部隊長として目星を付けた中でも、斯(シ)と百(ビャク)、二人の能力が抜きん出ている。 名だけで姓を呼ばぬのは、彼らの身元を明かさぬ為である。別段傭兵が全てそうである訳ではないが、 生まれ育った土地や属せざるを得ない勢力から切り離す、と云う意味で、姓を捨てるか改名する者はしば しば居る。 傭兵と深く関わろうとする者は皆無で、傭兵内でも氏素性を問うような事はしないのが常であるから、 名前などは通じれば何でも良いのかもしれない。 ただ賦族達の場合は、多少異なった事情がある。 何故姓を隠さねばならぬのか。それは賦族の姓が古来より二字と決まっているからである。作りにも特 徴があり、大抵初めに色を現す字を用い、次に自然界の何かの字を使う事が多い。だから賦族は体格だけ でなく、その名を聞けばすぐに解る。 だから姓名を通して言う一般的な呼び方をする訳にはいかない。 そしてこの二字というのがまた、賦族が大陸人に疎まれる一因ともなっている。 大陸人は姓と国名には常に一字しか使わない。それは国名や名前に二文字を用いるのが、非常に縁起の 悪い事とされているからであり。それを平然と使っている賦族に対し、嫌悪と恐怖にも似た気持ちを抱か せる。 怖れて然るべきモノを怖れない。大陸人の風習と教えを平気で無視する。その得体の知れない部分が、 一つには賦族への嫌悪を増させる要因になっているのだろう。 しかしそうなると、では何故、と思う事もある。 そう、例えば地名や街名。これは二字以上、特に二字が多い。これは何故かと言えば、国や姓、つまり 神から預けられた権利と血統という二つの神聖なモノを敬う為、それに準ずるモノとしてわざわざ二字を 用い、国や姓よりも一段低い存在である事を示している訳だ。 名もそうである。あくまでも姓を立て、それに付属するものとして、常に名は姓の下に来る。最も、名 に二字以上が用いられる事はほとんど無い。それは姓の下にある為に、わざわざそれ以上示す必要が無い と云う事もあるが。簡単に言えば、二字を自身に付けるのが怖ろしいからだと思われる。 街や地名ならまだしも、人間に用いるのは躊躇(ちゅうちょ)するのだろう。 名が一字なのは賦族も同様で、その点共通している。では何故賦族のみが姓に二字を用いるのか。もし かすれば、賦族は姓というものを本来重視しない民族なのかもしれない。 大陸人とは逆に、姓よりも名を重んじているのかもしれぬ。 賦族は一族皆家族の意識が、誰に教えられる事無く受け継がれてきた。元々姓を持たなかった可能性が ある。名だけで姓は無い。だからこそ名に縁起の悪い二字を用いるのは、賦族も嫌悪する。姓と云うモノ に対する基本的な考え方が違うのかもしれない。 そこには民族性の違いもあるだろう。 大陸人は農耕民族、大地に根を降ろし、その大地に所有権を求める。だから氏族、つまり姓が必要であ り、重要なモノとなる。他人に土地を奪われぬよう血の契りによって固まり、土地を守る必要があったの だろう。 大陸人には身近で小さな強い結び付きが必要だったのだ。 しかし賦族は元来が騎馬民族、季節と共に、つまりは生い茂る草と連れ添うように移動し、一時滞在し ても定住する事は無い。だから姓、つまり小さな血族に拘る必要はなかった。誰々の息子。誰々の娘。誰 々の妻。誰々の夫。その程度の認識で充分で、血統も大して意味が無い。あるとすれば族長の血統一つだ けだろう。 皆一つの一族として移動しながら共に暮す以上、皆兄弟であり、簡単な呼び名さえあれば事足りるので ある。 しかしその違いが、二つの民族の間へ埋めようの無い溝を生み出した。そう考えると怖ろしい事である。 もっと考えるなら、賦族を貶(おとし)め、そして自分達の風習の中へ押し込める為に、わざわざ二字 の姓を使う事を大陸人が賦族に強いた、と云う想像も出来る。こうして賦族は大陸人に組み込まれ、創ら れた異端となった。そう考えるのも、あながち間違っていないかもしれない。
幸か不幸か、こういう風習や伝統といったものは、大陸人、賦族共に大分衰えてきている。それでも血 統信仰と同じく、特に大陸人の方に根強く残っているようだ。 だから斯、百共に明らかな賦族体型であるとしても、一応その姓を隠しておくに越した事はない。例え 明らかであれ、隠す姿勢は好意的に受け取られる可能性がある。憎い奴でも、遠慮してみせれば、それな りに快く思えたりするものだ。 効果が薄いとしても、やらないよりはいい。最善は尽くすべきであろう。
趙起は斯と百を大隊長に任命し、一番大きな単位である五百ずつの大隊を任せ、自らは総隊長として二 者の更に上に来るようにした。 大隊長以下には、五十ずつに分けた小隊それぞれに小隊長達を置く。こうして分ける事で目が届きやす く、命令も伝えやすくなり、より機能的に動かせる。 それに小隊毎に動かす事で、組織的な動きを学ばせ易くなる、という利点もある。 一人一人細かく指示をし、それら一切を覚えさせるよりも。兵には前進、後退などの大雑把な動きのみ を覚えさせ、小隊長単位で管理させる方が解りやすく、覚える量も最低限で済む。その分部隊長の役割が 重くなるが、その為にこそ大隊を更に崩し、小隊を作ったのである。 今の趙起には、昔集袁で初めて軍を組織した時とは違い、相応の経験と、それから編み出した術がある。 しかも今はそれに趙深の軍略までが加わっている。それら全てを使い、一から軍隊を作るというのは、困 難だが思った以上に楽しく、遣り甲斐を覚える仕事であった。 ようやく試せるのだ。ようやく全てが実るのだ。そういう気持がせぬではなく。新しい物を真っ白な状 態から作り上げる事は、苦労も多いがそれ以上に楽しい事である。 ただし、順調とばかりも言えない。問題がある。大隊長二人の仲が、あまり上手くいっていないのだ。 趙起が求めるのは組織性、つまりそれぞれの部隊がそれぞれの仕事をし、全ての部隊が連携し合う事で より大きな力を生み出す事。その為にはお互いの部隊の動きへ常に意識を配っていなければならず、全て の心が密接に繋がっていなければならない。 それはまるで一つの大きな人間であるかのように、それぞれではなく、大きな一つとして全てが実行さ れねばならない。 誰一人としてそれを乱す事は許されない。もしそれを許せば、組織自体が瓦解してしまう。組織的な連 携、これは非常に高度で細かい運動なのである。最早軍人というよりは、職人技と言った方がしっくりく るかもしれない。 兵ならばまだしも、部隊長同士の息が合っていなければ、とても上手くいかない。大きな柱となるべき 大隊長の仲が不穏では、とてもの事上手く連携するのは不可能だろう。 いっそ大隊長を変えてしまうと云う手もあるが、趙起はこの二人以外にどうしても考えられない。
斯は大雑把であるが、自らの役割をこなす事に深い満足感を覚える型の男で、その粘り強さと実行力は どうしても欠かせない。 百の方は余り自分を出そうとはしないが、意外に細かい所があり、その繊細なまでの心配り、完璧を求 める責任感のようなモノは必須と云える。 二人が絡み合い、補完し合う。その上に立って趙起が指揮する事で、初めて彼が思い描いている理想の 軍隊が出来上がるのだ。 現にこの二人の息が合った時の見事な事。趙起ですらほれぼれとし、自分ではとてもこうはいかぬだろ うとまで思う。一度それを見てしまえば、もう他の者では物足りない。胡虎とはまた違った力が、そこに はしっかりと宿っているのである。 だがその大雑把と細かい所という噛み合えば非常に上手くいく部分、違いが、二人の間に常に微妙なる 齟齬(そご)を生み、どうしてもすっきり出来ない関係を作ってしまっている。それが一度や二度ならと もかく、毎日会う度に何かしらあるのだから、それは嫌にもなるだろう。 時間が埋めてくれると逃げたい所であるが、いつ何が起こるか解らない今、そんな悠長な事を言ってい られない。かといって良案も浮ばない。頼みの趙深にも上手い案は無いそうだ。 お互いにほんの少しずつ、しかし全てがずれている。大きく食い違っていればまだ諦めも付くが。ほん の少し、些細な食い違いであるからこそ、受け入れ難く、厄介な事がある。 趙起は大いに頭を悩ませつつ、それでも何とか訓練だけは続けさせている。 とにかく慣らせ、そうして割り切らせるしかないと思っていた。軍事は軍事、私事は私事、そう割り切 ってくれる事を願い、続けるしかなかったのである。
趙起の悩みを他所に、孫と西方との間でいよいよ本格的な戦が始まった。 場所は中央と西方の境界、まずこの境界争いでお互いの力量と先の見通しがはっきりと浮き出る筈だ。 ここでもし西方が劣勢に立たされるような事になれば、不安だらけの大同盟が崩れ、一挙に孫に傾く事に なるかもしれない。 逆に孫が劣勢に立たされるような事になれば、大陸全土に広がるその影響力に、小さくない罅が入る事 になるだろう。 初戦にまず勝つ事が重要だと言われるが、そういう理以上に重要なのがこの一戦であった。 故に西方も孫文同様慎重で、下手に出るような真似はせず、断固として拠点を死守する構えである。孫 兵一人たりとも入れぬと柵を作り、石を並べ、更に土砂を固めて急造りの防壁としたりと、実に熱心に護 りを固めている。 西方は草原の地、移動には良いが、総じて守り難い地形である。家畜を育てやすく馬も多いが、当時は まだ軍事利用を考えられていない為、農耕馬ばかりで戦には何の役にも立たなかった。 騎馬で戦うという野蛮な賦族の風習など、間違っても真似をしてはならない。せいぜい伝令が使うか荷 駄として連れて歩くくらいなもので、後に騎馬兵を用いて悪鬼のような力を揮う存在が現れるとは、想像 も出来ない時代であった。 後世とは違い、当時の西方には柵のような道具を作る事で、地形を利用するよりも、護りやすく作り変 えるような技術が発達していた。治水技術もそうである。そういう技術ならば、他の追随を許さない。中 には水流を変えて街を護る堀としてみたりと、大規模な工事もしばしば行なわれていたようだ。 その全てが成功したとは言えないが、その技術力は大きく評価されていい。西方自体も長年人が手を加 える事で、少しずつ住みやすい草原に造り返られたのだ、という説まである。 そして西方の技術者達の中でも、最も高い技術力を持つと言われるのが、玄一族である。 一族を束ねる玄張(ゲンチョウ)とその息子、玄信(ゲンシン)は歴代の一族の中でも特に卓越した能 力を持つと言われ、二玄と云えば西方では知らぬ者がいない。 しかし面白い事に、この玄一族というのは、国家の闘争といった争い事を心から嫌っている。彼らは自 分達の力はこの大地を住みよいように造り変える為に使われるべきであり、間違っても人が争いあう為に 使うものでは無いと信じているのだ。 だからこの西方全土を巻き込む騒乱の中でも誰に仕える事をせず。地道に治水工事に励み、人が自然災 害に呑まれぬよう、日々その力を費やしている。 西方の諸勢力からすれば何とも腹立たしい事なのだが、玄一族は民の人気も高く、例え王であっても簡 単に手を下す事が出来ない。それに王達も玄一族の恩恵を受けている。彼らとしても玄一族と敵対する事 は望ましくない。 こうして玄一族はその影響力を他所に、ぽおんと放って置かれる形となっていたのだが。そのような存 在に孫文が目を付けぬ訳が無く、むしろ西方よりも積極的に密使を送って懐柔しようとした。しかし孫文 に靡(なび)く筈がない。玄一族は当然のように自分を貫く。 それだけならそれで終わりだったのだが、この事が何故か西方の民へと大々的に広まった(おそらく西 方の諸勢力が広めたのだろう)。すると当然、西方の民は孫文へ怒りを持つ。 何せ彼らが神のように慕う一族に圧力を加えたのだ。反射作用としての怒りが起こらぬ筈がない。 この点、孫文は珍しく見誤った。泰山の一族を滅ぼした事で高を括ってしまったのか、玄一族も所詮そ の程度の事だろうと考えてしまったのだろう この癖は以後も孫文にちらほらと見受けられるようになる。その慎重かつ冷静な姿勢が崩れた訳では無 いが。強きが故の傲慢さを、彼としても抑えきれなくなっているのかもしれない。何しろ大陸の半分に届 こうという強大な勢力となったのだ。孫文も端々まで目が届かなくなっている。 膨大な力は、いつの間にか王でありそれを作り上げた本人をすら越え、どこまでも際限なく肥大しよう とする。孫文は恐るべき精神力と卓越した能力でそれを上手く御しているように見えるが、それでも様々 な部分で少しずつ齟齬(そご)が生じ始めていた。 ただしその力は相変わらず強大である。むしろ益々強くなっている。
戦のやり方も狡猾と云うべきか、相変わらず心得ているようだ。 隻の兵を前線に置き、それを上手く使う事で孫軍にほとんど損害を与えず、戦闘を持続させている。 彼は西方を一挙に崩そうとするのではなく、じっくりと弱体化させ、そうする事で内部に影響を与え、 外交や謀略を駆使する事で崩し、その上で労少なくして平らげてしまう腹である。 まるで師が弟子の力量を見るかのようにゆったりと構え、常に勝ちつつも急いて侵攻するような事はせ ず。確実に領土を削り、とうとう西方の前線拠点となる西安(セイアン)にまで軍を進めた。 しかし順調なのはそこまで、西方はここから盛り返す。今までは野外での戦い、如何に草原での戦いに 慣れた西方軍とはいえ、孫文の前には劣勢を強いられていた。だがその間にも残る全ての力を結集させ、 西安の防衛力を極限まで高めていた。孫軍ですら、その牙城を崩すのは至難の業と思われる。 半月程攻めたが要領を得ず。孫文はこのままでは埒が明かぬと感じたのか、一時兵を引いた。 西方もそれに乗じて侵攻するような事はせず、防壁の修復などの作業に専念している。 こうして西方と孫という二大勢力の決戦の第一幕は下ろされた。 固唾(かたず)を飲んで様子を窺(うかが)っていた者達は、この戦いを孫優勢としたが。さほど領土 を削った訳でもなく、ある意味西安からが本番であるので、孫の六分勝ちにその評価を止めている。 |