9-9.遠く着る音


「おお、御無事だったか」

 指揮室に入ると、姜尚が出迎えてくれた。何よりも彼の命を優先するよう命じておいたのは、やはり最

善であったと思える。この姜尚が殺されれば、趙の望みも費える、とは言わないまでも、非常な困難に陥

る事は確かだ。今は趙起の命などよりも、姜尚の命の方がよほど重い。

 彼には何としても生き延びてもらわなければならない。斉政府との交渉が結果として失敗に終わったと

はいえ、斉との繋がりが完全に断たれた訳ではない。それに姜尚を護れなかったとなれば、楚との間に深

い溝を生んでしまう。

 姜尚の重みは楚斉二国との橋である事にある。対孫の要である彼を失えば、折角まとまりかけていた北

方も、一息に崩れてしまいかねない。特に窪丸に繋がる楚との仲が悪化すれば、窪丸の寿命は一気に縮ま

る事になるだろう。

 姜尚から見た趙起、趙深も同様である。姜尚にとっても双と趙は楚を護る為の要、決して失ってはなら

ない存在だ。だからこそ姜尚は今、趙起の無事を心より祝ったのである。何も同情心や優しさからきてい

るのではない、お互いがお互いにとって最も必要だから、お互いを自分の命よりも優先しているのである。

 それを悲しい関係と云うのであれば、人の営みの全てもまた虚しいものとなろう。

「火急の事態故、姜尚殿にも我が指揮下に入っていただきます」

「無論の事」

 趙起の傲慢(ごうまん)にとられかねない言葉にも、姜尚は当然のように頷く。彼は政と文だけではな

く、武の心も身に宿しているのだろう。楚を背負う彼の覚悟は、並の物ではない。

 趙起は初めからそのような事は心配していなかったが、それを確認できた事には安堵した。こうして予

定通りに動くとすれば、まだ自分にも運があるのだと思い込める。

 天運、それは絶対に必要なモノである。運だけではいずれ滅するが、そもそも運が無くてはどうにもな

らない。そういう事は今まで生きてきた中で痛い程解らされている。古の英傑にも験(げん)をかつぐ者

が多かった事は当然であろう。形として証明する事は難しいが、人だけではどうにもならない事が、この

世には確かにあるのだ。

「すでに周囲は囲まれ、逃げ道は塞がれている事でしょう。ならず者を雇ったか、そういう者達の仕業に

見せる為、賊は賊らしく振舞っております。暫くの時間は稼げますが、それも長くはありません。どう足

掻いても朝まではもたぬでしょう。ここは逃げるしかありません。それ以外に危機を脱する術は無いと思

われます」

「うむ。しかし道を塞がれた今、逃げようがない」

 姜尚が腕組みをし、眉根を寄せる。それはどこか大げさな所作で、何となく演技にも見え、滑稽(こっ

けい)さと同時に余裕のようなモノも見せてくれる。

「ええ、道は確かに塞がれました。しかしまだ見えていない道はある」

「ほう、それはそれは心強い事。して、その道は何処に」

「いえ、私にもまだ解りません。ですがここで待っていれば、すぐに解るでしょう」

「よかろう。焦っても腹が減るだけだわ」

 姜尚はどかりと床に座り込む。その姿もまた芝居めいて見え、兵の中には笑いを見せる者もいた。うっ

かりすると趙起ですら笑いを漏らしてしまいそうで、確かにこの男であれば、一国の心を取る事も容易い

だろうと思わされた。

 剛の上に柔も備えているからこそ、姜尚は敵国であった筈の楚国に置いてさえ、人の上に立ち、万民か

ら信頼される事が出来たのだろう。



 趙起は油断なくその時を待っている。

 どれくらい経ったろうか。一刻、二刻、いやまだ数分程度のものか。こういう時の人間の時間感覚とい

うのは、まったく当てにならない。こういう時にこそはっきりした時間を知りたいものだが、人間はいつ

も都合良く出来ていない。誠に皮肉なものである。

 姜尚を中心に置き、八方を見据えるように陣形を組み、ひたすらに待つ。

 兵の間に焦りの色が見えるが、誰もがそれを抑えるだけの力は持っている。いざとなれば死も恐れない

者達である。趙起の期待に必ずや応えてくれるだろう。

 賊達は物音など隠しもせず、砦内は騒々しいまでの音に満ちている。時折その中でも一層派手な音が聴

こえるのは、何かを剥ぎ取っているのか、それともそれらしく見せる為に、わざわざ破壊しているのか。

どちらにせよ、ご苦労な事である。

 だがもしそれが趙起達の意識を外に向けさせる為であるならば、そろそろだ。そろそろ来る。

 精神を集中させる。いつでも動けるよう、そしてどんな些細な物音も見逃さぬように。敵が放つ止めの

一手、それが趙起達にとっても活路を見出す唯一の手となる。

「!」

 兵の一人が何かに気付き合図を送ってきた。趙起はすぐに応じ、油断なくそちらを睨む。しかし他への注

意も怠らない。それが一つではない可能性があるからだ。

 それから少しの時間が流れる。汗が凍り付くような長い時間かと思われたが、実際には一分と経ってい

ないだろう。

 床が外れ、ゆっくりと横へ動いていく。張り詰めた空気の中、人の指先と床がゆっくりと動いていくの

を見るのは、まるで心臓を鷲掴みにされているようで、全く良い気分ではなかった。

 そしてそこに空いた穴から、床と手の動きよりも更にゆっくりとした動作で、兜らしき物がにゅうっと

伸びてくる。

「・・・・・ッ!」

 間髪入れず一番側に居た兵がその兜を薙いだ。奇妙な音と共に赤が宙を舞う。

 次いで床下で大騒ぎが起こった。

 しかし護衛兵は冷静に、まるで野菜でも引き抜くように兜を刈られた身体を引っ張り上げ、その身体を

放り捨てると。雄叫びを上げ、床に空いた穴へ躊躇(ちゅうちょ)せず飛び込んで行く。

 無論、趙起自身も迷いはしない。



 隠し通路を制圧するまで、ほとんど時間は要しなかった。思ったよりも配備された兵数が少なかったの

は、あくまでも道を塞ぐ為の役目だったのか、それとも少数で充分と考えたのか。或いは信用出来る者が

少なかったという事なのか。

 単純に道が狭いから、という事もあるかもしれない。

 いずれにせよ、趙起達には好都合であった。

 こういう砦には必ず秘密の脱出路が造られているものだ。その道は本来内側から外へ行く為の逃げ道で

あるが、今回は内に居る者はその存在を知らず、外に居る者がその存在を知っている事になる。だから必

ずそこから攻めて来ると思った。一番重要な場所から逃れる為の道であるならば、そこへ攻め込むのにも

適している。

 趙起と姜尚が無事指揮室に逃げ込めたのは、元々そこへ誘き寄せる手筈になっていた為かもしれない。

 趙起もその事は覚っていたが、それでも尚指揮室に逃げ込んだのは脱出路を得る為である。趙起達は誰

一人脱出路がどこにあるかを知らない。しかしそこから敵勢が攻めて来る時、その道は明らかになる。最

大の危機を逆手にとれば、そこにこそ脱出の可能性を見出せると考えたのだ。

「火を放て」

 姜尚を先に行かせ、ある程度時間が経った後で、趙起は砦に火を放たせた。賊が趙起達が諦めて自害の

為に火を放ったとでも考えてくれれば儲けものだが、そこまでは虫が良過ぎるかもしれない。だが時間稼

ぎにはなるだろう。

「急げ、急ぎ抜けるのだ。そして油断してはならぬ。抜けた先にも敵は待っていよう」

「ハッ!」

 次々と穴へ消えて行く兵を見ながら、火の回りを確認し、趙起は一番最後に砦を脱出した。

 将たる者、最も重要で危険な役目は、自ら背負わなければならない。



 脱出路を抜けた先にも予想通り敵が待ち構えていたが、その士気は低く、撃退する事は難しくなかった。

おそらくこの襲撃に加わらなかった部隊は、単にこの抜け道を塞ぐ為だけに残された者達で、技量戦意共

に低い、選別から外れた者達だったのだろう。

 彼らは抜け殻のようなもので、まさか奇襲を返り討ちにされ、その浸入路から逆に攻められるなどとは、

想像もしていなかったのだ。

 詰めが甘く、ずさんと言えばずさんな計画に思えるが。もしかすれば敵側にも迷いがあり、その迷いか

ら生じた一片の良心がわざとそうさせたのかもしれず。王命とはいえ、流石に姜尚を殺す事は躊躇(ため

ら)う者が多かったのかもしれない。

 姜尚は敵も多いが、それ以上に好意を寄せる者も多い。もし敵を率いる者がその一人だとすれば、無意

識にでも手心を加えたとしても、決しておかしくはないだろう。

 それは想像の域を出ないが、充分に考えられる事である。

 脱出路の出口から砦まで、少しの距離があったが、風に乗って様々な音が伝わってきた。燃え盛る炎、

剣戟(けんげき)の音、雄叫び、そして悲鳴。おそらく彼らは賊として討伐され、その口を永遠に塞がれ

る。暗殺が成功しようが失敗しようが、彼らの命は無い。

 あの砦に最後まで残っていた兵達も、賊討伐が済めば、外交使の護衛を全うできなかったとして、全員

斬首されるのだろう。

 捨て駒とする為に、兵として質の悪い者や、付近から雇い入れたごろつきなども多く居た筈だ。だからこ

そ趙起達は助かった。正直な所、もし斉が何の呵責(かしゃく)もなく、その全力を持って趙起と姜尚の

首を獲る事を命じ、正規軍を使っていれば、おそらく逃れられなかった。

 暗殺という姑息(こそく)な手を使わず、斉がその気になってさえいたら、姜尚と趙起を捕える事も容

易(たやす)かったであろう。

 暗殺という手を選んだからこそ、斉はしくじったのである。失敗の原因は、斉に覚悟がなかった事にあ

る。汚名を恐れ、堂々と殺す事、どころか捕らえる事さえ恐れた。そのような気概で事を成せる筈がない

ではないか。

 趙起はいっそ憐れに思えた。これで斉は終わる。少なくとも、国の形を保ち続ける事は、非常な困難と

なるだろう。斉王にもその臣下にも、この後混乱に陥るだろう斉をまとめるような力はない。

 そう考えれば、いっそ憐れであった。何故その決断を下したのかは解らないが、彼らはおそらく藁(わ

ら)をも縋(すが)る思いでそれをしたに違いない。愚かといえばそれで済むのかもしれないが、それだ

けで済ますのは痛々しい気がする。

 斉王がこの選択をした事にも、何か理由がある筈だ。そしてそれが斉が抱える本当の問題であり、斉を

どうするにせよ、その問題を知り、そして解決する事が、東方へ備える為の重要な要素になる。

 物事は、敵味方に分かれて終わり、というように簡単なものではない。望んで裏切ったにせよ、何か理

由があったにせよ、それを知る事が肝要である。斉との関係も、永劫に敵同士で終わる事はないのだから。



 真意は斉に聞かねば解らぬが、斉の裏切りにより、東方が何故静かだったのか、何故孫軍の侵攻が止ま

っていたのかを察する事は出来る。

 孫の東方軍指揮官(以後、東将と呼ぶ事にする)は限られた戦力を温存かつ有効利用する為、まず斉を

謀略(ぼうりゃく)によって取り込み、その力を足がかり、というよりも犠牲にして、北方への大規模な

侵攻を再開させようと企んだのだろう。

 しかし姜尚暗殺が失敗に終わった事によって、その目論見は費えた。いや、もしかすればそれ自体はど

うでも良かったのか。むしろ成功しようと失敗しようと、斉国内が混乱に満ち、そして北方を乱す事が出

来れば、その成否はどうでも良かったのかもしれない。

 だとすれば、斉王を動かした事で、すでに彼の目論見は達せられている。その結果はどうでもよく、た

だ一石を投じるだけで良いとすれば、これは恐るべき謀略ではないか。その策の成否に関わり無く目的を

達せられるとすれば、これ程恐ろしい事はない。

 孫は依然(いぜん)有利な位置にあり、斉が態度を明らかにした以上、その歩をこれ以上止める意味は

ないだろう。東方軍が動き、斉国も東方軍に引っ張られて行く様にして、北方侵攻を進める他ない。

 斉孫と北方との戦になるとすれば、勝っても負けても北方は大きな損害を受けてしまう。趙深の戦略も

変更せざるを得ない。いや、すでに失敗に終わったと言えるのか。

 趙起は姜尚と共に楚へ戻り、急ぎ趙深に使者を走らせると、彼自身はそのまま楚に留まり、姜尚らと対

策を練っている。

 斉は劉陶楚と領を接しているが、三方面を同時に攻める事はまず考えられない。それは孫軍が加わって

も同様で、おそらく定石通り、戦力を一点に集中して来るだろうと思われる。そしてその侵攻が開始され

るまでには、あまり時間がないだろう。

 孫軍はすでに軍を進めている筈だ。姜尚暗殺を良い機会と捉え、斉が靡(なび)かぬならそのまま斉に

侵攻し、斉が靡くなら斉と共に北方へ侵攻する。そういうどちらでも構わない考えを持って、迅速に動く。

そう考えるのが妥当(だとう)である。

 今までに相当な時間を費やしているのだから、すでに準備万端整っていると考える方が、事実に則し

ていると思える。

 斉が決断を迫られたのも、孫軍がその意図を持って近付いていたから、と考えればしっくりくるし。斉

の裏切りという波に乗じ、電撃的に侵攻して来ると考える方が自然である。

 となれば、斉軍と合流した後の再編や兵糧の補充などを考えても、数日程度の時間しか得られない。斉

も姜尚暗殺を決断したとなれば、それなりの準備は整えているだろうし、孫軍が長く時間を与えるとも考

えられないからだ。

 事態は切迫している。趙深の指示を待つ時間すら無く、楚は楚で早急に準備を進め、行動を起す必要が

あった。

 孫は斉に遠慮する必要が無く、また斉に余計な兵力を残しておけば、孫にとっての不穏分子が何を考え

るか解らない為、斉の全兵力を根こそぎ連れてくるだろう。孫から見れば、斉兵などは消耗品でしかない。

死のうが生きようがどうでも良い物なのだ。

 ならば士気は低かろうと思えば、それがそうでもない。斉兵もその心中はどうあれ、背後に孫軍の目が

光っている以上、懸命に戦わざるを得ないからだ。東将が周到な男であれば、斉国そのものを人質にする

事も想像できる。内応させる事は期待出来ない。斉と孫の不和を突く事くらいは出来るかもしれないが、

そちらも大きな成果は望めまい。

 楚も全軍をもって、この攻勢を防がなければならない。

 楚王は急ぎ行軍の準備を始めた。王自ら軍を率い、姜尚も副将として付く。孫が出てくるとなれば、こ

れは楚の存亡を賭けた戦いとなろう。何ものも惜しんでいる余裕はないのだ。王自ら戦地へ趣き、将兵と

共に死を覚悟する。そうしてこそ、初めて楚が奮い立ち、孫に対抗するだけの力を得る事が出来る。

 楚王、姜尚共に内心は恐れているに違いないのだが、それをおくびにも出さず、むしろ余裕さえ見せて

いた。しかし趙起などから見れば、それがかえって事態の深刻さを表しているように思え、胃の底が締め

付けられるような想いがした。

 そうでもしなければ意気が挫けてしまうのだろう。自分で奮い立てていなければ、恐怖に呑まれてしま

う。それだけの恐怖が、孫軍には在った。趙起も同じ恐怖を感じているだけに、それがよく解る。

 手助けしたい所だが、趙起の手勢のみではどうしようもなく、迂闊に参軍すれば双楚の繋がりを確信さ

れる恐れもあるので、とにかく趙起は趙深の下へ戻る事にし、出来る事を全てやった後、急ぎ楚を立った

のであった。



 趙起が趙深の下に戻った時、事態はすでに抜き差しならぬ所まできていた。いや、趙の予想を越えた事

態に陥っていた。

 まず東方の孫(東孫とする)軍が斉軍を先頭に立て、まるで追い立てるように進軍している。その上、

東孫に合わせ、中央から窪丸へ本格的に攻め寄せるつもりであるらしい。

 孫文は北方の動きを敏感に感じ取っていたのである。そこに趙深という男の思惑が絡んでいる事、楓流

が名を変えて活動している事、までは解っていないだろうが。双が楓に拘っていた事も、楓双の盟約がま

だ生きている事も知っている。その双が北方制覇に乗り出したとすれば、窪丸救援に向かうだろう事は、

容易に想像出来る。

 そもそも、孫文が居ない間に東方を狙おうとする愚か者が出る事、或いは東方に放置されたままの勢力

の中から、不遜な考えを抱く者が現れるだろう事は、初めから想定していた。まさか惰弱な双が名乗りを

挙げるとは思っていなかったが、それならそれで邪魔者を消し去る良い機会である。

 全ては予想の内の事。

 孫文ともあろう者が、その程度の事を読めぬと考えられるだろうか。彼は慎重である。今までも考えら

れる事には全て手を打ってきたし、これからもそうであろう。孫が孫文一人の力を超える程に大きくなっ

ているとしても、崩壊している訳ではない。綻(ほころ)びはあっても、依然磐石(ばんじゃく)に近い

統率力を示している。

 斉の事もそうであるし、中央にも窪丸をいつでも抜けるよう準備させていた。それでも今まで沈黙を保

っていたのは、北方諸国の動向を窺(うかが)う為である。どの国が双、或いは西方に付き。どの国が孫

に付くのか。それを見極めていたのだ。

 北方諸国の意はどうやら決した。その上で先手を打つ。ようやく固まってこれからだという時に、その

芽を全て摘む。それが孫文の対北方戦略であったのである。

 実は西方への侵攻も半ば諦めていた。いや侵攻そのものではなく、これ以上力押しに進んでも、犠牲と

費用が膨れ上がるだけだと考えていたのだ。だから窪丸の時同様、現状を維持し、その上で北方を取り、

そのまま西方の後方を突いて、二方面作戦を取らせる事で、総力で劣る西方を圧倒しようと考えた。

 例え西方がそれに気付いたとしても、止める手立ては無い。中央からの孫文の猛攻に耐えるだけで、精

一杯であろう。だから北方の窮地を知っていながらどうしようもない事が、西方を更に消耗させる。

 大陸そのものを一つの戦場と捉えていたのは趙深だけではない、孫文もそうであった。しかし思考の規

模が同じでも、持っている力には歴然の差がある。同じ条件であればまだしも、ここまでの差があれば、

趙深の智謀も孫文の前には屈するしかない。

 中央から窪丸へ攻められる事。これは何よりも防がねばならぬ事であった。その為にこそ趙二人は必死

にやってきたというのに、その全ての苦労が今打ち砕かれようとしている。

 孫文がただ一つ意を決せば、それで趙の希望は費えるのだ。何と云う力の差であろう。

 最早、絶望しかない。

 しかし趙深は絶望などしていなかった。それどころか益々意気盛んとなり、趙起にもこれからが本当の

勝負であると、これからが我らの力を見せる時であると、平然と言い放っている。

 趙深もまた読んでいたのだ。孫文と戦うのであれば、常に最悪の事態になる事は、彼も初めから解って

いたのである。まともにやれば彼一個の智など孫文の前に消し飛ばされるだろう事も解っていた。

 だが勝負するのは、趙深一人ではない。一人では勝てぬでも、今の北方の力を使えば勝機はある。

 確かに最後の最後で挫かれた痛みは大きく、将兵の心にも拭いきれぬ不安がある。しかし、まだ負けた

訳ではない。今の北方であれば、五分とはいかぬでも、三分、四分に渡り合える。

 その上で西方と上手く連携すれば、勝機が見えぬではない。

 そう云う意味では、趙深の戦略はとうに完成していたのである。

 孫文も北方が自分の想像以上に力を付けている事までは読めまい。彼は北方にあった豊富な資源と資金

の力を侮(あなど)っている。ようやく孫文が油断してくれた。焦りを見せた。術中に嵌(はま)ってい

るのは孫文の方だ。

 孫文は今まで自らの考えと読みだけでなく、執拗なまでの調査によって、戦略と戦術を決めてきた。そ

れが今回に限り、自分の予測の方に大きく頼っている。そうさせる為に趙深が懸命になっていた成果でも

あるが、孫文の中に自分でも気付かぬ焦りが生まれているのも確かだ。

 西方の粘りといい、北方の気概といい、不愉快であろう。小癪(こしゃく)なと思っているのであろう。

その心にこそ、付け込む隙が生まれる。孫文は自らを過信し、他を侮るようになっているのだ。それはま

だ極僅かであるが、孫文に対して考えれば大きな事である。

 武神に生まれた僅かな緩み、それは孫の力が大きいが故に、大きな歪みとなる可能性を持つ。

 趙深は今こそ全力を持って、孫に挑む。次々と命を下すその目の中には、怯えの色は一つも無かった。

無論、趙起の目にも。

 獅子王も人の子。それを確信出来た事は、何よりも心強い事である。




BACKEXITNEXT