9-8.ありうべき事


 斉の情況を一言で言うなら、儚い、という言葉に尽きる。

 楚との争いが落ち着きを見せたと思いきや、次に現れたのが孫文である。幸か不幸か孫文自身は中央に

移動し、西方との戦を最重要と見ているから、その脅威は一時減じているが。もし孫文が北方侵攻に重点

を置いていれば、すでに斉という国は無かったかもしれない。

 斉の兵も弱くは無いが、孫軍にはまったく歯が立たなかった。

 何が違うかといえば、その士気と将の能力であろう。斉には姜尚が去って後、彼に変われるような人材

が出ておらず。決して質は悪くないのだが、どうしても小粒の者ばかりで、全てを背負って立てるような、

或いは全てを御しえるような、将器を持つ者が居ないのである。

 それは斉の先王から継承した負の遺産とも言えるし、現王の好みからきているとも言える。

 斉の王は目立つ者を好まず、大人しい性質の人間を好み、気性の荒い者を遠ざけている節がある。その

為か上に立つ者は確かに荒々しい所がなく、典雅ですらあるが、揃ってどこか頼り無く、何となく人柄そ

のものが薄いような印象を受け、全体的に弱々しさが見えた。

 他の事ならまだしも、軍を預かる者としては、如何にも頼りない。このような将の下で、果たして戦っ

ていけるのか、勝てるのか。どうしても心配になる。

 時間をかけて回復しつつあった国力も孫軍のおかげでまた疲弊し、その事もまた斉全体に暗い影と虚し

さをまとわせている。だから全体的に覇気がなく、頼りない印象が尚更強く感じられるのであろう。

 強い意志を持って貫くような強さ、がこの国には無いのだ。姜尚の帰還を望む声も相変わらずある事を

考えても、誰もが自分を信じられず、自国を頼れず、何処からか頼れる者が現れる事のみを祈っているよ

うに思える。

 まるで雨乞いでもするかのように、ただ待っている。自らやる気力も無く、ただ待っている。このよう

な国家は非常に危うい。

 姜尚も憂いており、陰に日向に助けようと手を差し伸べているのだが。斉自身が立たない以上、外から

何をしようとも無駄な事。結局は自らの事は自らでしか行なえぬ以上、斉にある無気力さを取り除かない

限り、この国を立て直す事は不可能であろう。

 このように元気の無い状態では、確かに孫に付け込まれ、うまうまと取り込まれてしまう可能性も高く

なる。今の斉から見れば、強大な力を持つ孫文こそ、最も頼れる者と映ってもおかしくないからだ。

 例え国民が承知せぬとしても、政府が勝手に国を売り渡すような情況もありえないとは云えない。

 だがそれは孫に限った話ではない。付け込む余地があるのは、双と楚にとっても同じである。こちらに

も姜尚という頼りにされている存在が居るし、孫文と姜尚、どちらに向かうかといえば、人情としては姜

尚であろう。信頼性から言っても姜尚の方に分がある。

 双が手を差し出したとしても、斉は疑うかもしれない。しかしそこに姜尚が絡めば話は違ってくる。斉

をこちら側に付ける事も、そう難しい話ではない筈だ。

 孫にとっての利点は、双楚にとっても利点である。後はどれだけ斉の気を惹けるか。斉王を決断させる

だけの材料と情況を生み出せるか。それが鍵となるだろう。

 趙起は姜尚自ら斉へ出向いてもらえるよう願った。

 姜尚は楚にとっても重要な人物であるから軽々しく動かせないし、高齢である為にあまり遠路の旅は健

康に障るのだが、それでもここは是非とも彼自身に行ってもらわなければならない。

 国中が不安に陥っている中、直接姜尚が出向く事の効果は大きく。その効果が、或いは斉の選ぶ道を決

定付ける大きな力となるだろう。混乱の中、何よりもはっきりと眼前に突き付けられる一手は、それ程に

強い影響を人に与えるのである。

 だからこそ姜尚に出向いてもらわなければならない。今姜尚が行くと行かないのとでは、大きな差が生

まれてしまうのであるから。

 姜尚もそれは重々理解している。趙起に言われるまでもなく、必ず姜尚自身の力が必要になると云う事

は、彼も解っている。孫からの影響力を振り払うには、全ての斉の民の心の内にある、姜尚が居てくれれ

ば、という気持に応えるしかない。

 孫の圧倒的な軍事力に対抗できる力があるとすれば、長年望まれ、積み重ねられてきた、姜尚への信頼

と希望の他にはありえない。

 姜尚は言われるまでもないと初めから行く気であり、楚王もそれに反対する事はなかった。姜尚の健康

が心配だが、それを言っていられる時ではないのである。

 趙起は姜尚の出馬を乞うた事もあり、その護衛を申し出、精鋭と共に斉へ同行する事にした。

 斉を上手くこちら側へ付ける事が出来れば、趙深の戦略の大筋は完成する事になる。斉を得てこそ、よ

うやく窪丸が別の動きを示す事が出来る。窪丸への道が繋がった事により、気が焦りそうになるが、ここ

で急いては全てが無意味となる。

 そこに手が届きそうな時こそ、その事に焦ってはならない。

 むしろ無視する事だ。それがかえって良い結果をもたらす事になるだろう。



 流石に姜尚を襲おうなどと考える輩(やから)は居なかったのか、斉への旅程は滞(とどこお)りなく

進んだ。姜尚に負担をかけない為に時間をかけたが、その事も災いする事はなく、無事斉の都、営丘(エ

イキュウ)に到着出来たのである。

 営丘は北方と東方を繋ぐ拠点として繁栄し、北方の豊かな土壌から生まれる穀物と豊かな水によって人

口を増やし、北方東部の中心にまで成長した都市である。

 物の流れが豊かである為、古来から富んでおり、その豊富な資金を利用して工業も盛んであった。大陸

の果てである最北の山岳地帯には豊富な鉱石資源があり、それらを利用した武具や道具の製造が国家単位

で行われ、大陸でも有数の技術力を誇っている。

 泰山の隠者達には及ばぬまでも、斉製の武具は高い品質を誇る。

 悪政などで疲弊したが、その技術力は衰えていないらしく、今も至る所で金槌(かなづち)の音が聴こ

えてきていた。乱世での財源として良質な武具程良い物はなく、その為にいかな愚王でも幾らか手心を加

えていたのかもしれない。

 欲に塗れているからこそ、国の繁栄に尽力する事もある。これを皮肉と言うべきか、不幸中の幸いと言

うべきか。

 北方で使われる武具は斉産の物が多く、一兵卒まで行き渡る事は少ないが、隊長以上になれば、大抵国

から良質の武具を与えられる。趙起が使っているのも、双から与えられた斉産の武具である。

 営丘の設計にも気を配られ、排水路なども細かく造られている。誰が建てたのかは解らないが、今この

都市の繁栄があるのも、基礎となる設計をした者のおかげだろう。

 暮し易く民の意気も高い、筈なのだが、今は孫軍への恐怖心がそうさせるのか、住人の顔が曇っている

ように見えた。懸命に仕事をこなしている姿も、何やら捨て鉢になっているようにも思え、街全体が重苦

しい何かに包まれている。

 思い出深い筈の街、そこに重く圧し掛かるモノを見、姜尚は今何を思うのか。

 察するべくもないが、趙起にとってはどうでも良い事だ。斉には何の思い入れも無い。あるのはこの国

がどう動くのかという不安、曇り空と共に行くような落ち着かなさだけである。

 斉王、斉呂(セイリョ)は、姜尚が直接使者として来る事に大変な喜びようらしく、その気持ちは宿の

手配や斉に入ってからの歓待具合を見ても良く解る。だが余りにも騒ぎすぎているような気もし、一抹の

不安を思ってしまう。

 一国の王が、例え名声のあるしかも血族の一人を出迎えるのだとしても、まるで子供のようにはしゃい

でいるのはどうだろうか。何となく無理にはしゃいでいるようにも感じる。

 斉呂も最早若くないから、ひょっとすれば精神のたがが緩んできているのかもしれない。或いは孫への

恐怖心からおかしくなってしまったか。

 もしそうであれば、その弱みに乗じる者が必ず出るだろうし、斉に見切りを付けてさっさと孫に降ろう

と考える者も出てくるだろう。

 どう考えても心配になる。そもそも孫という敵が現れているのに、双にも楚にも協力を求めないという

のは何事か。勝っているならまだしも、手痛い敗北を喫(きっ)していながら、楚とも金劉陶とも結ぼう

とはしていない。

 確かに窮地に助けを乞えば足下を見られ、最後にはその同盟相手に滅ぼされるきっかけを与えられた、

という事も史上には少なくない。故に助けを乞うような真似はしたくなかった、そういう考えも確かにあ

るだろう。

 しかしそれを考えても、どうも反応が鈍過ぎるのが気になる。不安を抱いているのならば、もっと色々

な事に敏感になるものではないのか。

 鈍いといえば、何故長く孫はその侵攻を止めているのだろう。西方との戦いの為、東方へ投じる資金と

資材を減らしているとはいえ、東方に残されている兵力だけでも、斉に侵攻する事は不可能ではない。余

計な歪みを生まぬ為、慎重になっているのかもしれないが、双がこれだけ派手に動いているのだから、孫

ももっと大きな反応を見せていてもおかしくはない筈だ。

 いくらなんでも双の動きを捉えていないとは考えられない。

 それなのに何の動きも見せないと云う事は、もしかすれば、すでに手は打ってあると云う事か。

 動かずとも、すでに斉は手中にあり、その後への布石も打っているのだと・・・。

 考えすぎかもしれないが、もしそうだとすれば、この姜尚に対する手厚い出迎えの裏に、全く別の真意

が隠れているように思えてくる。

 孫にとって今一番邪魔なのは双でも斉でもない、他ならぬ姜尚である。孫との講和に強行に反対してい

るのが姜尚で、楚と斉に大きな影響を与えている。それどころか、姜尚は斉の民の大きな希望ともなって

いる。

 希望がある限り、斉は手強い。そして希望ある限り、孫の軍門には降るまい。無理にそうさせれば、民

が国や軍とは別に蜂起する、或いは流民となって楚に逃げ出す可能性も考えられる。孫も民の居ない国な

ど得ても、仕方がない。

 それに斉の存亡の危機となれば、姜尚が楚王を説き、自ら軍を率いて出てくる可能性もある。そうなれ

ば斉の民も姜尚に応えるだろうし、孫にとって厄介な事態になるだろう。斉と楚に組まれては、流石の孫

も東方のみの軍では圧倒する事が難しい。

 しかし姜尚さえ居なければ、全ての不安は解消される。希望である姜尚を断てば、斉も楚も気概を失う

事になるだろう。そうなれば後は簡単である。心が挫(くじ)ければ、征する事は容易い。

 楚の奥に篭(こも)っている姜尚を暗殺するのは難しいが、外交使として少数で斉に来ている今ならば、

不可能ではない。

 無論斉の協力が必要であるが、斉がその気になりさえすれば、姜尚の命を取る事は難しくない。

 まさかとは思うが、警戒を強めておく方が良いだろう。



 斉王との謁見は問題なく終わった。

 心配していたような何かが起こる訳でもなく、反対意見も見えず、北方が一丸となって東方の孫と戦う

という、姜尚の言が容れられたのである。

 各国間の約定も大雑把にだがまとめられた。細かい点はこれから何度も使者を交わしながら協議してい

く事になるだろうが、取り合えず同盟は成ったと考えていい。

 斉に寄れば、最近の東方の動きは大分大人しいそうで、孫は趙深や姜尚が考えている以上に慎重に執り

行い、外征よりも内政に気を配っているらしい。これからは槍よりも弁に拠って進めようと考えているの

かどうか、しきりに孫からの使者も来ているそうだ。

 無論、斉としては頑(かたく)なに孫の言葉を退けているし、今後も協力し合う事はない。

 ある程度調べは付いているだろうと見て、隠し立てせずに言っているのかもしれないが、それにしても

思い切ったものだ。孫との関係を手札とし、少しでも自国を有利にする為に使うだろう、と考えていた趙

起からすれば、拍子抜けですらある。

 罠だろうかと思い、念の為に夜の警戒を強め、いつでも逃げ出せるように準備しているが。結局何事も

起こらず、全ては順調に進み、後は楚に戻って報告するだけとなった。

 案ずるより産むが易し、と云う事か。

 斉王と家臣の一部が浮かない顔を見せていたのが気になるが、孫に敵対する事への恐怖心と見れば、そ

れが出ていて当然とも言え、必ずしもおかしいとは言えない。

 趙起が警戒しすぎていたのだろうか。姜尚も疑えばきりがないと言っていたし、確かに趙起は初めから

疑ってかかっていた所がある。そういう目で見ていたから何もかもが怪しく思え、余計な疑心を抱いたの

かもしれない。

 それでも頑固な所のある趙起は、とにかく楚に帰るまでは緩める訳にはいかないと思い、営丘を出てか

らも部下共々警戒を解かず、常に斥候(せっこう)を四方に発しては、油断なく帰路を進んだ。

 姜尚もそれを嫌がるではなく、その用心深さを頼もしく思っていたようだ。彼も苦労した人物で、人の

怖さを充分知っていたからだろう。人はこうするしかないと思い込むと、手段を問わなくなる事がある。

その時の人間の無慈悲さは骨が凍る程で、真に容赦無い。

 姜尚は昔同じ道を護送されていた時を思い出すのか、不吉さを掃(はら)うように時折からからと笑っ

ていた。

 笑い声が効いたのか、帰路も無事に進んでいる。斉も国を孫に売り渡すような事はすまい。孫と組んだ

とて、最後には滅ぼされてしまう事は解っているのだから、そんな事はしないだろう。

 楚との国境も間近である。明日には越えられる筈だ。ここまでくれば大丈夫である、少し落ち着こう。

到着時刻は予定よりも早かったが、ここで急いては斉に不信感を与えてしまうだろうし、大人しく準備さ

れていた宿へ入り、ゆっくりと身体を休ませる事にした。



 日が暮れる。用意されていた宿は楚との国境付近に造られた砦の一つである。この近辺は大河、悠江の

支流が細かく並ぶ場所で広く平地が取れず、大きな街を造る事が難しい。その為、街ではなく砦を建設し、

地の利を活かす事を考えたのだろう。

 橋も一本の道に沿ってしか造られていないから、その道を砦で塞いでしまえば、簡単に通る事は出来な

くなるし。橋を上げてしまえば、天然の堀に囲まれた要塞が出来上がる。

 輸送が止まれば干上がってしまうのが難点だが、ここに篭れば簡単に手出し出来ない。宿としてはあり

がたい場所である。

 楚との同盟が成立した事で、こちらに回していた兵を東方へ移したのか、砦内は静かだ。

 楚ももう目と鼻の先である。

 いらぬ心配をしたが、終わってみればどうという事はない。北方はほぼ一つに繋がった。後は西方と上

手く連携すれば、孫の優勢を覆(くつがえ)させる事も可能だろう。

 趙起は見回りも兼ねて日の落ちた砦内を歩いている。明日以降の事を考えれば早く寝ておいた方が良い

のだが、どうも気が急いて落ち着かない。砦内が静か過ぎるのも、逆に神経に障る。いくら兵しか居ない

とはいえ、余りにも静かだ。よほど規律が行き届いているのだろう。斉の兵も大したものである。

 趙起は一時程砦内を見回ったが異常は無く。途中で会った斉の守備兵に促されるように自室へ戻り、大

人しく就寝している。気分が落ち着けば、心地良い疲れが出てきたのだろう。

 しかしそんな安眠は、いつまでも持たなかった。

 趙起は突如喚声(かんせい)によって目覚めさせられ、慌しい気配に急かされるように、再び不安の虜

とされてしまう。周囲の気配は寝る前とは一変していた。

「隊長! 趙隊長!!」

 戸が慌しく叩かれ、息を切らせた部下が落ちるように入ってくる。その顔を見るだけで、全てが悟れそ

うな程、雄弁に物語っていた。人の顔がいつもこうであれば、人間と云うのは誰よりも解りやすい生き物

でいられるだろうに。

「敵襲です!」

 趙起はすぐに立ち上がり、鎧を身に付け、苛立ち紛れに戸を蹴破った。けたたましい音を立てて戸が外

れ飛んだのを見ていると、少しだけ気が収まるが、すぐに虚しくなった。

 それを振り切るように声を発す。

「数は! 姜尚殿は御無事か!」

「数百は居ると思われます。姜尚殿は奥へ移しました、ご安心下さい」

「よし、守備隊長から状況を聞き、斉兵と連携して賊を叩く。急げ!」

「ハッ、ですが、それが・・・」

 顔を曇らせ、はっきりしないのを訝(いぶか)しく思っていると、部下が驚くべき事、いや起こるべき

だった事を報告した。

 砦内の斉兵は一人残らず消えており、門なども全て開け放たれ、砦内はすでに賊で一杯、手当たり次第

に略奪している最中であるという。

 交戦も始まっており、両軍共に死傷者が出ているそうだ。

 斉兵のみに任せておかず、夜を徹して警備に当っていたおかげで、賊の浸入には逸早く気付けたものの。

それを止めるべき門も扉も役に立たず、頼みの斉兵も居ないのでは、食い止めようがなかったらしい。

 趙起は部下を責めなかった。彼自身、斉がここまでやるとは思っていなかったのだ。その迂闊(うかつ)

さを部下に拭わせようと考える方が間違っている。

 それに今はうだうだと考えているような時間は無い。

「解った。至急兵を集めよ。これより私が指揮を執る」

「ハッ!」

 部下は飛ぶように去って行った。流石は選び抜いた精鋭である。賊も賦族兵の強さを知るまい。ならば

まだ道は残されているかもしれぬ。

 趙起は廊下を突っ切り、階段を駆け上がり、最上階中央にある指揮室へと向かった。そこに姜尚が居る

筈である。おそらく敵もその事を想定しているだろうが、他に匿(かくま)える場所はなかった。

 相手の思惑通りに動くのは危ういが、それを知ってさえいれば裏をかかれる事もない。この状況で取れ

る手が限られているのは相手も同じ事、有利不利の差はあれ、我々は同じ土俵に立っているのだ。相手が

その事を忘れたとすれば、そこに乗じる隙が生まれよう。

 趙起はとにかく上へ急いだ。

 喚声は明らかに近く、大きくなっている。時間は残されていない。




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