監視

1-9.傅く者、滅ぼす者

　博士が二階に上がった時には、予測通り全ては終った後だったようで、室内は呆れる程に静かだった。折

角の静かな霧の夜は台無しになってしまったが、平穏は戻ったと言えるだろう。

　博士は窓から差し込む霧を取り込むように一つ深い息を吐き、静かに一番奥の扉まで進み、それから静か

に扉を開けた。

「誰？」

　柔らかい女の声がする。ベットにはリオン少年の寝顔があり、その傍に一人の女が侍っていた。どうしよ

うもなく牡としての何かをくすぐる、そんな女以外の何者でも無い女だ。博士は今始めて見る。

「お前が今回の元凶か？」

　しかしその言葉を女は気だるそうに否定した。

「私は単なる雇われ者。料金を受け取って、その分働くだけの女よ」

　そしていとおしそうにリオンの髪を撫でる。

「だからどちらにしても、貴方とやりあうつもりは無いわ。まあ、今の私なら五分五分に渡り合えるかも知

れないけれど」

　女はくすりと笑う。

「フン、おしゃべりな女だ。だがそれを補って余りある・・・」

　博士はふと淫蕩な視線を撫でるように女の身体へと向けた。この女なら博士の美意識を充分に満足させて

くれるだろう。あの質の悪い警備官共の後に見れば尚更だ。

　しかし女は博士のそんな視線を気にするでも無く。

「悪いけれど、朽ちた老人は趣味じゃないわね」

　そう言って、リオン少年の寝返りで下がった布団を優しく引き上げた。

「私が年寄りに見えるかね」

　博士は笑った。何しろ博士の身体は若々しく、美に満ち溢れている。どこからどうみても、２０代半ばと

言った所だろう。とても老人には見えない。

　しかし女はそれを見ながら平然と、当たり前のような口調で。

「貴方がどう取り繕おうと隠そうと、貴方の動作の全てがすでに朽ちている。私が好きなのは若木の熱情。

溢れるばかりの生命の証、そして若さの証。残念だけど、貴方にはもうその熱が無いわね」

　それだけを言い。後は存在すら認識していないような所作で、少年の頬を撫で始めた。少年は気持ちよさ

そうに安らかな寝息を立てている。最早女の眼にはこの少年しか映っていないようだ。

「ふむ。まあ初めから少年に手を出さない事が条件だったからな」

　ヴァンパイアと化した以上、この女はすでにこの少年の所有物。いくら魅力的だとは言え、手を出す訳に

はいかない。博士は誰のやり方にも律儀な男だ。

　そして室内を出る頃には、すでに博士は女の事など忘れていた。そして自分のベットへと入り、久方ぶり

に一人きりの睡眠を楽しんだのだった。

　

　静けさを取り戻したアーデリー郊外医院の外、深く暗闇が舞い降りた所にて、油断無く室内を眺める男が

居た。筋肉を張り詰めたような大男で、両肩から一本ずつ下ろしたロングナイフが鞘越しにもどす黒い輝き

を放っている。リグルド＝レーンフィールに始祖の情報をもたらした男、ゲルド＝バイフォンである。

「思ったよりも難物のようだ・・」

　ゲルドは夜空に吐息を洩らしながら、ふとそう呟いた。

　彼の計算ならばすでにあの女に連れ出された始祖をこの手にかけているはずだった。しかし実際には手に

かけるどころか、始祖の顔すら見ていない。

　どうやらあの博士と言う男、自分の計算を超える相手だったらしい。或いはリグルド公爵の力量を見誤っ

てしまったのか。何にしても口惜しい事だ。

「・・・・・・」

　彼は自分の失敗を悟っている。しかし間近にいるはずの獲物を捨てておける程さっぱりした性格でも無い。

ゲルドは潮時だと理解しながらも、それでも如何にか出来ないものかとしつこく思案している所だった。執

念こそがゲルドを動かしている動力でありエネルギーなのだ。

　するとふと闇に気配が一つ増えた。

「今回は諦めた方がいい」

　気配が気軽な調子で話し掛けてくる。

「・・・・何者」

「さあ。それにそんな事はこの際どうでも良いでしょう」　

　ゲルドは気配を捉えようと眼と耳を凝らしたが、どうにも捉え切れない。気配が幻覚なのか、はたまた幻

聴でも聴こえているのか。しかし迷いの無い声が確かに聴こえてくる。

「これは警告なのですがね」

　次に感じたのは殺気。殺気を感じると不思議と現実感が湧いてきて、ゲルドは両肩にぶら下がるロングナ

イフに手を伸ばそうとした。

「下手に動かない方が賢明です。こちらは貴方が見えている。しかし貴方は私を捉えられない。これはちょ

っとしたピンチと言う奴では？」

　ゲルドは仕方なく諦め、両手から力を抜いた。気配の口調は軽いが、しかし殺気の方は止め処なく増して

いる。特に首筋の辺りにねっとりと嫌なモノを感じた。流石のゲルドも決断せざるをえない。

「・・・・・・今回は引く」

　ゲルドは忌々しくそう吐き出し、静かに消えて行った。決断すれば行動は早い男らしい。

「・・・・・・・・行ったか」

　暫くの静寂の後、背の高い黒髪の男が現れた。長い髪は肩を過ぎ、肩甲骨の辺りまで届いている。つい先

ほど博士から軽い恨みを買った男であり、博士からリヒムッドと呼ばれていた男である。

「・・・・これからはあの手の輩が増える事だろう。私と博士の手に負えなくなる前に策を考えなければ」

　リヒムッドはそれから暫く医院の方を眺めていたが、やがて現れた時と同じように何処ともなくいつの間

にか消えてしまっていた。

　アーデリーの夜は静かに深けていく。

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