霧の深ける夜

1-7.アーデリーの憂鬱

　舞台は再びアーデリー郊外医院に戻る。

　この日博士は珍しく朝から医務に励んでいた。来訪する患者も多く、薬を処方したり診察したりと医者ら

しい一日を面倒そうに過ごした。

　流石の博士も慣れない労働に疲れ、呆れた事に褥の相手も無しに一人自室へと上がり、静かに寝酒を始め

たのだった。ただ、博士はこの酒と言う物だけは一人で飲むのが好きだったのだが。

　日はすでに暮れ、リオン少年もおそらく眠りについた頃だろう。この少年と博士は日の出と共に起き、日

の入りと共に寝所に入ると言う古典的な生活を営んでいる。まあ博士の場合は、寝所に入ってすぐさま眠る

と言う訳にもいかなかったが。博士には毎晩誰かしらを愛でる儀式をする必要があったのだから。それが美

しく生まれた者の務めだと彼は言う。

　窓の外では霧が満ち始め、全てを濃く包んでいく姿が見受けられた。

　こんな霧の夜は妖魔が出ると昔から言い伝えられている。それを信じている訳でも無いだろうが。こんな

夜には人通りも途絶え、街は不思議な程静まり返る。霧の妖魔の足音でもひたひたと響いて来そうな程に。

「不穏な夜よ・・・」

　博士は一人呟いた。

　肌寒い為に先程から熱い紅茶にブランデーを淹れて飲んでいる。湯気がもわもわと立ち上り、博士の顔を

慎ましく隠した。風の音も聴こえない。霧のアーデリーは呆れる程に静かだ。

　ヴァンパイアも実在するこのご時世、妖魔の一種ニ種が増えた所で誰も驚くまい。元々霧の妖魔とは、何

かが起こりそうな夜に対して、比喩的にそう言い伝えたものだろう。昔の人は不必要な程に信心深く、その

分妄想も少なからず抱いたようだ。だがその全てが戯言だとも言い切れない。

　目に見えない者が存在出来ないと、何故断言出来るのだろうか。それは人間の欺瞞に過ぎない。

　それに博士は人間の持つモノは何一つ信用していなかった。

　例えば、目で見ると言ってはみても、所詮それは脳が都合良く編集した映像を擬似的に見せられているに

すぎない。本来眼に映るモノは、もしかすれば何一つ人間には正しく認識する事が出来ないのではないか。

　この鏡に映る自分の顔、窓の外に映る景色、その全てこそがまやかしかも知れない。自分が一片の羽虫で

は無いとさえ言い切れる確かなモノは、残念ながら何処にも存在しないと思える。ただ人が人であり、自分

が自分であると思い続ければ、その願望を実像であるかのように自らの脳が映してくれる事だろう。

「む、私とした事が・・・」

　そんな取りとめも無い事を考えた後、博士はようやく今宵の相手がいない事に気が付いてしまった。慣れ

ない疲れと言うモノも、気安く味わうものでは無いと、博士はうんざりと実感した。

　だが今更物色に出歩く気にもなれない、今夜はリオン少年の寝顔でも拝謁して寝かせていただく事にしよ

う。そう考えた博士はゆるりと隣室へと向かった。それは見た目の若々しさとは裏腹に、酷く朽ちた印象を

思わせる動作であった。言わば動作自体が老いているのである。それは在り得ない話ではあったが。

　しかし博士は隣室のドアの手前で、何故かその動作を緩慢に止めた。白銀色の髪が残像のように後を揺れる。

「こんな霧の夜に街路を乱すとは無粋な」

　その位置から展望出来る窓外の景色には、霧の上からでも黒い塊達がはっきりと見えた。そしてその黒塊

達は明らかにこの医院を包囲しているようである。

　博士は無粋者を叱る為に階下へと歩みを変えた。　

　紅いルージュを惹いた女は何気なく眼前に漂う霧を払った。

　払われ散った微細な水滴の数々が世界に波紋を及ぼす・・・、そんな予感がしたがそれは気のせいであっ

たらしい。世界は変わりなく広がっている。目前には異質なアーデリー郊外医院があり、その景観もまた変

わらなかった。

　彼女はそのなまめかしい姿態を今は霧から守るように黒いコートで覆っている。しかしそれにも関わらず、

何処からどう見ても如何にも女であった。それが姿を覆い隠しても滲み出るモノだとすれば、一体彼女を女

たらしめている要素とは何なのだろうか。それは柔らかな身体の曲線でも無く、声でも無い。もしかすれば、

そこに在る事自体がすでに女なのだろうか。

「包囲完了致しました」

　彼女に一人の警備官が近付く。若いが実直そうな青年である。だがその若さ故に彼女を、例えコート越し

であっても、直視する事が出来ない様で、しきりと視線をうろおろと動かしていた。

　彼女はしかしそんな一切にはまったく関心が無いようで。

「ご苦労様」

　とだけ無感情に言い、それが済むと後は無言で退けた。そして再び医院を見上げる。

「さて、どうしようかしら」

　霧に浮かぶ異質な医院はそれはそれで不思議な趣き深さもあり、ここでこうして眺めていると言うのも魅

力的な提案に思えたが。遺憾ながらも今は仕事を優先させる事とした。

　彼女は特に仕事熱心というわけでは無かったが、一つには霧の夜はやはり寒いのである。それに無愛想な

コートでその姿態を隠している事も彼女には似つかわしくない。

　少し考えた後、彼女は緩慢に片手を上げた。

「第一斑突入、第二班は正面を、第三班は裏口を固めよ！第四班は待機してあらゆる事態に備えよ！」

　彼女の合図に応じて、警備主任が打ち合わせ通りに号令する。最早足音を忍ばせる必要も無かった。後は

この医院に突入して目標を捕えるのみ。

　彼にはそれはとても簡単な仕事に思えた。そして彼の側の誰しも皆、等しくそう思っている。

　博士が一階に下り立った時、それを待ち迎えるように正面玄関からけたたましい撃音と掛け声が響いてき

た。その度に木製の扉が張り詰めた悲鳴を上げている。

「木製の味わいは気に入っていたのだが」

　今はそれが裏目に出てしまったようだ。耐久度から言えば、木製程頼りがいの無いドアも無いだろう。ま

あガラス戸よりはましだったが。

　博士は手持ち無沙汰な心境を埋めるように、懐から使い慣れない拳銃を取り出した。それは見た目通り口

径も小さく、威力からすれば心とも無いし、襲い来るだろう数を思えばどう考えても焼け石に水ではあった

が。ただそれでも無いよりはましだろう。いや、あっても無くても同じだと言うべきか。例えその過程が多

少変わったとしても、結果が同じでは今は意味が無い。

「こういう時にあの大男が現れれば助かるのだが」

　博士はリヒムッドの大柄な姿を思い出した。

　だがそうそう都合良くはいかないのだろう。まあ或いはあの男なら都合良く出来る可能性もあるかも知れ

ないが。どちらにしても暫くは博士一人で乗り切るしかない。

「王子様の睡眠を妨害するとは不敬の至りではあるが・・・・、致し方あるまい」

　最悪の場合、先程うんざりと嫌いな事を実感させられた、肉体労働をする羽目にもなるかも知れない。

　博士はそう不承不承覚悟を決めて、取り合えず目前に現れた男へと申し訳程度に拳銃を突きつけた。

「深夜の来患はお断りしている」

　拳銃を突きつけられた警備官らしき男は驚いて立ち止まり、後に続く男達もその男に倣った。

　博士は侵入者が警備官であった事に驚きはしなかったが、多少鼻白んだようだった。

　そして図らずも場を一時の沈黙が支配する。医院とは本来沈黙の主であるべきなのは言うまでも無い。だ

が静か過ぎた夜はその反動を欲しているようであった。

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