8-10.気宇遠大


 趙起は今までに解った事をまとめ、趙深へと報告した。そして双王を動かし、越との関係を深めるよう

に伝えている。その為には越王との協定は勿論の事、商人達との協定も結ぶ必要があり。敢えて王との関

係をより深くする事が重要である。

 しかも双が望んでやったように見せてはならない。越王がしゃしゃり出て、自分のみが一手に、或いは

中心となって請け負ったのだと、そう見せねばならない。

 そうであればこそ、王と商人達の対立を深める事が出来るのだから。

 交渉は至難である。その上長期的にその状態を維持、出来れば増進させていかなければならない。だが

趙起は任せてくれるように言った。越に対する全ての事は、自らが行なう。それくらい出来なくては、と

てもの事孫文に対する事は出来ないからと。

 全ては後の孫との戦の為、或いは孫を打倒した西方との戦の為。この二大勢力が争っている間に、少し

でも双の力を増し、そして趙起自身の能力も増さなければならない。

 双王の認可はすぐに下りた。周にも遠慮せねばならないから、全てを越方面に回す訳には行かないが、

そちらの輸送路を重視し、越舟の導入、水路の完備など、様々な決定を下している。

 双の商人の事も考えなければならないから、全てを越に委ねる事は無いとしても、いくらかは分担させ

ても良い。他国と協力体制を布く事も、双王は吝かではない。むしろ双の名の下に越人が動くとすれば、

これは愉快な事ではないか。

 双の重臣達を丸め込むのも、趙深にはもうお手の物であった。双王からも全幅の信頼を寄せられている。

 こうして趙起は単なる討伐軍の将ではなく、正式に大使の任を与えられ、越に関する全てを名実共に任

せられる事が公表されたのである。

 すでに越側はそのように接してきたとはいえ、今正式に任命された事は、趙起の重みを更に増す事にな

る。形式、名にも相応の力があるものだ。少なくとも、大多数の人があると考えている限り。



 趙起にはある程度なんでもこなす力がある。つまりは器用であり、その事が大いに彼を助けてきた訳だ

が。さりとて細かな専門的な事までを、彼一人で全て行うような事は出来ない。そこには当然限界があり、

器用ではあっても万能ではない。

 その為、趙深が新たに、云わば文官教育を施した者達を、趙起へと送っている。彼らも当然賦族か混血

であろう。もっと詳細に言えば、趙深の諜報機関をその片腕となって運営してきた者達なのだろう。補給

や作戦伝達、その過程を担い、表には出ず、常に陰で補佐してきた者達。より濃く趙深の遺伝子を受け継

いだ者達である。

 趙起は彼らの力を借りながら、越との協定を次々に結んでいった。ただしそれは商業的なモノに限り、

例えば不戦同盟など、戦に関するような事は何も定められていない。それは双の意図を見せる意味合いが

あるのだろう。

 越と商いはするが、しかしまだ川賊などの事もあり、信用はしていない。もし何かあれば、すぐにでも

戦う覚悟はしている。収税使を襲われた恨みを水に流す訳ではないのだと、そう圧力というではないが、

忘れてはおらぬと釘を刺す意味合いがあったのだ。

 それと同時に、趙起は全ての手勢を支路に駐屯させている。減らさず、敢えて増やす。名目上は大使と

して相応しい軍容を持つ為と、警護、そして未だ捗々しくない川賊の討伐を進める為、等色々あるが、実

際は双の覚悟を示していると言って良い。

 越は片腹痛いと思いながらも、それを無視は出来ないだろう。誠意を見せろと言われている以上、越も

またそれを形式的にでも見せなければならない。自らの利益の為に。

 即座に川賊を退かせ、それ以後は二度と収税使を襲う事も、付近を騒がせる事も無くした。双と交渉を

始めてからはそれらをしていなかったのだが、今回それを行う可能性までを、完全に無くしたと云う事で

ある。

 越も趙起が間者を無数に放っている事は知っている。川賊の根城をある程度発見されているとまでは気

付いていないだろうが、川賊を動かせばすぐに察知される事は理解していよう。

 その上で支路の軍備増強も認め、一転して軟化した態度を見せている。

 双は越の客になったのだ。客になった以上、相応の礼は払う、そう言う事だろう。これもまた解りやす

いと云うべきか、合理的と云うべきか。しかし商人の心を見れば、何となく理解出来る。思えば越があれ

ほど趙起を厚遇したのも、客扱いしていた為かもしれない。それならば後から後から商人が訪れた事にも

納得がいく。

 彼らは趙起を双の財布と見ていたのだ。

 越王は商人達が売り込む事で、自分一人がどうこうするよりも、双がそれを呑みやすいと思ったのだろ

うか。商人達が利するのはあまり良い事ではないが、それはそれで税収が上がる事になる。もしくは自分

の血族達に、さりげなく重要な役目を与えていくつもりなのかもしれない。

 どちらにせよ、そうした方が王にとって利が大きくなると考えたのだろう。

 越が態度を軟化させたのも、越王自身が双からの好意を得たいという意味であるかも知れず。考えれば

考える程、新たな可能性が浮かび上がり、趙起を悟らせ、或いは迷わせる。

 現状でははっきりした答えは出ない。まだまだ解らない事が多過ぎる。

 ならば考えていても仕方が無い。まずは動く。その上で遠大に物を見なければなるまい。



 趙起は再び網畔へ行き、正式に双と越との通商条約を結んだ。

 条約。それは協定よりも更に重要なモノを指す。この場合はより大規模かつ、より金の絡む約束事、と

いう事になろうか。

 国と国同士の約束事であるから、当然越王を介して結ばれている。そうなれば、越の実力者達の意が完

全に無視される事は無いとしても、どうしても王の意向が大きく作用し、王の利益が一番に上がるよう決

められる事となる。

 当然、商人達からは不満の声が挙がる。しかし王もまた実力者の一人であるからには、それに対抗出来

るだけの力が有り、易々と不満の声が聞き遂げられる事はない。王はこの決定を強行した。

 これにより、双からの物資はまず王一族に分配され、云わばその余りが他の商人達に分配される事にな

る。流石に王も自分の一族だけで大部分を取るような事はしないが、明らかにそこには不平等があり、商

人達の不満は弥増していく。

 そして商人達にとって腹の立つ事に、そうして巨利を得た王一族が、その金を使って更に力を大きくし

ようとしている。

 思えばそれが王の古き悲願であったのだろう。いずれは邪魔な商人達を追い、唯一人の権力者、本当の

王となる。それはどの国の王も少なからず持つ想いであろうが、元々王としての権威が小さな越国では、

より強い想いとなって、王の胸に棲んでいたに違いない。

 それが今が好機と焔(ほむら)のように立ち昇り、行動へと駆り立てているのであろう。

 商人達も以前からその事を当然察していただろう。王がより強い権威を求める事を、その為に力を蓄え

ている事を、誰もが知っていた筈だ。

 だからこそいつの間にか、王の悲願を止め、例え多少の利を捨てる事になったとしても、他の商人達と

一丸になってでも、商人の権威を保つ、それが商人達の暗黙の総意となっていた。

 知らず知らずの間に、そしてそれは極自然な流れとして、越の中には王対商人という図式が在った。

 どちらもどちらを打倒するきっかけを欲しており、そのきっかけさえあれば、すぐさま燃え上がるもの

であったと思える。

 そこへ双の物資が投入された。双も随分力を増している。その全てを越に送っている訳では無いとして

も、越からすれば膨大な量である。一気に扱う品物が倍化したと言っても、過言ではないかもしれない。

 そして売る品物が倍化して尚、飛ぶように売れる。値もどんどん上がっており、呉へ送る物資の量が、

即ち利益の大きさと言い換えても、過言ではなくなっている。

 そうであればこそ、商人達の不満も、双の物資の重要性と共に、際限なく増していくのだ。それはもう

明確な憎しみとなって王へと注がれている。妬みや羨望などという気持ちではない。明確な利益という基

準があればこそ、恨み憎しみという強い想いとなって、際限なく膨らんでいくのである。何故お前だけが

暴利を貪っているのか、そもそも王とは利を商人に分配する存在ではなかったのかと。

 越王は商人達も儲かっているのだから納得するだろうと、簡単に考えていたのかもしれない。いや、自

身も商人であるからには、利に対する商人の執着心の大きさは知っていた筈なのだが、目先の利に目が眩

み、高を括ってしまったのだろう。

 人は目の前に望むモノを積まれると、知っていながら敢えて耳目を塞いでしまう事がある。そうして知

らない振りをし、都合よく自分を言い包めて、それを貪る。後日に災厄が訪れる事を誰よりも知っている

だろうに、それを知っていながら知らない振りをする。

 誠に愚かしいが、人の世には良くある事で、貴賎に関係なく、誰しも経験した事があると思う。

 誘惑に負けたとか魔がさしたとか良く言われるが、それは自分が望んでそうした事であって、他の何者

のせいでも、自分に非が無い訳でもないのであるが、人は都合よくそれを忘れる。目を逸らす。それが自

分以外の誰にも通用しない理屈だとしても、それに縋るのだ。それを望んで、自分から。

 そして最後まで人はそれを使って言い逃れしたく、その為に益々他から不況を被る。

 この場合も同様で、王が自分を自分に都合よく納得させながら、知らない振りをしてそれに目を瞑って

いる事は、誰もが解っている。初めは王に献言し、王が考えを変えれば許そうと考えていた商人も居た様

だが、一月も経つと最早商人には憎しみと悪意のみが満ち、王打倒以外の事は考えられなくなっていた。

 王は行いを改める所か、益々調子付き、愚かな野望を膨らませている。

 王は当初よりももっと自分の一族にとって、いや、自分自身にとって利のある、逆に言えば他にとって

は損しかでない、方策を採り始めている。

 それが出来る事を考えても解るように、明らかに王の力が増していた。双の物資を餌にして、物事を強

引に決めるようになっていたのである。

 明らかな利害を見せられれば、商人達は表面上は引き下がり、王に従う。しかしその裏では腸を煮え滾

(たぎ)らせながら、心の中ではちきれそうな程に憎悪の情を燃やす。全ての理性を燃え尽くす程に、そ

の憎悪は強く、燃やせば燃やす程に際限無く大きくなっていく。

 無論、双も越王の意向に逆らわない。越王に請われて仕方なくといった振りをしながら、決してその行

いに反対する事も無い。

 双と条約を結ぶ事で、商人達を圧倒する程の利を得、王は我が余の春を謳歌(おうか)しながら、他の

者には目もくれなくなっていった。耳目は完全に塞がれ、今では一族の事さえ顧みなくなっている。その

せいで王の子らも王に対する強い不満を持つようになっているようだ。

 双との事は国同士が決めた事であるので、実質国を操っていた実力者達であっても、表立っては交渉し

たり不満を言う事は出来ない。王ではなく、我ら商人を介して欲しい、などと訴える事も出来ない。

 あくまでも王が国の代表者であり、国の取り決めは王同士の取り決めである。全てが王の物だ、とまで

は(双以外は)王の権力は大きくないものの、無視できない程には、大陸全土で王という存在の権威が増

している。その王を無視して、その臣下である商人達と直接取引きしてくれなどとは、どう考えても言え

る事ではなかった。

 無論、密かに趙起に密使を送る商人は無数に居たのだが。趙起はあくまでも国同士の事であるから、王

を無視する事は出来ない、と言葉は柔らかくも、双から越王に干渉する事を断っている。

 しかしその言葉を聞き、丁寧に応対してくれる趙起へは、商人達も好意を持った。例え断られたとして

も、彼らも双が国や王という序列や秩序を重んずる事を知っている。何より、越王の薄情さを思えば、趙

起を責める気持ちにはならなかったのだろう。

 憎いのは越王である。いや、王などとはおこがましい、あの越阜だ。

 一月二月の付き合いで、しかも他国の者である趙起がこうも丁重に扱ってくれるというのに、あの越阜

は我々の言葉すら満足に聞こうとはしない。我らの力添えがあって、初めて王となれているというのに、

我々が王にしてやったというのに、少々力を蓄えた程度で、もう掌を返したように我々を厄介者扱いして

いる。

 そもそも飾りでしかなかった王が、いつの間に我が物顔で国政を統べるようになっているのか。考えれ

ば考える程腹立たしい。このままでは際限なく増長し、いずれは商人の国であった越を、完全に彼個人の

物としかねない。

 そうなれば我々に遠慮なく、思う存分に搾取するだろう。言い掛かりを付けて家財を奪うくらいはやり

かねん。最悪、殺されるかもしれない。そうして邪魔な我々を殺した上で、自分の意のかかった商人を後

釜に据える。それくらいはやりかねないではないか。

 越が商人同士の競争社会であるからには、いくらでも越王に従う者がいる。ひょっとすれば、身内から

裏切る者が出るかもしれない。王と商人の間に明らかな利の格差が出ている以上、不埒な事を考える輩が

必ず出てくるだろう。

 幸か不幸か、西方と孫との戦いは一進一退を繰り返しながらも、西安(セイアン)一帯で激しさを尚も

増している。越からもたらされる豊富な物資がある限り、流石の孫も抜けはしまいが。物が売れれば売れ

る程、物の値が上がれば上がる程、王と商人達との格差は更に開いていく。

 このままではもう数月もしない内に、完全に頭を押さえ付けられてしまうかもしれない。越では金こそ

が力、もうすぐ王は手の届かない存在となるだろう。

 そうなる前に何とかしなければならない。今の内に手を打たねば、取り返しが付かなくなってしまう。

 どのような手を使ってでも、元の越、本来の越、あるべき越の姿に戻さなければならない。

 考えてみれば、そもそも王などが必要だろうか。権力者どもに舐められぬ為、国を創り、軍を創設し、

その上に王を戴いたが、しかしそれこそが間違いであったのかもしれぬ。

 我々には商いという武器がある。自衛の為、言葉に圧力を持たす為の軍事力は必要だが、王や国という

形は必要ないのではないだろうか。

 そんな物を持たずとも、我々は自力で立てる力を持っていたではないか。

 そうだ、我々は国を持たぬ独立勢力として、云わば商人達の国家として、この地にあるべきではないか。

王などという専制者を形だけでも創るから、越阜のような愚か者が出てくるのだ。我々は越一族に良いよ

うに言い包められ、上手くつながれてしまったのではなかろうか。

 ならば憎きは越一族。この鎖を、越一族の愚かな野望を、今我らが手で打ち砕き。再び、我らに自由を

もたらさねばならぬ。川賊として誰にも屈さずに生きてきた誇りを、今ここに取り戻さねばならぬ。

 商人達の心にそんな毒々しくも熱い想いが宿るまでには、さほどの時間もかからなかった。

 無論、そうなる過程には、双の、趙起の手が少なからず関わっている。彼らの意識が王への怒りに集中

している限り、さりげなくそこに都合の良い思惑をかませる事は、そう難しい事ではなかった。商人達も

また、怒りによって己が耳目を塞いでいたのである。

 王の野心、そしてその発芽と成長の早さ、更には西方と孫の戦の激化、物価の上昇すらも、趙起にとっ

ては嬉しい材料でしかなかった。天が微笑むが如く、趙起には大きな何者かが力を貸してくれている、そ

う思えるくらいだ。

 そして彼は同時に、憎しみの恐ろしさというものを、身に染みて理解し。更には物事というのは、いつ

でも人の考えの上をいくのだと、天に諭されているような気持ちにもなった。

 きっかけは確かに趙起が与えたのかもしれないが、しかし動かしたのは趙起ではない。得体の知れない

何者かが、誰知らず動かしたのである。

 そうとしか思えない。

 そこには喜びよりも、ずっと深い不可解さと不気味さが在った。

 趙起はこの世に生きる本当の意味の恐怖へ初めて触れ、背筋が凍り付くのを覚えたのだった。




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