9-3.爪痕


 劉軍内に動きあり。先に動いたのは劉であった。耐え切れなかったのか、単純に欲に負けたのか、突如

矛先を変え、隣りに並ぶ陶軍へと襲い掛かったのである。

 それと同時に、劉からの使者が双陣内を訪れた。来訪の目的は誰にでも察せられる。

 使者の言い分はこうだ。

 本来劉に双と戦う意志などはなく、不運にも争う形になってしまったが、それは劉の本意ではない。全

ては陶が行った事。同盟を組んで居る為に捨て置く訳にもいかず、致し方なく同調してしまったが、これ

以上意を曲げ、双と戦うような事は出来ない。

 よって、劉は陶との同盟を破棄し、改めて双と同盟する旨、申し上げたい。

 そもそも金の一件も全ては陶が余計な欲を出した為に起こった事。全ては陶の責任であって、我々には

双と争う意志はない。よろしく御検討いただきたい。

 ざっとまとめればこうだろうか。まあ、解りやすいというべきか、よくある言である。型通りと言って

も良いかもしれない。

 それを聞き、名義上双軍を指揮している双将は、即座に劉と呼応し陶を討伐するよう兵に命じようとし

たが、何を思ったのか趙深がそれを止めた。

 そして使者には、合議した上で改めて使者を出すとだけを告げ。それでは自分の役割が立たぬ、今こそ

が好機、今双に共に戦ってもらわねば意味が無い、と更に説得を続けようとする劉からの使者を強引に帰

させている。

 使者は暫く粘っていたようだが、どうしても動かぬとあれば斬り捨てても良い、と命じた趙深の意を敏

感に感じ取ったのか。後悔するぞ、と言い置いて、逃げるように帰っていった。

 慌てたのは双将である。これでは折角の好機が逃げてしまう。そして必ずや後々まで劉との間に溝を残

す要因となるだろう。

 しかし趙深は双将の言を柔らかにだが確固たる態度で退け、今は待つようにと諭す。

 双将は不満だったようだが、彼も大将になるだけあって、双内でも特に趙深を買っている人物である。

 つまりは操縦しやすい。納得はせぬでも、趙深の云う事だからと、最後には素直に引き下がっている。

 そうして双は待った。

 この間にも劉陶の間には激しい戦闘が続いている。勿論陶側からも使者が来た。この場合、双を味方に

付けた方が勝つに決まっているのだから、両軍共に必死である。劉からも諦めずに何度も使者が来ている。

しかし、趙深はどちらの使者も退け、答えを先延ばし先延ばしにしようとした。

 そうこうしている内に、劉陶の間での勝敗が決まる。

 如何にお互いに警戒し合っていても、やはり先に行動を起した方に利があったようだ。陶軍も良く持ち

堪えていたが、次第に劉軍に押し切られ、後退を余儀無くし、後退が敗走へと姿を変えていく。一度逃げ

れば後は脆(もろ)い。陣形も崩れ、将も兵も無く、陶兵は一人の人間に戻り、恥も外面も無く只管に駆

け続ける。

 劉軍はそのまま追撃に移り、不気味な沈黙を保つ双軍から逃げるようにして、陶軍の後を追い始めた。

 この時になって、ようやく趙深が動く。

「今が好機。全軍、敗走する劉軍を攻めよ」

 何を考えたのか、攻めるのは敗北した陶軍ではなく、勝利した劉軍の方へであった。劉軍は追撃に入り、

決して逃げている訳ではないのだが。西に布陣する双から見れば、陶軍を追って東に進む劉軍は確かに双

軍から逃げているように見えなくはない。

 双兵はここが功名の立て所とばかり、勢い良く劉軍へと雪崩れ込んだ。双兵も勝戦ならば強い。普段か

らは想像出来ない激しさと速さで、劉軍へ襲い掛かる。

 圧倒的優勢であった筈の追撃時に、あろう事か背後から襲われた劉軍は堪らない。何故今頃と疑問が浮

ぶ時間も無く、簡単に双軍に蹂躙(じゅうりん)された。

 そう、趙深の狙いは、初めから漁夫の利を得る事にあったのだ。

 どちらかに付いてどちらかを奪うのではなく、どちらも奪う。その為に劉陶を争わせ、勝敗が決まった

所でその勝者を襲う。勝ったとはいえ戦えば疲弊する。ただでさえ劉、陶どちらも一軍だけを見れば、双

と大きな兵力差があるのだ。その上で疲弊し、背後を襲(おそ)ったとなれば、勝つのは容易であろう。

 劉もまさか双が背後を突いてくるとは思わない。使者を追い返されるのも、もったいぶるのも、劉の力

を減じ、その上で一番高く売れる状況を待っていた、或いは勝敗がはっきり付くのを待っていた、とは考

えていても、まさか勝敗が付いた上で、勝った自分の方が襲われるとは思わっていなかった。

 共に敗北した陶軍を襲うというのならまだしも、誰がわざわざ勝った方を襲うと考えるだろうか。

 謀ったなと劉将は怒りに燃え、勝利した勢いを借り、反転して双軍から叩きのめしてやろうと思ったよ

うだが、その意は一瞬で砕かれた。兵にはすでに戦意が無かったのである。

 双の先陣を斬るのは、趙起率いる賦族軍である。訓練に訓練を重ね、その精強さは比類ない。まだ経験

の浅い兵も居るが、逃げ行く兵を追って斬るだけなのだから、経験も必要ない。度胸さえあれば良く。そ

の点、いざ戦いとなれば臆する事無く、死を恐れず鬼のように戦う賦族兵であれば、何の問題もなかった。

背後を突いている今、劉兵など相手にならない。

 しかも追撃に移っていた為に、劉軍はどうしても無理な態勢にある。陣形は伸び、乱れ、戦意も何も初

めからまともに戦える状態ではなかったのだ。勝利に溺れ、背後の双軍の存在を忘れた劉軍は、その時点

で敗北が決まっていたのであろう。

 結局散々に撃ち破られ、趙深の言葉通り、陶軍と仲良く敗走する破目になってしまった。



 劉軍、陶軍共に壊滅し、最早忠誠心も何も無く、将は大将を捨て、兵は将を捨て、武器や鎧まで逃げる

に邪魔だと投げ捨てて、必死に逃げた。

 陶軍の中には双が味方してくれたと思い込み、その場に止まって迫り来る劉軍を双軍と挟撃しようと試

みた者もいたようだが。その思いは虚しく、劉軍共々双軍に仲良く粉砕され、陶軍へ更なる恐怖をもたら

す結果となってしまっている。

 投降した兵には危害を加えていないが。この事で、双はどちらの味方でもないのだと、両軍に知らしめ

たのだろう。

 劉陶の敗走には拍車がかかり、双からすれば初めから最後まで追撃だけを行っているようなもので、楽

な事この上なかった。どう考えても負ける訳が無く、進めば進むだけ戦果が挙がる。このような状況は普

通考えてあるものではない。

 しかしそのあるものではないものが時に現れるのが、人の世の不思議である。

 こうして劉の敗勢も明らかになった上で、改めて投降を呼びかけた。元々戦意も薄れており、将も兵も

お互いに疑い合い、遂には憎み合う程の関係になっていた者達である。勝っている内ならまだ団結もしよ

うが、負けた以上は誰に遠慮する者はいなかった。次々と双に降り、忠誠を誓う。

 趙深はしかし彼らをそのまま軍に編入しようとはせず、祖国へと送り返している。これは受け容れない

というのでも、一度帰って準備を整えて来い、というのでも無く。祖国に居る同胞達へ、双に恭順するよ

う工作させる為だった。

 最早劉と陶の命運は決まった。もう団結する心も、これ以上双と争うような意志も無いだろう。王一族

だけがこのままでは自分の命が危ないと、必死になって交戦論を説くかもしれないが、その言葉は今更将

兵に届くまい。

 金での失策といい、今回の敗北といい、民が見限る理由としては充分過ぎる。

 ならばそれに長けた工作員を送るよりも、実際に戦闘に参加し、双に恐怖を抱いている兵を使った方が、

地元の人間で親しみ易い事もあり、民や守備兵達への影響力が強いだろう。

 もし失敗しても、それはそれでいい。そういう種を蒔いておけば、いずれ効果が出るものだ。それだけ

でも損にはならない。投降兵を工作員に使えば出費も減るし、無駄飯を食わせる必要も無くなる。趙深か

らすれば、一石二鳥であった。

 幸いというべきか、その効果はすぐに現れている。国に残されていた将兵は双に恐れを為し、次々に街、

砦が降伏し、遂には劉王、陶王共に逃亡の途中で配下に殺され、これ以上戦う意志は無いと、二国共にあ

っさりと双の軍門に降ってしまったのである。



 趙深は金の最東端にある砦に趙軍と共に留まり、四方へ睨みを効かせつつ、金劉陶の軍の再編に取り掛

かっている。双本軍を本国へと返した為、手勢は趙軍しかなく、早急に守備軍を編成し、官職を定め、三

国それぞれに新たな少政府を築く必要があった。

 金、劉、陶、この三国は奇しくも同じ末路を辿った。民から見放され、将兵から裏切られ、王は支配し

ていた筈の者達に誅されている。

 そして三国共に双に降った。結局何が駄目だったのかと云えば、思慮が足りなかった、王の力が足りな

かった、兵力が足りなかった、色々理由はあるだろう。しかしおそらく一番重要な理由は、双は民や将兵

から支持されているのに対し、この三国はその意を無視し続けた事にある。

 もっと単純に言えば人の不和である。それのみが全ての原因であると思える。それさえ何とかしていれ

ば、このような事態に陥る事は無かっただろう。しっかりと自国を治め、その力を問題無く使える状態に

あったならば、あっさりと殺されるような事は無かった筈だ。

 この事からも、最早豪族王の時のように、一人が親分として勝手気ままにやれるような環境では無かっ

た事が解る。王という権威を高めた代償として、より大きな責任、より大きな期待を抱え込む事になった

のであろう。

 神聖不可侵であった始祖八家の時代は、完全に終わっている。下克上を犯し新しき王となった事で上下

の区別意識が薄れ、皮肉にも王が民に誅されるような事態を招いたのだ。

 内部外部に生まれた溝を深められ、それに対処しきれなかった。それだけで三国が滅びたのである。趙

深がやったのは、溝を深める、ただそれだけだったと云うのに、紀、越、金、劉、陶とまるで天の采配で

でもあるかのように、上手く動かされている。

 恐るべきは趙深か、それとも王の怠慢(たいまん)と傲慢(ごうまん)か、民の意識の変化か。それは

解らないが、人こそが力を生み、人こそが破滅の原因になるという事を、誰もが肝に銘(めい)じておか

なければならない。全ては人が生み出し、人が破壊する。しかも上ではなく、下の者が、である。

 ともあれ、趙起、趙深の願いは達せられつつある。

 残すは陶南部に位置する、楚(ソ)国。この楚を抜けば、待望の窪丸への道が開く。そうなれば双と窪

丸が結び、中央から孫を牽制(けんせい)する事も、西方と共同作戦を取る事も出来るようになる。

 そうして北方最東端にある斉(セイ)国を抜くなり味方に付けるなりすれば、北方から東方に居る孫軍

にも戦を仕掛ける事が可能だ。

 三方から一挙に打ちかかれば、流石の孫文とて堪るまい。西方との戦の為、その戦力を西方に集中して

いる今ならば、その効果は孫文に焦りと恐怖心を生み出すに充分である。三方に戦力を割く事になれば、

如何(いか)に孫文とて、西方に侵攻し続ける事が出来なくなる。

 孫文は西から追い立てられ、その大いなる力を失う事になるだろう。

 無論、それで孫の力が失われる訳ではなく、変らず中央と東方に覇を称え続けるだろうが、少なくとも

現在の圧倒的な力は散ずる。そうなれば窪丸に残された楓勢にも、もう一度中央に出、集縁(シュウエン)

を取り戻す機会を得られるかもしれない。

 中央に覇を称(とな)えられれば、今度は北方と協力し、西方大同盟、東方の孫文と互角以上に戦う事

も出来るだろう。

 多分に希望的観測が含まれているとしても、それは不可能ではない筈だ。

 しかし楓が再び力を付けるまでには、まだまだ長い時間が必要である。孫文の力を散じ、その威を減じ

て、そこからが始まりだろう。そこからようやく孫と五分に渡り合える可能性が生まれてくる。

 趙の望みを叶える道は已然険しく、これからも困難でしかない。何をどれだけどうしようとも、その困

難さは減じる事無く、常に趙起、趙深の側に付き纏(まと)うだろう。

 それにこうも北方が派手に動いているのだ。孫文も双の動きに何かを感じ、手を打ってくるに違いない。

いや、すでに打っているのかもしれない。

 流石に西方に集めている兵力を東方に移動させる訳にはいかないが、東方に居る軍を動かすか、下手す

れば窪丸を落し、中央から北方を牽制しようと考えるかもしれない。孫文はどういう行動でも取れる。そ

れを忘れてはならない。現状では選択肢はすべて孫文の手の内にある。どれを選ぶかは、孫文次第なので

ある。

 西方の戦線は膠着(こうちゃく)し、西安(セイアン)付近で一進一退を繰り返している。しかし膠着

状態にあるからこそ、一時退いて、別の戦法を取ろうと考える可能性は低くない。孫文の気性を考えれば、

西方から堂々と正面決戦を挑まれている以上、それを拒む事はしないとしても、こうも上手くいかなけれ

ば、流石に別の方法を考えてくると思う方が自然である。

 それに双にも問題は多い。

 双は領土を短期間に増やし過ぎた。どの国の民も完全に心服しているとは言えないし、不平不満を持つ

者が少なくない。今は安定を求め、双に従っているが。状況が変われば、また気持ちがどう傾くか解らない。

 まだ紀一個ならどうにでもなるが。金、劉、陶と一挙に三国を得たとなると、流石にその支配は難しく

なる。双が力を増した事で、魏や越、斉、そして西方に脅威を覚えさせ、それによってかの国々が双を弱

体化させるべく、双内の不穏を利用しようとする可能性も出てくる。

 新しく領土を得ると云う事は、同時にそういう不安も手に入れるという事なのだ。支配地が多ければ多

い程、その統治が困難になるのはその為である。人の思惑が多くなればなる程、それを治める事は至難と

なる。いずれの国家も、その為に滅びたように、今双が同じように滅ぼされたとしても、何処に不思議が

あるだろう。

 例え双の民は王に従っているとはいえ、紀、金、劉、陶内部に働きかけられれば、その全てに対処する

事は不可能である。双本国が安定していたとしても、領土がこれだけ増えた以上、それだけでは賄(まか

な)いきれない。

 気持ちとしては、すぐさま楚に目を向けたい所だが。趙深は暫く金、劉、陶を安定する事に忙殺(ぼう

さつ)されるだろう。趙起も戦後に生まれる残党勢力のような山賊夜盗を討伐する為、趙軍を率い、四方

八方飛び回る破目になるかもしれない。

 双も北方に覇を築けるまでに成長しているが、その地盤は未だ脆い。何かあれば、すぐに崩れてしまう。

それも後々の事を考えれば、双を強大にし過ぎないという点で、良い事かも知れないが。それによって双

自体が崩れてしまえば、本末転倒である。

 脆さを残しながらも、長く戦い続けるだけの力を付けさせなければならない。これは至難というよりは、

不可能近い事だ。趙深が長けていようとも、そんな事が出来るかどうか。

 流れは双、いや趙にあるが、果たしてそれもいつまで続くだろう。

 そして数多(あまた)に乱れる人の思惑は、一体何を引き起こすのだろう。

 混沌は更に深まり、そこから抜け出す術は、まだ誰にも見えていないように思われる。




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