間がかかったが。北方

の国家は緊張状態の中にあって情報に飢えており、何より距離が近い事もあって、さほど時間を必要とし

なかったのである。

 無論、大陸全土へ広まるのにはまだ時間がかかる。同じ距離でも、当時の距離は今よりも遥かに遠い。

 紀霊の戦死を知り、最も慌てたのは紀国である。必勝と思われたこの戦、誰も負ける、しかも紀霊が戦

死するなどとは想像もしていなかった。

 慌てて嫡子、紀陸(キロク)を立てたが。この紀陸が父に似ず、文を重んじる性格で、書物好きの戦嫌

い。その上、紀霊の妻は元々この付近を治めていた豪族から土地と共に奪った女で、紀陸が生まれたのは

確かに紀霊と結ばれた後だったが、紀霊の種ではない、という噂まであり、それを信じる者も少なくない。

 紀霊はそれでも嫡子として認めていたが、その威光を失った紀陸に家臣を統御する力は無く。見切りを

付けた臣が不穏な動きを示しているそうだ。元々紀陸は義心が強過ぎるのか、人に誤解される言動が多く。

書物の言葉を引用する事も多かった為、書物嫌いからは相当な恨みを買っていた。

 まるで自らの知識をひけらかしているように思われたのだろう。

 この時も紀陸は復讐戦を主張するのではなく、むしろ双こそが正統な王の血脈なのであるから、それと

和睦し、友好を深めるべきだと述べ、家臣からの不信感を増させている。

 紀陸が孤立するまでに時間はかからなかった。

 家臣達は様々な理由を作って与えられている領土へ帰り、虎視眈々と機を狙っている。彼らも望んで紀

霊に仕えていたのではない。彼の力に圧されて仕方なく従っていたまでで、その力が失われば、もうそれ

に従う意味は無い。

 その状況を見逃す趙深ではなかった。

 戦勝に浮かれる高官達を巧みに言い包め、紀陸と盟約を結び、その名分を持って紀領を平らげる策に賛

意させ、双正へと高官の口から進言させた。

 双正は当初むしろ力を持つ紀の重臣達と結ぶ方が良いのではと懸念を示していたのだが。趙深が、そう

いうどちらにも転ぶ者を味方に付けるよりは、紀陸という将来性のある若者を手に入れた方が良く。名ば

かりとしても紀陸が王である以上尊重されるべきであるし、弱い方が高く恩を売れるのだと事前に説得し

ており。その意を容れられるのに問題はなかった。

 わざわざ双の高官に進言させるという形を取ったのは、双国そのものを動かす為である。これ以後は趙

軍だけではなく、双軍の力が要るからだ。

 趙深の目論見は上手くいった。

 双という国がその名に寄って成り立つ国である以上、臣が王を追い落とすような下克上を認めるべきで

はない、という考えも双臣の好みに適っており、趙深の評価も向上。流石は王がお認めになられた者よと、

いつの時代でも彼らがそうであったように、先の冷淡さとは打って変わり、何処までも持ち上げている。

 そんな詰まらない手にかかるような趙深ではないが、その気持ち悪いまでの変わり身の速さに、少々う

んざりとはしたようである。珍しく趙起に愚痴のようなものを聞かせたと残されている。



 紀陸と結ぶ事に、実は趙起は半ば反対であった。

 どちらにせよ戦はあるだろうから準備をしているが。子が父親の仇と本気で手を結ぶのだろうか、とい

う疑問がある。乱世に親も兄弟も無いとはいえ、血統を重んじる風習が残っている以上、あっさりと捨て

去れるとは思えない。

 確かに紀陸は自らの立場を危うくしてまでも双と結ぼうとした。それはこの時代には珍しく義を重んじ

る男であるとの証明かもしれない。しかし義を重んじるというのであれば、親子の関係もまた義である。

王として私情を捨てたと考えるのは、余りにも都合の良い解釈ではないか。

 紀陸の義が偽物で、自らの命を護る為、家臣からの人気が無い以上、最早双にでも頼るしかなかった。

と考えるのが、むしろ自然な気がする。

 信に足らない者を当てにすればどうなるか、それは趙深も骨身に染みて解っている筈。

 趙深の真意が解らない。

 しかしそれを言えば先の戦もそうだった。趙起の想像を超えた所に趙深の真意があった。趙深は確かに

危うさを持っている。しかしその危うさまでも織り込み済みで策を完成させている。確かに危険だが、そ

れを乗り越えられるからこそ、それを実行しているのだと思える。

 つまり趙深は信じているのである。自分だけでなく、仲間にそれが出来るのだと、確固たる信頼を持っ

て行なっている。だからこそ揺るがないのだ。

 ならば趙起も、趙深を信じるべきではないか。下らぬ事を考え不安を呼ぶよりは、それを確実に成功さ

せる事を考えた方が良い。淀みなき信頼には、誠意を持って応えるべきであろう。

 趙起には他にいくらでもやる事がある。

 先の一戦で趙軍にも二百人を越える死傷者が出たが。何処から呼んだのか、二百人程の新たな参軍希望

者が来ている。彼らは当然賦族か混血のどちらかであるだろう。しかし初めに訪れた者達よりも、武器の

扱いと兵としての動きに不慣れのような印象を受ける。

 年齢も若く見え、もしかすれば予定外の増員であったのかもしれない。

 だとすればそれは趙深の期待に応えられなかったという事になる。趙深が望んでいた力を、趙起は発揮

出来なかったのだ。

 趙起は恥じ入り、自らに活を入れた。紀霊と紀兵が趙深の予想以上だったという可能性もあるが、そん

な事を願っても仕方が無い。将として、確かに趙起は紀霊に負けていた。

 もし趙深が居なければ、あっさりと敗北していただろう。数の差とか、地の不利だとか、そう言う事も

関係が無い。趙起は期待に応えられず、敗北したのである。

 趙起は毎日自己に課している訓練の量を増やし、個人的武勇にも気を配るようになった。

 将としての力量だけではない。戦場は人と人の闘い、力と力のぶつかり合いである。例え有利な状況を

作り得たとしても、もし開き直った者が居たらどうなるか。それに億さない勇気ある者と対峙すればどう

なるのか。統率力と戦術だけでは補えないモノもある。

 時代と共に少しずつその価値は下がっているようにも思えるが、個人的武勇はやはり頼りにされ、持て

囃(はや)されるものだ。兵もより強い存在に憧れ、その下にこそ付きたいと思う。孫文程謳(うた)わ

れれば別だが、趙起程度ではそうはいかない。彼にはまだ個人的武勇のような付属物が必要なのだ。

 趙起は新しく入った兵と共に、身を削るような激しい訓練へと身を投じている。

 そこに妥協は無く、最早老齢に近い歳であったが、言い訳もせず一心に励んだ。全てを鍛え直さなけれ

ばならない。

 趙起の求道的なまでの姿を見る事で、兵達も趙起への信頼をより強くしている。趙起は否定しているが、

兵達は彼の指揮を評価していた。彼が居たからこそ、彼らは今生きていられるのだと。

 確かに一対一、そして単に軍対軍では負けている。だがそれが何だと言うのか。兵達は自分達を同胞と

認め、そして厳しくはあるが誠心を持って接してくれる趙起に、無上の喜びと敬意を抱いていたのである。

 それは自分の居場所を与え、その居場所を作る事を教えてくれた趙深に対するのと同じ、いや或いはそ

れ以上のモノとなっている。

 肌を接し、同じ時を生きる事で、趙起はすでに認められていたのである。それを彼が知らずとも。

 人の信頼とはそういうモノであろう。




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