表情無き医院

1-2.来訪者

　「アーデリー郊外医院」にある時、一人の大柄な男が現れた。

　背がぬっと高く、体格の良い男で。長い黒髪が肩筋を過ぎて、肩甲骨の辺りまで下がっている。動作は常

にきっちりとしており、その一つ一つに油断無さが見て取れた。無意識、意識問わず。常に辺りを警戒して

いるような、そんな用心深さもその動作に、ごく自然に現れている。

　そしてこの辺りは常に薄暗いにも関わらず、サングラスをしっかりとかけていた。歳の頃は３０過ぎと言

った所だろうか。

　足音は少ない。

　男は入り口を抜けると、勝手を知っているのか迷い無く医院内を進んだ。誰も居ないカウンターの奥へ入

り、そのまま階段を登る。不思議な事に、医院ながら消毒液の臭いもしなかった。

　階段を離れ、油断無く一つのドアを開ける。

「また君か。まったく、いつもご苦労な事だ」

　室内には申し訳程度に白衣を纏った、途方も無く美しい男が居た。年齢は解らない。声を聴かなければ性

別も解らないかも知れない。声は低く、少し濁りがあった。

「博士、失礼します」

　大柄な男は丁寧に一礼をしてから、室内へとするりと入る。

「ここの医院も相変わらず、営業しているのだがどうだか解りませんな」

「フン、ヴァンパイア相手の商売に普通の医療を思い浮べてもらっては困る。まあかけたまえ、リヒムッド君」

　博士と呼ばれた白衣の男は一つの椅子を指差した。

「それでは」

　リヒムッドと呼ばれた大柄な男も、素直にその椅子に合わせてきっちりと腰掛けた。

「君は相変わらず窮屈な座り方をする」

「これが私のやり方でして」

「ふむ、やり方か」

　博士は２，３度頷いた。艶やかな白銀色の髪が、その度にふわりゆらりと揺れる。

「それよりも博士。彼の調子はどうでしょうか」

「ああ、君より預かって以来、風邪一つひいていない。始祖らしく健やかに美しく育っている」

　博士の目に薄っすらと淫らな光が浮かぶ。

「いけませんよ、博士。そういう約束だったはずです」

　リヒムッドの顔に初めて困惑の色が差した。

「解っている。彼には一切手を付けておらんし、そうするつもりも無い。ただ、観賞するぐらいは許してく

れても良かろう」

　博士の目から光が消え、興醒めしたように眉根を寄せた。少し不快がっても見えるが、そんな仕草も彼の

美しさを引き立てるだけに終る。

「観賞している分にはね・・。ただ、博士はそちらの道には長けておられますし」

「フフ、快楽を満たせてやれば満足するものだ。人はそう出来ている。全ての本質は醜く欲望で彩られた、

穢れ多き、忌むべきモノなのだよ。それにこれが私のやり方なのだ」

「なるほど、やり方ですか」

　二人はふと可笑しそうに笑った。　　

　その笑顔はしかし、酷く淫蕩なモノにも見えた。

　二人から扉一つ離れた所。医院の隅にある一室に、一人の少年が居る。

「今日は誰が来ているのかな」

　少年の耳に室外の向こうから笑い声が聴こえて来る。また博士の戯れ人の誰かかなと、彼は思った。

　でも、聴こえてきた声は不思議と懐かしいような気がしてもいる。もしかしたら、自分の知っている人な

のだろうか。とても気になる。

「誰だろう・・・」

　少年の胸は少しだけ高鳴っていた。

　何しろ、博士以外の人とはほとんど会った事が無いのだ。それはこの医院に来る前から。その為か、この

少年は一度でも会った人にはとても大きな、言ってみれば親近感にも似たものを覚えようになっていた。

「うーん、少しだけでも覗けないかな・・・・」

　少年はその清らかになびく長い黒髪を翻しながら、ゆっくりとドアに近付いた。見たいと言う欲求が全身

を支配しつつある。鼓動はもう太鼓のように重く脈打っていた。

　彼には勝手にこのドアから出る事を許されてはいないのだった。それが何故かは解らないけれど、少年に

はそうする事が大事な事だと良く解ってもいる。彼には不思議と人の心の大事な所が良く伝わる。だから今も・・・。

「駄目だ・・・見えないね」

　ただ諦めて、少年はがっくりと溜息をついた。

　彼にとって室外の全てである、鍵穴から覗く景色には。残念ながらその客人の姿は入っていなかった。

　少年は酷くがっかりした様子で、ふらふらとベッドへと戻った。側にある窓も、影も映らない重いカーテ

ンでびっしり覆われていて、そこに何の景観も映し出さ無い。

　この一室とその鍵穴だけが、それだけが彼の世界の全て。

「残念・・残念・・・」

　少年は枕もとにあったひどく紅い液体を飲み干すと、静かに眼を閉じた。

　程無くして、規則正しい寝息が聴こえて来た。

　腕時計を確認した後、リヒムッドは静かに立ち上がった。

「おや、もう帰るのかね」

「はい、彼の無事が解ればそれで」

　そしてそのまま去ろうとするリヒムッドを、今日は珍しく博士が呼び止めた。

「リヒムッド君」

「はい、何でしょう」

「やはり、今日も会ってはいかないのかね」

「・・・・・・・」

　リヒムッドはすでに戸口を向いているので、博士からはその表情を窺う事は出来ない。

「ふむ、そうか。呼び止めてすまなかったな」

「いえ」

　リヒムッドは一つ頭を振ると、やはりきっちりとした足取りでその部屋を出て行った。そのまま何処へ向か

うのかは解らない。ただ博士の知る限り、彼の足取りにはいつも迷いは無かった。常に道を指し示す何かが彼

にはあるのかも知れない。

　何にしても、それは博士にはどうでも良い事だ。

　博士はしばらく何事かをぼんやりと考えてから、隣室への扉を開いた。室内からは規則正しい寝息が聞こえ

て来る。

「ふむ」

　博士はまた何事かを一人で頷き、また静かにその扉を閉めた。

　そしてリヒムッドの後を追うように、足音を殺しながら階段を降りて行った。珍しく真面目に仕事をする気

になったのかも知れない。

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