純粋悪＝絶対正義

2-2.唯一畏れるモノは

　リグルド＝レーンフィール公爵は最近にしては珍しくゆったりとした午後を過ごしていた。

　政争について出来る事は全て手を打ち、後はそれぞれの結果が出るのを待つ時期へと入っているのである。

ある意味人間の精神の真髄を現すとも言える古武道では、静する事と動する事が二大要素とされ、それを極

める事が奥義であるように。何事にも動かざる時と、動くべき時がある。重要なのはそれを見極める事であ

り、個々の能力はさほど問題では無い。これがこの公爵の持論でもある。

　それは政略であれ、戦術であれ、異性を虜にする事であれ、なんら変わりはない。人間のやる事は所詮は

全て同じ理屈なのであろう。

　生物と言うものは本来単一的かつ単純なものであり、それを恥とするのか多面的な風を装う傾向があるが。

しかしその心情と言うものは多少複雑であっても、思考と言うモノは普遍的であり一つの法則めいたモノに

絶えず支配されている。ようするに人はいつも人の生み出したモノに支配されるのである。

　しかしそうと悟っているように見せても、やはり公爵も人間である。内心は彼も少し焦っていた。

　意外ながら、動する事よりも静する事の方が万倍も難しい。それは人間が老いに追われ、自分が満足に活

動出来る時間が短いと言う事を知っているからかも知れず。また単純に人間はあくまでも動物である、と言

う事であるのかも知れない。

　ただ、貴族が総じてそうであるように。彼はティータイム時だけは機嫌が良かった。それもやはりどんな

時でも変わらないのだろう。そして風習と慣習と言うのも恐ろしいモノだ。

「・・・・・身体にこたえるものだな・・・。私も歳をとった」

　権謀術数の技術で言えば、老成されつつあるとは言え。やはり１０代、２０代のようには身体が動いては

くれない。歯痒いが経験の代償と思って自分に言い聞かせるしかない。

　何しろリグルドはまだ死期が見える年齢でも無い。嘆きつつも、何処かに余裕があった。これが後２０年

もすれば、まったく考え方が変わっているかも知れないが、それは今は関係無い。

「後はジークナルドが動いてくれれば、色々とやりやすくなるのだが・・・」

　彼の目下の政敵である、現女王リリル＝レーン＝シルビリアは彼の予想以上にしたたかで計算高く、彼と

してもなかなか疲労される羽目に陥らされていた。人心を操る術ではひょっとするとリリルの方が上かも知

れない。

　何しろ彼女にはリグルドには無い派手な煌びやかさがある。人の感情は生来美に傾き、また自分にとって

解りやすいモノを好む。魅力の点において、やはりどこか男は女に敵わない所があるのかも知れない。

「似合わぬ名の女狐めが」

　リリル、おそらく偽名だろうが。それにしてもよくもこのような可愛げのある名を付けたものだと、リグ

ルドは吐き気がする思いだった。

　折角の特注のブレンドティーが不味くなる。

　リグルドは苛ただしげにティーカップを置いた。

　それに合わせるように不意にノックの音が響く。

「旦那様、新しい警備署長が就任されました」

　入って来た皺面の男がそう公爵へとうやうやしく報告する。執事長、ラウド＝ベッグナーである。

「警備署長？そんな者が何故私に関係あるのだ」

　しかしリグルドは不思議そうに問い返した。

　確かに始祖奪取の為にも、自分にとって都合の良い男を就けるよう指示したのは彼自身だが。かと言って

そんな下位の人事の事など普段ならいちいち報告する必要は無い。

「は・・・それが・・・旦那様の言われた方では無く・・・・」

　するとラウドは何故かしどろもどろになってそう答えた。何が言いたいのかはっきりしない。リグルドも

先程からの気分も手伝って、苛立たしげにラウドの手から報告書を剥ぎ取った。

「まったく、何がどうし・・・・」

　しばらく書類に目を通していたリグルドの眼は程無くして一点で止まり、そして大きく見開かれた。

「シュ、シュフェルムだと！！？・・な、何故・・・何故奴がこんな所に！」

　そして大いに叫ぶ。

「そ、それが・・・確かに旦那様のお言いつけ通りに計らいましたのですが・・・。な、何故か別の方がな

っておられまして・・・」

　ラウドは皺を更に深くするように、冷汗を流しながら更に小さく縮こまった。

「っそ、そんな馬鹿な・・・・、シュフェルムだと・・・・シュフェルム伯爵・・・・」

　しかし意外な事に、リグルドは激昂するでも無く。小刻みに震えてでもいるように身体を震わせ始めたの

だった。この公爵が畏れるモノ等、何一つこの世に存在し得ないはずなのに。

「だ、旦那様。旦那様、如何なされました」

　恐れる事も忘れ、ラウドが慌ててリグルドへと寄る。

「よ、よいか・・・・よいか、ラウド・・。この男にだけは、この男にだけは何としても手を出してはなら

ぬ。このシュフェルム伯爵にだけは誰も手を出してはいかんのだ・・・」

　信じられない事であったが、やはりリグルドは恐怖しているようだった。実質の権力は王を凌ぐと言われ

ている、この貴族を束ねるリグルド公爵がである。

「・・・シュフェルム・・、一体何をしに来たのだ・・・」

　リグルドは何者かに力を吸い尽くされたかのように、ぐったりとその場に座り込んだ。　

　ラウドは慌てて主を介抱する為にメイド達を呼んだ。

　

　レーンフィール家を主とするかのように構えるこの区画通称貴銭街には、この名家と双璧を為すような雄

大な建物がもう一つある。

　ただその建物はレーンフィール家のような重厚な古さを宿してはおらず、おそらく未だ築数年と言った風

に見える。その様式も派手で華美であり、いかにも大富豪といった、悪く言えば品の無い造りであった。

　この区画で新築と言う事はつまり、所謂成り上がり者、成金である事を意味する。

　その当主の名をジークナルド＝ベッフェン。以前から富豪の商人家であったが、このジークナルドが当主

となるに急激にその勢力を伸ばし飛ぶ鳥落とす勢いの、現在アーデリーでも最大の大商人である。

　商売柄、王室からその末端に到るまで、あらゆる所と繋がりがあり。そう言う意味ではリグルド公爵とリ

リル女王に次ぐ権力者と言えるかも知れない。勿論繋がりが広範囲と言う事は、それだけ情報に長けている

と言う事でもある。

　この男、中でもリグルド公爵との結びつきが強く。その権勢の半分は公爵の力添えに寄るとも言われてい

る。だが、このような男にありがちなきな臭い噂も後を絶たず。それも手伝ってか、この二人はお互いにま

ったく信用していない。おそらく利用価値が無くなれば、あっさりとどちらも片方を斬り捨てるだろう事は

明白であり。しかしそれ故に現在の必要な関係は揺ぎ無いモノであると言える。

　このジークナルドも私室でゆったりとした午後を過ごしていた。

「おい、貴様側に寄れ」

　彼は常時身の回りに付かせているメイドの中の一人を、そう言って軽く指差した。彼が必要外の名など覚

える事は決して無い。そしてそのメイドもそれを気にした風も無く、静かに彼に従う。

　ジークナルドも博士に負けず劣らずの好色であり、このメイド達も侍従と言うよりは愛玩に近い存在と言

える。その服装も様々であり、ジークナルドの趣味を大いに反映したものを着せられていた。

　ただこちらには博士のように男色の嗜みは無いのだが。

「フン、公爵め。俺を小間使いか物乞いとでも勘違いしているのか」

　ジークナルドは荒々しくメイドの淡い膨らみを、彼女の悲鳴を無視しながら揉みしだく。あどけないその

顔は恐怖とも驚愕とも言えぬモノに染まっており、ただ何事かを堪えるかのように唇をすっと真一文字に結

んでいた。おそらくこのメイドはまだ１０代半ばと言った年齢だろう。その肉付きは細く、未だ幼い。

「なんだその顔は。俺がわざわざ寵してやろうと言うのだ、もっと気の利いた表情を浮かべろ」

　そう言うとジークナルドはそのメイドを更に荒々しく彼方へと突き飛ばし、倒れ伏すメイドを見て興醒め

したような表情を浮かべた。側でただ見詰めているしか無い他のメイド達の顔にも恐怖が浮かぶ。

「使えん女共め。まったく貴様らは一家等しく役に立たん！」

　ここに集められるメイドは主に、ジークナルドに雇われた者や彼に逆らえない下請商達の妻や娘達であっ

た。髪や肌の色まで種々様々であったが、唯一共通しているのはジークナルドに逆らえないと言う事実であ

る。彼女達は正に生贄として差し出された者達であり、しかも彼の気に障る事をすれば即座に家族共々路頭

に迷う羽目になると言う、そんなある意味奴隷よりも過酷な境遇なのだ。

　リグルドとジークナルドは何処か似通った所があるが、この点だけは大きく違った。おそらく育ちの差と

言うものなのだろう。ジークナルドは風聞や名誉など一切気にしない男だった。

　商売には信頼も重要なのだが、裏で一切を指図すれば良い彼にしてみれば、彼自身の評価などどうでも良

かったのである。それよりも、後ろ盾としての権力と威圧があればそれで良い。

　だから彼は自分の思うままに従う。欲しいものは買い奪い、いらなくなれば放り投げる。喜怒哀楽を隠そ

うともせず、またそうする事を誇るような節がある。

「しかしまあ、見返りが望みのままとは面白い。いっその事あいつの妻でも貰おうか」

　ジークナルドはやけに上品に笑った。品性で言えば劣悪な男であるが、不思議とこういう他者から見れば

不愉快な仕草をする時だけはやけに品良く見えるのである。ようするにそれは、この男が純粋な悪意の象徴

である、と言う事なのかも知れない。

　ちなみにリグルドに娘が居る事は流石の彼とても知らない。

「フフ、あいつなら妻でも差し出しそうだ。すっかり冷えた関係らしいしな。ま、どうせ退屈していた所だ。

ここは一つ恩を売っておいてやろうか」

　ジークナルドは再度品良く哄笑し、それから舌なめずりでもしそうな程嬉々とした顔になり、最早メイド

達には目もくれずに颯爽と室内を出た。

　根っからそういう悪謀が好きな男なのだろう。悪気のある悪戯小僧とでも言うべきか。　

　そして彼が退室した後、室内から微かに咽び泣く声が聴こえた。

　ただそれは幸にも不幸にも誰の耳にも届く事は無い。

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