幸運は転がる石の如く

1-6.躊躇する待望

　アーデリー警備署長レッフェル＝ダインの元へ予想だにしなかった幸運が舞い降りて来たのは、急激に冷

え込んだある夜の事であった。

　当初レッフェルは先日の死天捕り逃しの一件で、上層部よりおきまりの皮肉な訓戒を延々と聴かされた為

に多少苛立っていたのだったが。この吉報によりその表情はころりと一変してしまった。ただ、ギョロギョ

ロと落ち着き無く覗く眼が下卑た笑みを宿している様は、見ていて決して気持の良いものではない。伝令人

は眉を顰めて早々に立ち去った。

「他はともかく。これを失敗すれば、流石に貴方の地位は保証しかねますよ」

　と言い残して。

　だがそれでもレッフェルは喜悦に満ちた表情を浮かべている。

　彼にしてみればどんな条件が出されようと、そんな事はまったく問題では無かった。何しろ命じられた内

容が待望の始祖ヴァンパイアの捕獲であったからだ。しかもそれを例え隠密裏にでも命じて来た依頼主は、

あのリグルド＝レーンフィール公爵なのだ。この都市、いやこの国家でこれ以上の後ろ盾は無く、おそらく

多少の無理も公爵が押し通してくれるだろう。

　レッフェルは最早単独ででも始祖の捕獲をと目論んでいただけに、あちらからその機会が飛び込んで来た

事がもう嬉しくて嬉しくてどうしようも無かった。

　しかしただ単純に喜べていたのはそこまでであった。

　突如室内にノックの音が響く。

　レッフェルはドアを不快げに睨んだ。

「誰だ。しばらく誰も来させるなと伝えたはずだが」

　レッフェルはこの幸運を噛み締めると言う至福の時を邪魔されて、その嬉しさだけに大いに腹が立った。

みるみる表情に険しさが浮かぶ。

「それは貴方に私を指図する権限が無いからよ」

　しかしそのノックの主は室主であるレッフェルを無視し、平然とドアを開けて現れた。

　歳の頃は２０代半ばだろうか。美しい紫がかった髪をショートに首筋辺りまでで切り揃え、身体のライン

がどうしようもなく際立つ服装をしていた。よほど自分の容姿に自信があるのか、そんな事を超越している

のか。その態度もあくまで堂々としていて、怯みとか言った控えめな感情とはまったく無縁に見える。

　そして口に惹いた蕩ける程紅いルージュが良く似合う。そんな例えて言うならば、女と言うモノが剥き出

しの人間だった。女以外の何者でも無く、女以外にはなれないモノだ。

　レッフェルは取り込まれたように何言うでも無く、ただただその女を眺めていた。

「貴方が署長ね」

　女はそんなレッフェルを面倒くさそうに見る。

「う、うむ。私がこのアーデリー警備署長、レッフェル＝ダインだ」

　レッフェルは未だ何事かが抜けきらず、ようやく感情の無い儀礼的な言葉だけを口から押し出した。

「なら解っているわね。私に警備官を渡して指揮権を委任する事。聴いているでしょ？さっさとしてくれな

いかしら」

「なにッ！？」

　レッフェルもこの無遠慮な女に流石に声を荒げて立ち上がった。座していた椅子がその地味な風体の割に

意外と派手な音を立てて倒れた。

「うるさいわね。聴いてないの？ああ、その貴方が持ってる紙。それよ、それを御覧なさい」

　女は呆れたらしく、子供に諭すかのような変に甘い口調でそう言った。

　レッフェルは慌てて先程来た幸運のはずの命令書に眼を通す。

「・・・！！？」

　その途端、彼は絶句した。命令書の後文には女の言う通り、確かに後に寄越す者に全てを任せるようにと

記されてある。これではこの命令書を利用して始祖を横取りしてしまおうと言う目論見が、泡と消えてしま

うではないか。

「解ったようね？なら決行は明日の日の入りと共に。準備はそちらに任せるわ」

　女は気だるそうにそれだけを言うと、来た時と同じようにさっさと戸外へと消えて行ってしまった。

「・・・・・・・・」

　後には苦々しげに唇を噛むレッフェルだけが残った。

　ただその眼は平素貴族達に見せている卑屈な眼では無かった。何事かを企むように、ただ暗い輝きを鬱蒼

と放っている。

　女はただ無表情に歩いていた。

　彼女が歩く度に物欲しそうな眼をした男共の下卑た視線が突き刺さる。しかしそんな事にはとうに慣れて

いるのか、或いはそれを当然の事だとでも思って問題にもしないのか、彼女はまるで意に介した様子が無い。

おそらく初めから彼女の意識の中に、その手の並の男など存在させてすらもらえないのだろう。

　それに比べれば、路傍の石の方がまだ視界に入るだけマシと言うものだ。

「まったく面倒な仕事を押し付けられたものだわ」

　言葉を紡ぐ度に魅惑的な紅いルージュが踊るように律動する。それもまた男共を刺激するのだろう。一人

の手馴れた感じの男が堪り兼ねた様子で女に近付いて来た。

「ねーさん、どこまで行くんだい。よろしければ・・・」

　お供しましょうか、とまでも言えず、女は当たり前のように男の横を通り抜けていった。

　それを周りで見ていた野次馬達はクスクスと笑い声を上げる。怠惰な夜の街に、その光景は面白い出し物

ではあったに違い無い。

「でも始祖ヴァンパイアってのは途方も無いくらいに美しいって話じゃない。そこは少し興味があるのよね・・・」

　女は相変わらず何事かを呟きながらも歩調を崩さない。

　そこには彼女の世界があり、それは通常我々が感じている世界とは違うモノらしい。彼女の世界の中では

彼女の望むものだけが見え、彼女にとって必要なモノだけが認識される。それ以外のモノは全て空気以下の

存在になってしまうようだ。

「・・・この！！」

　無視された男は歯噛みをし、見る見るうちにその顔を赤へと変えた。怒りと羞恥は人間に面白い化学反応

を起こすらしい。真っ赤になったその男を見て、野次馬達は更に笑った。

「待て、そこの女！！」

　男は鼻息も荒く、女へと突進した。全力で疾走し、そのまま押し倒してやろうとでも思ったのだろう。そ

れはまるで、ただただ駆ける事のみに意義を見出すかのようで、女に近付いてもまったくその速度は衰えな

かった。むしろ近付くほどに怒りも増大し、それから来る高揚感が更に彼の速度を上げた。

「うおおおおおッ！！！」

　そして今にも男が女に跳びかかろうとした瞬間。

「煩い！！」

　スラリと伸びた美しい女の足が男の身体にあっさりとめり込んでいた。そして男は陥没した胸部辺りを呆

然と眺めながら、吐血してその場に崩れ落ちる。

　無遠慮な野次馬達は訳も解らず悲鳴を上げた。

「この街も騒がしくなって来たわね。なんで街って大きくなればなるほど子供じみてくるのかしらね、不思議だわ」

　そんな事を呟きながら、そもそもの騒ぎの元凶は何事も無かったかのように夜闇に消えて行くのであった。

また不思議な程不穏な夜闇が似合う女だった。　

　そうしてアーデリーの一夜は静かに深け、それ以上に静かに明けて行く。　　

　警備官が到着し、胸部が陥没した男がようやく病院に送られたのは、すでにすっかり夜が明けた後の事だった。

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