隙間の時間

1-10.揺らぎ

　騒乱から一夜明け、部下からの報告を受けたアーデリー警備署長レッフェル＝ダインは自らの立場に悩ん

でいた。あのガルシアとか言う女が失敗したのはいい気味だとしか思えないが。しかし始祖の奪取に失敗し

たのは痛い。何しろ他でも無いあのリグルド＝レーンフィール公爵の命令なのだ。例えレッフェルの直接的

な失敗では無いにしろ、失敗である事には変わらない。

　当然、このままでは始祖どころか自分の身すら危うい。

「こうなれば、私も腹を括るしかない」

　あの女が始祖の奪取に成功すれば、それを横から奪い取ってしまおうとも考えていたのだが、今となって

はそれも水泡に帰した。そしてどれほど謝罪しようとあの公爵は自分を許すまい。おそらく失敗したのは日

頃の警備官への訓練不足とでも言われ、即刻解雇。次の朝には骸を晒している事だろう。

　それを防ぐには、

「徹底抗戦あるのみだ」

　レッフェルは突然机を殴りつけた。派手な音が無遠慮に室内に広がる。

　今更ながら部下達の不甲斐なさに怒りが込み上げてきたのだ。

「まったく、給料と休みばかり取りおって！」

　しかも博士がヴァンパイアなどと訳の解らない事を喚き散らし、とにかく手がつけられない。一体どれほ

どの目にあったのか。

　ともかく最早部下達は頼りにならないときている。かと言って、これ以上は街の治安維持に差し障る為に、

始祖奪取に人員を割く事も出来ないだろう。

「こうなれば私自ら出向くしかない。しかも早急にだ」

　権力そのもののあの公爵に立ち向かうには純然とした武力しかない。それにはヴァンパイアの力、ひいて

は始祖の協力が必要だ。

　そして急がねばならない。貴人と言う人種は割合のんびりしているが、他人を引き摺り倒す事にはやけに

俊敏で鋭敏になる。おそらく今日中には何事かのリアクションがあるはず。それをのらりくらりと引き伸ば

すとしても三日と持つまい。貴人は無意味に気が短いのだから。

「こうなれば手段に拘っておれん。早急に、早急にせねば」

　レッフェルは暫く室内を足早に回っていたが、突然意を決したように電話の受話器を取り、何処かへと何

事かを話し。それから少しは使えるだろう腹心の部下を呼び、幾つかの事を命じた。

　その後、レッフェルは足早に部屋を出た。

　

　リオン少年がカーテン越しの弱い光で目覚めた時。何故だか言い様も無く新鮮な心持をしていた。自分の

何かに気付いたような、或いは取り戻せたような、そんな不可思議な感触が心で疼いている。そしてそれが

何故かとても心地いい。

「ん？？」

　片腕に何かふうわりとした柔らかいモノを感じた。

　疑問に思ってそちらを見やると、何故か自分に抱き付くように女の人が寝ている。とても良い香りがした。

何かの花の匂いのようだとリオンは思った。それが香水と言うものの香りなのか、それとも女自身の匂いな

のかは、彼にはとても区別は出来なかったが。

「うーん」

　暫くどうしようか考えていたが、あまりにもその人が気持ちよさそうに眠っているので、少年もこれ以上

身動きして起こしてしまうのは可哀想だと思い。そのままもう一度ベットに横になる事にした。

　横になると一段と良い匂いが香ってくる。

「・・・・・」

　少年はその匂いに包まれ、心地良い眠りを感じながら。自分の何処かに先ほどとは別の何かが、強く疼い

ているのを感じていた。それは飢えにも似たものだったのだが、しかしリオンにはそれが何かは解らなかっ

た。解らないまま、今日はただその女に抱きついて眠った。

　女は一度艶かしい吐息を洩らしたようだったが、未だ目覚める様子は無かった。

　首筋に甘く赤い痕が未だはっきりと見える。　

　その頃、昨夜の喧騒も何処吹く風、ゆったりとティータイムを楽しむ博士の元に、リヒムッドと呼んでい

る男が現れた。この大柄な男はいつも予告無く現れ、何処へとも無く去って行く。実を言えば博士もこの男

についての詳細は一切知らない。

　リヒムッドと言う男はとにかく用心深く、しかし律儀だった。博士は安心はしていないが、その律儀さは

信用している。だからリオン少年を預かったのだ。まあ、少年があれほど美しくなければ話はまた違ってい

ただろうが。

　だが今日来る事は半ば予想がついていた事もあり、博士はさほどには驚かなかったようだ。リヒムッドは

何かあった次の日、必ず律儀に報告に現れる。その情報は常に正確で、驚く程通じている。

　その情報をどこから得ているか、それはとても興味深いものだったのだが。博士はそれを訊かない。

「来たな、リヒムッド君」

　博士はティータイム時だけは機嫌が良い。今日は愛想良くリヒムッドに椅子を勧めた。

　リヒムッドは無造作にその椅子に座り、当然のように差し出された紅茶に口を付けた。お茶を楽しむ習慣

がアーデリーには昔からある。他地域ではあまりそう言う習慣は無く、お茶は風流人の嗜みと言われるそうだ。

「相変わらず博士の淹れたお茶は美味しいですね」

「私もアーデリー暮らしが長くなってしまったからな。沸騰前に差し水をするのがコツのようだ」

　二人は取り留めなく暫し談笑を繰り返した。

　そして一段落着いた所で、博士の方から単刀直入に。

「それで状況はどうなのかね」

　と切り出した。

　リヒムッドもあまり情報を出し惜しみする方では無かった。ただ、博士の直情さに少し苦笑を浮かべる。

「相変わらず何事も突然な方だ」

　そしてにこやかな笑顔に戻り。

「どうやら後ろ盾はあのリグルド公爵のようです。そしてその公爵に入れ知恵をした者がいるようで。昨夜

不審な男を見かけましたが、或いはその男かも知れません」

「不審な男か・・・、最近は不審の大安売りだな」

「ええ、どうにも生き辛くなっているようで。それでその不審な男ですが、この男も独自の考えで動いてい

るようでして。調べた所、公爵の部下と言う訳でも無いようです。他にも色々な方面から調べてみましたが、

どうにも素性が掴めない所を見ると、もしかすれば他国人か流れ者の傭兵の線かも知れません。妙な格好の

男でしたから暫く泳がせば何か解るかと思いますが」

　そして話しつかれたようにリヒムッドはゆっくりとティーカップを口元へと運んだ。

　暫しの時間が流れる。

「リヒムッド君」

　再度博士が口火を切る。

「その男は君に任せよう。それよりも、あの女の方は何か解ったかね」

　博士はリオン少年の寝室の方へと視線を向けた。その目には微かな嫉妬と羨望の色が見受けられる。

「ああ、あちらは簡単でしたよ。ガルシアと言う傭兵で、その道では知られた存在のようです。この女は公

爵に雇われただけでしょう」

　リヒムッドも寝室の方へと視線を向ける。こちらは少し心配そうな顔をしていた。

「ならば心配はいらんな。従者としては都合が良い。ただ、そう言うことならば何も知らされてはおらんの

だろうな。しかし・・・」

　博士は珍しく口篭もった。

「しかし？」

　リヒムッドが水を向ける。

「少し悔しくもある。あの女なら寵を受ける日も遠くあるまい。何しろリオン君もそろそろ年頃だ・・。ヴ

ァンパイアは始祖の愛奴と化すが、その代わりに途方も無く美しい者の寵愛を受ける資格を得る。私が受け

られない寵をだよ、リヒムッド君」

「・・・・そうですね。まあ、私は博士に囲われるよりは良いかと考えますが」

「フン、言ってくれる」

　二人は共に苦笑した。

　そして尚しばらく話した後、いつものようにリヒムッドは医院を辞し、何処なりとも消えて行く。

　博士はふとリヒムッドだけで無く、リオン少年の事も何も知らない事に気付いたが。その事にはさほど興

味が湧かなかったらしく、空になったティーカップを満たしてやる為に、再び湯を沸かし始めたのだった。

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