博士の憂鬱

1-11.公爵の憂鬱

　警備署長レッフェルが自らの進退について苦慮を重ねていた頃、その念頭の主であるリグルド＝レーンフ

ィール公爵はしかし、レッフェルどころか始祖にすら構っているゆとりが無くなっていた。

　と言うのも、現女王リリル＝レーン＝シルビリアがリグルドの予想を越えて意外な策士ぶりを発揮し始め

たからである。前国王存命時には如何にも色気で篭絡するしか能の無い女に思えたのだが、それも他者を油

断せしめ、権力を一手に握らんが為の伏線であったようだ。

　リグルドの最高権力者故の油断であったろう。

「雌狐めが！」

　リリル女王は元々貴族ではない。それどころか所謂高級娼館の主であったとも言われる。国民には知られ

ていないが（庶民には高級娼婦等に縁が無い為、そんな者が存在する事も表立っては知られていない事にな

っている）、貴族は皆それを知っている。そんな女が女王などとおこがましい。公爵のリグルドからすれば

下賎も下賎、正に雌の狐であった。

　しかしそれだけに世の機微、そして人心の扱いにも長けている事を思い知らされる事となった。

　唯一の武器でもあるその美貌と数少ない王としての権限を生かし、次々と主だった重臣を閨で、或いは金

銭官位で釣り上げ、続々と勢力を増しているらしい。彼女が女王となったのは２０半ば、それから十年近い

月日が流れているが、まだ３０前半であり。正に女盛り、その姿は怪しいまでに美しい。

　しかもどうやら前王在世当時から少しずつ動き始めていたようだ。迂闊であった。下賎の者に何が出来る

ものかとまったくのノーマークであったおかげで、この政治と権謀に長けた男が見事に裏をかかれてしまっ

たのである。公爵が愚かだったと言うよりは、むしろ女王の狐ぶりがそれだけ見事だったと言えるのだろう。

　最早今となっては考えを全て改めるしか無い。実質の権力では王を凌ぐとまで言われているリグルドだが、

あくまでも公爵、一臣下に過ぎない。王も有力者の意見を無視出来ないとは言え、それでも王は王。しかも

俄かに力を持ち始めている。

　勢力図としてはまだまだリグルド６、女王３、その他１と言った図式であるが、油断は出来ないだろう。

　事実、公爵は暫くの間政略に忙殺される事になる。だが後手後手に回されたとは言え、まだ公爵が有利で

ある事には変わりは無い。

「ラウド！ラウドはおらぬか！」

　リグルドは呼び鈴を鳴らす暇も惜しみ、大声で怒鳴り叫んだ。

　暫くして階下をひたすらに駆ける音がし、ゆとりの無いノックが響く。

「だ、旦那様・・・・な、何事でありましょうか・・・」

　ドア越しの言葉の狭間に息切れの音が激しく混じる。

　リグルドはふとあのくしゃくしゃの皺面を思い、少しだけ哀れに感じた。そして声音を幾分か和らげ、静

かに入室を許可する旨を伝えた。

　すると息切れも今だ衰えない執事長ラウド＝ベッグナーが、皺まみれの顔を更に苦痛に歪ませながら現れ

た。この老人は何をそれほど恐れているのかと思えるくらいに忠実な老人である。名を呼ばれ、一にも二に

も駆け続けて来たのだろう。この調子ではいずれ廊下で発作でも起こすのでは無いか。

　それがまたリグルドの目に哀れんで映った。そして公爵は珍しく少しだけ微笑む。この老人との付き合い

は長い。

「ジークナルドに手を貸すように伝えろ。成功すれば恩賞は望みのままだとな」

「はッ、はひッ、解りましてございます」

　この哀れな老人はそれだけを何とか言うと、慌てて部屋を駆け去って行った。

　あの老人が後どれほど駆けるのか、いやそもそもあれ以上に駆ける事が出来るのか。長年忠実に仕えて来

たラウドの事を、リグルドは柄にも無く少しだけ心配してやった。

　それだけラウドの皺顔は人に哀れをそそるのだろう。

「始祖の事は暫く放っておくしかあるまい」

　そしてリグルドはその事を思い出し、苦々しげに呟く。

　失敗の報告はすでに公爵の元に届いていた。だがこの公爵はすでにレッフェルと言う人物の事など忘れて

いる。と言うよりも初めから記憶していなかったのであろう。ただガルシアの名は覚えている。何しろ自分

が自らこの傭兵に始祖奪還を命じたのだから。

　それ故、ガルシアへの処分は公爵の威厳にかけていずれ行わなければなるまい。だが何度も言うが、レッ

フェルと言う存在は公爵の中にはまったく記憶されていない。

　勿論、当のレッフェルはこの事を知らない。知らずもがき始めた。本当に哀れで良い面の皮だったのはレ

ッフェルの方なのだろう。哀しい程公爵の意識の中に、彼の姿は欠片も存在していなかったのである。

　アーデリー郊外医院では、他の喧騒を他所に穏やかな昼下がりを迎えていた。

　小さ目の一人用に設えられたテーブルの傍に座る博士の前に、今は一人の女がいる。残念ながら博士の愛

人では無い、その女はガルシアと呼ばれている女だった。

　女は艶やかな髪を気だるげに揺らし、しかし視線だけは一点を食い入るように見詰めている。その方角に

はリオン少年がいるはずだ。

　博士はしかし、自分を歯牙にもかけない女を怒るでも無く、ティーカップを一つ差し出した。

　博士はヴァンパイアの意識を知っている。その哀れさも、哀れゆえに純粋で強い事も。

「飲んでおけ、ヴァンパイアとは言え水も食糧も必要だ。後で少年の分と一緒に食事も作ってやろう」

　ガルシアはそう言われて、始めて博士の方を見た。

「あら、ありがとう。それではご好意に甘えるわ。・・・それで、何かしら」

「何、とは？」

　博士は小首を優雅に傾げる。

「用があるなら早く済ませて欲しい。私をあの方から離させないで」

　ガルシアは昨夜会った時の面影のまったく無い、哀願するような表情を浮かべた。

　博士はそれを見て心中疼くモノを感じたが、それはそれとして一つ何事かを頷いた。

「用と言う程の物ではない。どうせ大した情報も持っておらんだろうしな。・・・・ただこれだけは言って

おく、どんなに飢えてもお前からはあの少年に手を出すな」

　それを聞くとガルシアの表情は一変した。目にギラギラと殺意にも似たものが映る。

「私に耐えろと言うの！私を満たしてくれるのは、もうあの方以外にいないと言うのに」

「ああ、そうだ。あの少年が自ら求めるのを待つのだ。そしてそれも遠い日ではあるまい」

「でも！」

「・・・・逆らえば・・」

　博士の口元が歪められ、ゆっくりと美しい一対の牙が現れる。目に凄愴なモノが宿り、自然に人から離れ

ていくようにガルシアには思えた。まるで暗闇の中で光に睨まれたように目が逸らせない。肉食獣のような

その目は、喰われる、とまで女に意識させた。

　それは昨夜会った博士とはかけ離れたモノであり、また力の差を感じさせるには充分なモノであった。ウ

イルスさえ凍り付く程に身体が震え始めている事にも、ガルシアは気付く余裕も無い。

　もしこの場にリヒムッドが居れば、この必要外としか思えない恫喝に、稀有とも言える博士の嫉妬の色を

或いは嗅いだかも知れない。

「勘違いするな。お前は単に私の居る場所に近付いただけだ。小娘が対等などとは片腹痛い」

　それから博士はゆっくりと口を閉じ。

「今日からは私の代わりにあの子の傍を離れるな」

　それだけを女に命じた。

　ガルシアは未だ震えが冷めず、あなたは、とだけやっと問い返した。

「不穏なモノは早急に潰して置くに限る。・・・見せしめにな」

　博士の口元に再び小さな光が宿るのを見ながら、ガルシアは声も出せずに見送った。

　博士の言う不穏なモノが何なのか、彼女には知るべくも無い。

　ただガルシアは飢えたように急いで少年の傍に戻り、物欲しそうな顔でソレを見詰めた。もう博士の事は

忘れている。いや、少年以外のモノは全て意識の外だと言った方が正確かも知れない。　

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