それは小さな発芽

2-3.疑惑

　ジークナルド＝ベッフェンは無意味に長いレーンフィール家の廊下をつまらなそうに歩いていた。派手さ

は無いが、良く見ると細かい所にまで細工されていたり、景観を良くする為の工夫等も見えるはずなのだが。

彼に言わせれば、そんな細かいモノは面倒なだけであり、純粋な華美と栄華、もっと言えばどれだけ金がか

かっているかがはっきりと解る事が、彼の唯一つの評価基準であった。

　役にも立たない景観等を愛でる感覚は、彼には一切無い。

「フン、貴族どもの誇る歴史や先祖の威光で飯が食えるものか」

　ジークナルドは苛立ち紛れに、塵一つ落ちていない廊下へと唾を吐いた。彼に言わせれば、確かに貴族達

の先祖は大功を立てたのだろう。だが、それが何故子孫にまで関係あるのだろうか。奴らはただ親の遺産を

受け継いだだけに過ぎず、奴ら自身には何の功績も無い。正に貴族ならぬ、奇族だ。

　彼はまだ苛立ちが納まらず、更にニ、三度唾を吐き捨てた。

　そうするとやっと少し落ち着いたのか、少しだけ晴々とした顔になったように思える。彼は美しいものを

汚す事は嫌いでは無かった。そうして干渉する事によって、それが自分の物になっていくような、そんな甘

美感を感じるのだ。それはある意味、動物のマーキングと底は同じなのかも知れない。

「ん、誰だあの女は」

　彼の前方から歩いてくる女がいる。

　たおやかな艶のある明茶色の髪を束ね、所謂ポニーテールにくくっている。顔は美しいと言っても良いが、

何処か冷たい感じがして、目は鋭利に研ぎ澄まされているように思えた。

　ジークナルドは人知れず唇を舐めた。この女には強く惹かれるものは無いが、とてもそそられる。彼は少

し冷たいくらいの女の方が好きなのだ。それは常日頃彼の欲望を満たしているのが、全て従順な女ばかりな

所為かも知れない。

　そのまま歩きながら見詰めていると、向こうもこちらに気付いたらしく無遠慮な視線を寄越してくる。

「こんにちは、お嬢さん。私はジークナルドと言います。どうかよろしく」

　ジークナルドは品良く淫らな笑顔を浮かべて一礼をした。

「そうですか。それでは私は急いでますので」

　しかし女はそう言って一瞥したのみで、それ以上彼の相手をしようともしない。

「お嬢さん、見かけない顔ですね。新しいメイドでもなさそうだ。失礼ですが、貴方はどういうお方ですか」

　ジークナルドは不審そうな声と視線を女に送った。

　すると女はぴたりと立ち止まり、いかにも不機嫌そうな顔を彼に向ける。

「失礼な方ですね。私の名はエレイン、公爵に正式に雇われた家庭教師です。変ないいがかりは止していた

だきます」

　そしてエレインと名乗った女はキッと睨みつけ、苛立たしげに彼の前から去って行った。

　それを見ながら、しかしジークナルドは表情を引き締め何事かを考えている風である。

「家庭教師・・・・あん、誰の教師だ・・・」

　リグルド公爵には子供がいないはずだった。いや、一人居たとか聞いたが。確かその一人はすでに亡くな

っているはず。

　これは少し調べてみる必要があるかも知れない。

「フフ、これは思わぬ収穫があったかもな」

　こちらの挑発に簡単に乗ってきたのを考えても、先ほどの女は大した思慮も無いのだろう。あの女を調べ

て行けば、面白い事が解るかも知れない。

　ジークナルドは悦な微笑を浮かべながら、公爵の元へと向かった。

　エレイン＝レーンフィールは最愛の教え子ミルフィリア＝レーンフィールとの二人きりの至福の一時を過

ごしていても、先ほどの苛立ちが何処か収まりきらない様子だった。

　ミルフィリアは心配そうにそんな教師を覗き見る。

「先生、どうかされました。今日は少し・・・」

　少し怖いです、とまでは言えず。代わりにその水晶よりも透き通った瞳に翳りを浮かべた。

「え、ええ、何でもありませんよ。何でもないのよ、ミルフィリアさん・・・」

　エレインは彼女のそんな表情を見ると、胸がたまらなく締め付けられてしまう。この途方も無く美しい教

え子には、翳りなど相応しくない。可憐な微笑みこそが彼女には相応しいのだから。

「でも」

　ミルフィリアは拗ねたように、小さな頬を膨らませた。

　エレインは彼女のそんな仕草を見ると、もうどうしよう無く何かが昂ぶってくるのを抑えられない。思わ

ず優しく彼女を抱き締めた。優しい香りと心地良い雰囲気がエレインを包む。

「先生？」

「大丈夫よ、何でも無いの。ただちょっと嫌な人に会ったから・・・」

「嫌な人？」

「ええ」

　エレインは先ほど会った男を思い出す。思い出しただけで、自分の記憶が全て汚される気がするくらい、

嫌な記憶として残っていた。

「どんな人？」

「そうね・・・」

　ミルフィリアにあんな男の話をすると、彼女まで汚してしまう気がして、話すのは嫌だった。しかしエレ

インは彼女に頼まれると絶対に嫌とは言えない。不承不承ながら、ぽつぽつと先程の話を聞かせた。

「大丈夫かしら・・・・」

　ミルフィリアは先生の話を聞いて、何故かとても不安だった。家庭教師・・・、その言葉も禁句だったの

ではないだろうか。

　先生の身を案じる。

　エレイン先生に何かあればどうしよう。自分を受け入れてくれる数少ない人間の一人なのに。

　ミルフィリアはそう思うだけで呼吸が凍り付くような気がした。

　だから彼女は珍しく能動的になる事を決断する。自分が動く事は色んな人に心配や迷惑をかける事になる

かも知れないけれど。それでも自分の為に先生がどうにかされてしまったらと思うと、もういてもたっても

いられない。

　彼女は自分の為に誰かを苦しめる事はしたくなかった。それは誰にも嫌われたく無いと言う裏返しでもあ

る。両親から疎まれて育った彼女は、焦がれるくれいに愛情に飢えている。隔離された生活を素直に受け入

れたのも、元々はそうすれば両親が少しでも自分を好いてくれるかもと、淡い期待を抱いたからだった。

　しかし、とミルフィリアは思う。

　しかし大人しく待っているだけでは誰も愛してくれないのではないか。まずこちらから行動するからこそ、

相手もそれを感じて愛を注いでくれるのではないだろうか。　

　そして彼女は、彼女の知る中で一番権限があるだろう執事長ラウド＝ベッグナーを呼ぶ事にした。まず呼

び鈴を鳴らして世話係のメイドを呼び、そのメイドにラウドを呼んでくれるように頼む。

　メイドは嬉しそうに微笑みながら、二つ返事で奥へと向かった。珍しくミルフィリアが自分を頼ってくれ

たのが、よほど嬉しかったのだろう。人に頼られる事程、自分が認められている、と感じる瞬間は無い。

「お嬢様、何事でございますか」

　程無くして、ミルフィリアが逆に申し訳無くなるくらいに慌て、皺まみれの顔を更にくしゃくしゃにしな

がら、執事長ラウドが現れた。息も荒く、その顔を皺をなぞるように汗が幾筋も流れている。

　先程のメイドとは真反対の反応であった。彼にしてみれば、自分をお嬢様がわざわざ呼ぶ事など今までに

数える事も無く。これはよほど大変な事態が起こったに違いないと、慌ても大慌てで、すぐさま老体に鞭打

ってやって来たのだった。この忠実さと実直さは恐らく彼の寿命を大きく縮めているであろう。

「はい、いきなり呼び出してごめんなさい」

　ミルフィリアはラウドに申し訳無く思い。おそるおそるコップに水を注ぎ、それを彼に渡しながら謝った。

「いッ、いえ、とんでもございません。お嬢様に謝られてはこのラウド、立つ瀬がございません」

　そう言いながらも、お嬢様の気遣いがよほど嬉しかったらしく。涙も流さんくらいの顔で、嬉しそうに少

しずつその水を飲んだ。

「それで何用でございましょう、お嬢様」

「ラウドはジークナルドと言う方を知ってますか？」

「ジークナルドでございますか！？」

　ラウドは思わず大声を出してしまい。それに気付いて、慌てて何度も頭を下げた。

「申し訳ございません、お嬢様。しかし何処からそのお名前を・・・・あ、いやこれは余計な事を。・・・

ジークナルドですな、ジークナルドとは旦那様がご贔屓にされておられます商人の一人でございます。油断

ならぬ人物とお見受けしておりますが」

「そう・・・」

　ミルフィリアは哀しそうな顔をして考え込んだ。

　それを見て、ラウドも心配そうな顔をする。

「ねえ、ラウド」

「はい、お嬢様」

「そのジークナルドと言う方に注意して欲しいの。そして先生に何事か起こらないように、先生を見守って

て欲しい。お願い、ラウド」

　この途方も無く可憐で美しいお嬢様に頼まれて、それを断れる者等、果たしてこの世にいるのだろうか。

ラウドは朽ちた身体が激しい使命感で満たされるのを感じた。自分が守らなければならない、このお嬢様が

頼れるのは自分だけなのだからと。

　この時、ラウドはリグルドの執事長から、ミルフィリアの老騎士へと変わってしまったのかも知れない。

　そして大きく頷いた。

「お任せください、お嬢様」

　目をくっきりと見開きながらそう言ったラウドは、何処かとても頼もしげにミルフィリアには見えた。　

　そして老騎士が去り一人になった室内で、彼女は先生とラウドの無事と幸運を懸命に祈り続けた。

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