9-6.真意


 趙起を見る楚王と姜尚に驚きの色は無かった。他の臣達も同様である。

 趙起こと楓流は彼らと直接の面識がある訳ではない。窪丸と繋がっていたとはいえ、それはあくまでも

隊商同士の繋がり、使者同士の繋がりである。楚も孫文に遠慮して積極的に交わろうとはしなかったし、

確かに商人の往来を禁じておらず、むしろ推奨してさえいたが、さりとて楓流も楚王も、お互いにお互

いの国を訪れた事はなかった。

 しかし隣国であるからには、ある程度は伝わっている筈。使者からも様々な報が入っていよう。楓流の

容貌なども知られていておかしくはない。それでいながら驚きを見せなかったのは、単純に知らなかった

のか、或いはまさかこんな所に居るとは考えられないのか、はたまたすでに全てを知っていたからか。

 解らないが、顔を見せても支障は無いと云う事は理解出来た。単純にそうする事が礼儀だからそうした、

とは単純に思えないとしても。よくよく考えてみれば、没落した楓流など、楚王や姜尚からすると、大し

た存在ではないのかもしれない。

 自らの事は自らが一番高く見る。そう考えれば、楓流という存在には、自分で思っている程の重みは無

いのかも知れない。

 いや、違う。確かに楓流自身には大した影響力はないが、そこに孫文の意が絡んでくる以上、楓流の存

在は無視できない。楓流の動きが孫文の今後の動向に、少しでも作用する可能性がある今、楚にとっても

見過ごす事は出来ない。であればこそ、平静を保ち、取るに足らない事、或いは知らぬ振りをしている、

と捉える方が正解であるような気がする。

 余計な事に関わりたくはない。お前がどうしようと知った事ではない。ただこちらに害が及ぶような真

似をするならば、こちらも容赦しない。大人しくしているなら、今は見逃そう。そういう意を感じる。

 楓流が名を変え双に居るぞと孫文に告げれば、楚にも何らかの見返りがあるだろう。しかしそうなれば

窪丸が孫に併呑されてしまう。孫文は逆らう相手に容赦はしない。窪丸も必死に抵抗するだろうが、孫文

が本気で攻めれば、いくら守勢に徹しても半月と持つまい。

 孫には西方の為に集めている兵力がある。それは窪丸から見れば無尽蔵の兵力。例えその一部を使うだ

けでも、窪丸にとって致命的だ。

 そして窪丸が孫に落とされれば、楚と孫が領を接する事となる。次に狙われるは楚であろう。窪丸を落

せば、必ず孫は北方を突こうとする。そうして西方を北と東から攻め取ろうと考える。楚もまたただの過

程として蹴散らされてしまうだろう。

 孫と領を接する。これ以上に怖ろしい事態があるだろうか。

 楚としては窪丸を孫への盾としている現状が、一番望ましい。趙起は楚が取った態度の理由を、そのよ

うに解した。

 とすれば、第一関門は乗り越えたと言うべきだろうか。いや、ここからが勝負であろう。楚には孫に協

力する意思はないが、敵対したいとはそれ以上に考えていない。それは話の端々からも感じられる。

 双の名代として来ている為、楚王は趙起を双と思って丁重に扱っているのだが、そこに大した好意は感

じられなかった。むしろ迷惑そうにしている。

 楚も、孫に対抗する為には双と、いや北方全土が一つになり、西方と同じく大同盟を結ぶしかない、と

いう事は理解している。孫が大陸の約半分を手中にしている以上、対抗するにはそうするしかないと云う

事は、重々承知している。

 そしてその上で堅固な窪丸を用い、孫の主力を西方と二分して食い止め。その隙に北方の主力を東方へ

向け、孫の力を、領土を削ぐ。孫に対抗するには、打ち勝つには、そうするしかない。

 だが、だがと楚は思う。北方が一つになるとすれば、現在最も大きな領を有している双が、自然上に立

つ事になろう。その双は信用出来るのか。

 地理的に考えると、楚が最も窪丸と孫に近い。楚が大きな負担を強いられるのは必定。その上、双とい

う国は伝統的に他国を見下している。いや他国を国として認めていないとすら言ってもいい。始祖八家の

正統な後継が双のみであるからには、双こそが国であり、双のみが国であり、他は全て双に属する物と考

えている節がある。

 双の力は強大になった。それを見過ごす事は出来ない。楚としても敵対するよりは協力した方が良い事

は解っている。しかし双は信用ならない。結局、双は楚を便利な手駒として使い捨てにするのではないか。

 楚が窪丸に援軍を送り、必死に孫と戦い疲弊し、ようやく勝ったと思った時。その時に掌を返して双が

楚に攻め寄せてくるのではないだろうか。

 そこまではしないとしても、孫の猛攻によって衰えるしかない楚は、東方を得て更に力を増した双に、

屈辱的な扱いを受けるのではないのか。

 北方大同盟が成れば、自然、窪丸と楚は守勢を引き受ける事となる。楚は窪丸を孫の猛攻から守る為、

その力を使う事になろう。無論双も窪丸に援軍を出すとしても、大部分は東方へ侵攻させる筈。つまり双

は攻勢の役を担う。

 それは、楚と窪丸は領土を得られず疲弊する一方であるが、双は疲弊しつつも東方に領土を得、結果的

に更に力を増す、という事に他ならない。

 力を付けた存在が、力を失した存在に、一体どれほどの恩を感じるというのか。それに報いようと思う

だろうか。乱世は力こそが信であり真。双は良さそうな事を述べているが、結局は孫の脅威を利用して他

国を疲弊させ、最終的に自らが全てを呑み込み、その力を増そうとしているに過ぎない。

 どう考えれば双を信用できるというのだろう。双の力が増している今、尚更双は信用ならない。双も孫

も似たようなものでは無いか。他国を認めないのは、どちらも同じであろう。

 北方は今一つになる必要があるが、それは双の下に一つになる事でも、双として一つになる事でもない

筈。楚は双に信用できる理由が無い限り、現状で何一つ見出せない限り、その提案に乗る事は出来ない。

 これが楚の出した答である。

 それは尤(もっと)もな事であり、誰もが当たり前に考える事。突飛(とっぴ)な事でも、理不尽な理

由付けでも、双に対する嫌がらせでもない。ただの純然たる事実、或いはそれに近しい未来予測であり、

否定する事は難しい。

 趙起自身も、また趙深ですら、そういう意味では同様に双という国にさほどの信を置いていない。だか

らこそ趙深もまた、双が第二の孫とならぬよう、様々な手を打ってきたのである。双の力を飛躍的に増さ

せた彼自身が、双の獅子身中の蟲ともなっている。これは双王ではなく、双という国に対し、警戒心を抱

いているからに他ならない。

 故に楚の言い分は痛い程解る。だが趙起もそれで引き下がる訳には行かない。

 子供の使いではないのだ。楚が簡単に応じぬ事は初めから解っていた事。双の孕(はら)む危険性も解

っていた事。しかしその上で楚を説得せねばならない。少なくとも今は双も楚も必要なのだ。どちらも欠

く事は出来ない。何としても一つにしなければ、趙の望みを叶える事が出来ない。窪丸を救えない。

 それを成しても後に双に滅ぼされる可能性はあるが、成さねば今孫に滅ぼされてしまう。

 信を見せねばならない。楚が双ではなく、趙起を楓流を信ずるに足る理由を、楚に示さなければならぬ。

 双の為でも楚の為でもない、他ならぬ自分の為、窪丸の為に。

 趙起は覚悟した。こうなれば心の内をさらけ出すしかない。ありのままを、何一つ隠し事のない、彼の

本心そのものを、趙の真意を。

「お人払いを御願い致します」

 趙起の表情の変化を察しながら、突然の申し出にもうろたえず、姜尚はその言葉に応じる。

「何故に」

「秘事を明かさねばならぬからでございます」

 趙起、姜尚は一瞬たりともお互いの目を離す事はない。姜尚はそこに覚悟を見、何事かを確信したのか、

王に応じるよう進言した。

 王も静かにその言を受け容れる。

「師父を除き、全ての者は下がっていよ」

 楚王の命に従い、姜尚を除く全ての者が一礼を捧(ささ)げて去って行く。そこに異が一つも見出され

なかったのは、それだけ王と姜尚に対し、篤く信を置いていると云う事なのだろう。そしてまた、姜尚が

特別な存在であるのだと、皆が認めている証明でもある。

 姜尚の力は人の心の根深い所まで浸透しているようだ。彼を煙たく思う者も、その点は否定出来ず、そ

の能力は疑っていないと云う事か。

「申してみよ」

 王、姜尚、趙起のみとなった事で、王自らが直答している。遠慮なく振舞えるようになり、王自身もど

こか嬉しそうであるように見えた。姜尚という一番大きなお目付け役が居るものの、その心は伸びやかに

あるようにも感じられた。

 趙起はその空気を壊さぬよう、自らの心を落ち着け。言葉を選びながら、自らの意を述べていく。

「ご存知かもしれませんが、趙起というのは私の本来の名ではありません。私の名は楓流。今は窪丸の主

を務めている者です。その私が名と姿を隠し、双の臣となり、盟友である趙深共々双の為に働いてきたの

は、偏に窪丸を救う為でした。

 窪丸は今危機にあります。喉元には常に孫の刃が突き付けられ、身動きが出来ず。孫を抑える力もあり

ません。幸いにも楚の国の御助力をいただき、食料に窮する事はありませんが、いずれ孫に降るしかなく

なるのは、火を見るよりも明らかでしょう。

 窪丸も他の多くの国と同じく、孫に飼い殺しにされているのです。

 ですが北方が一つに成れば、孫に対抗する事は不可能ではありません。そして事は半ば成っております。

後は楚の力さえ御貸し願えれば、双と窪丸が繋がり、孫に対抗出来るだけの防衛力を得る事が出来ましょ

う。窪丸が活気付く事は、楚にとっても利がある事であります。もし窪丸が孫に呑まれるような事があれ

ば、我らの喉に在った刃は、すぐさまこの楚国に向うのですから。

 恐れながら、楚とても一国では孫には勝てますまい。西方と共謀しようとも、楚一国の力では、とても

孫を抑える事は出来ないと存じます。孫は怖ろしく、西方との戦で疲弊して尚、全土を統べるだけの力を

有しております。

 ならば今、楚は双と手を結び、我ら窪丸と共に孫に当るべきではないでしょうか。窪丸が落ちる前に、

我々は一つになるべきではないでしょうか。

 確かに、楚、窪丸、双と結んでも、孫領を侵す程の力は得られますまい。双にも不穏は多く、磐石とは

言えませぬ故。しかし窪丸は一度孫軍の攻勢を防いでおります。その窪丸に力を結集させれば、孫軍を防

ぐ事、防ぎ続ける事は、決して不可能ではありません。

 そしてもし楚が協力して下さるのであれば、我らは大きな恩義を感じるでしょう。それは後々まで変ら

ず、火急の時が来れば、必ずやその恩に報います。例えその時、楚がどの国を敵としていようとも。

 この策を生み出した趙深も愚かではありません。先の事にも手を打っております。しかしその備えも、

今孫に滅ぼされてしまえばどうにもなりません。我らが躊躇している間に孫が牙を剥き、我らを抵抗でき

ない所まで深く埋めてしまうでしょう。

 何としても孫文が来る前に、我らは手を結ばなければなりません。それ以外に道は無いのです」

 楚王、姜尚はその言葉に耳を傾け、一つ残らず全てを聞く。

 耳から伝えられた言葉を、心に納めるように暫くの時間を置いた後、姜尚は不思議そうに問うた。

「確かにそれが本当ならば、我々もそうする事に吝かではありませぬ。貴方が後々の事まで考えておられ

るというのであれば、確かにそれが一番良い方法なのでしょう。お二人のご活躍は、ここ楚まで届いてお

ります。その智は疑うべくもありません。

 ですが、貴方は今、恩義と仰いましたが。例え恩義をより多く楚に感じておられたとしても、双にも恩

を感じねばならぬのは変わりない筈。その双の恩義を、貴方は無視されると言われるのか。そのような御

仁を、果たしてどこまで信用すればよろしいのでしょうな。楚への恩義も、すぐに忘れられるのではあり

ますまいか」

 それは言葉の裏を抉るような質問、いや詰問であったが。趙起はしかし平然とその言を受け止め、再び

はっきりとこう述べた。

「確かに双の力を借りた以上、相応の恩義を感じねばなりません。そしてその恩義は決して軽くはありま

すまい。

 ですが双の力が増した事は、姜尚殿が申されたように、周知の事実であります。即ち、我らはすでに双

に恩義を返している。いや、初めからそういう約定であったと、そうお思い下さい。我らと双は恩義に寄

って結ばれているのではなく、約によって結ばれているのです。その約は堅いですが、約はあくまでも約。

果たされればそれ以上の意味を持たぬ物です。恩義には変えられません」

「なるほど、良く解りました。なれば協議させていただきます故、暫しお時間をいただきたく存じます」

 姜尚は趙起の覚悟の程を知りたかっただけなのだろう。それ以上は追求しようとしなかった。

 趙起もその言葉を聞くとそれ以上その場に留まろうとせず、深く、しかし来た時よりは若干浅く、一礼

を返し、足早に謁見の間を去っている。

 彼は双の使者という以上に自分を明らかにしてしまった。そうするしかなかったにせよ、今それを後悔

してはいないにせよ、立場は自然と変ってくる。

 果たして楚は、どう出てくるのだろう。趙を素直に受け入れてくれるのか、それともここが好機と利用

するのか。どうなるにしても、穏やかな時間は望めまい。

 趙起は楚に身を投げたようなものなのだ。楚の気持ち次第でどうにでも出来る。そして彼はもうこの境

遇からは決して逃れられないのである。



 楚の中で激しい議論があっただろう事は、想像に難くない。親孫派、親窪丸派、そしてどちらにも組し

ない者、三派入り乱れて大きな論戦があった事が推測される。

 最も大きな発言力を持つ存在が姜尚である事は間違いなく、その意で全てが決する可能性も大いにある

が。それによって他の者の意が無視される事はない。国家存亡にかかる重大事であるからには、王や宰相

の意見だけで全てを決められる程、当時の王に力は無いのである。

 王としての権威が飛躍的に高まりつつあった時代ではあるが、絶対の者となるまでには、まだ時間がか

かる。

 王や姜尚が趙起の秘事をどう受け止めたのか、それによってどう考えたのかは解らないし、推測するに

も材料が少ない。だがどうなるにせよ、趙起が自らの命を危険に晒した事には違いない。孫に引き渡され

ずとも、最悪、造反の意を抱いた者として、双に訴えられる可能性もある。

 楓流が身分を偽って双に浸入していたと解れば、趙深共々無事では済まされない。

 双は双王の意が至上とされるが、双王とても二人を庇いきれないだろう。或いは二人に幻滅し、興味を

失い、あっさりと見捨ててしまう可能性もないではない。双王は清廉な人物であるが、貴族らしい気まぐ

れさも濃厚に持っている。

 不安要素を並べていけば、趙起のやった事が本当に良かったのかと、疑問は浮ぶ。

 悔いてはいないが、それが最上の方法だったとは言えない。ただ他に考え付かなかっただけであり、そ

れをするしかなかったとはいえ、それが最善であったとはとても言い難い。

 ともあれすでにやった以上、後は大人しく結果を待つしかない。楚の返答、それ次第で趙起の運命は大

きく変わる。しかし今その運命を支配しているのは、楚なのだ。趙起自身には何も与えられていない。全

てを決めるのは楚なのである。

 楚の決定を待つしかない。余計な事をすれば、印象を悪くするだけだ。

 何も出来ず自らの裁決を待つ。その苦は筆舌に尽くし難く、とても耐えられるものではなかったが、そ

れでも他に出来る事は何も無かった。

 趙起は仮面を握り締めながら、その時を待つ。

 最早この城内で、仮面を付ける事は無いだろう。今は自ら選んだ道を只管に行くより他にはなく。仮面

など何の意味も無い。

 ただ待つ。一つの当ても無いままに。

 使者として与えられた豪奢な部屋も、今は牢獄と変わりなく見えた。




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