ジークナルド=ベッフェンはここに居ると常に不快だった。 「ジークナルド、引き受けてくれたか。感謝するぞ」 こことは、リグルド公爵の私室である。ジークナルドはしかしリグルドに対しては常に丁重な姿勢を崩せ ない。それが一つのジレンマとなり、彼を少なからず鬱にさせる。 そしてこの部屋の景色、質感、そして空気に到るまでが甚だ不快だった。何より、この目前に座した男が 一番気に食わない。初めから不快だった、おそらく最後まで不快だろう。 リグルドはいつも質の良い服を着、自然に気品を出している。 その気品はある特異な育ちの中でしか養えないモノであり。ジークナルドには最早決して得る事の出来な いモノであった。才能でも努力でも無く、単純な産まれと育ちのみが影響する。つまりは生まれながらにし て、この公爵に負けている。そしてそれは一生上回る事は出来ない。その事が何よりも彼を不快にするのだ。 人の生とは、なんと理不尽で不公平なモノであろうか。 「いえ、公爵様にはいつもご贔屓にしていただき。真に光栄の極みでございます」 しかしその嫌悪感を欠片も出す訳にはいかない。ジークナルドには、まだまだこの公爵の力添えが、権威 が必要なのだ。ただ一人の力によって浮上した者は、そのたった一人がいなければ惨めに没する事になる。 単純だが、驚く程浮上させられた者が気付かない事を、この商人は知っている。 何故なら、それを彼は具に見てきたし。何よりも彼自身がそれを行ってもいるからだ。 リグルド公爵を言わば師とし、その権謀術数を学んで(盗んで)きたジークナルドには、だからこそ嫌で もそれが解ってしまうのだ。大商人と呼ばれる今でも、この公爵とは決して対等にはなれていない、と。そ れどころか、益々差がついている。 だが勿論、いつまでもこの気に食わない公爵の風下に甘んじているつもりも彼には無い。 「では任せたぞ。あの女王から一枚一枚剥いで行くのだ。その麗しい裸身を晒すまでな」 リグルドは唇を歪めた。 つまりは彼女に味方する者を、あらゆる手を使って削いで行け、と言う事である。それを衣服に例えるあ たり、とても貴族らしい品の良いジョークとは思えない。 「ハッ、全てお任せ下さいますよう」 ジークナルドは丁重に承りながら。この貴族と言う高貴な器の中には、果たして何者が入っているのだろ うかと、そんなくだらない事を思い浮べた。ヒトは生まれ出る時、降りる器を間違える事の方が多いのだろ う。とすれば、それは神と呼ばれる存在の大いなる罪であり、悪だろう。
公爵家から戻ったジークナルドは急いで浴室へと向かった。 一刻も早く身体を清めねば、きっとあの貴族とやらの毒素で我が身が腐り落ちてしまう。 「準備は出来ているだろうな!」 出迎えたメイドの一人に乱暴に言葉をぶつける。 「は、はい。旦那様のお申し付け通り、浴室の準備は整っております」 メイドは怯えきった顔に声を震わせながら、そう答えた。 「フン!」 まったくこの女どもは気に食わない。何をやらせても、何をしても、まったくジークナルドを満たす事が 無かった。所詮は使い捨ての人形にしかなれないのだろうか。怯えた瞳、躊躇する態度、そんなものはすぐ に飽きる。たまに反抗する女も、もって一晩。次の朝日に晒される頃には、もうつまらない玩具に成り下が るか、壊れるか。 どちらにしても、下らない物だと彼は思う。 「この役立たずが!」 苛立ち紛れにそのメイドの衣服を毟り取り、他のメイドの怯え見る前で散々に弄んでから、ゴミのように 放り捨てた。それに何か言う者はいない、ジークナルドの苛立ちも募るばかり。 全てはジークナルド自身がそうしたはずであるのに、何故か彼が満たされる事は無かった。それどころか、 その全てが気に食わない。そしてその理由も彼には解らない。 「次はお前だ」 「ひぃッ」 ジークナルドは次のメイドを強引に引き寄せ、そのまま浴室へと向かった。 彼にはただその時自分の心が望んだままに、欲望と言うモノの命じるままに行動するしか、それだけしか 見付けられなかった。相談する相手も信用出来る人も居ない彼では、そうして自分で足掻いて答えを見つけ るしか無かったのだ。例え一生思考の迷宮を彷徨う事になっても。 哀しい被害者である不幸なメイド達は彼よりも選択肢は無く、ただ自分の境遇を呪うしか他に無かった。
エレイン=レーンフィールは最近身の回りに不穏な気配を感じている。 かと言って別段何があったと言う訳でもなく。表面上はいつも通りの日々を送っているのだが。しかし時 折、不意に視線を感じたり、いつも誰かに付けられているような、そんな不安感を覚える時がある。 そう感じるようになったのは、本当にごく最近の事だった。そう、確か前に公爵家へ行った時くらいから。 しかし、どう考えても自分等を見張る意味があるとは思えない。彼女も確かに名家レーンフィールの姓を 持つ者だが、末流も末流でしか無く。彼女自身には大した財産も無かったし、またそれ以上に権力の欠片す ら無かった。 そんな自分に付け回すだけの価値があるのだろうか。いや、どう考えても無い。でも気のせいにしては、 その頻度が多過ぎた。素人のエレインに察知されるようでは尾行者の腕もたかが知れているとは思うが、し かし敢えてその存在を示して彼女を脅しているとも考えられる。 「どうすればいいの・・・」 彼女はこういう時どうすれば良いか解らない。勉学に対しての頭脳は明晰であるが、何分こういう事には 慣れていない。こういう事態は彼女の思考外なのだ。 「いっその事・・・」 リグルド公爵に相談してみようかとも一瞬考えたのだが、あの公爵が自分程度の者にそこまでしてくれる とは思えない。公爵からすれば、エレインの代わりなどいくらでも居る。そんな者に余計な手間や金をかけ てくれる訳が無かった。 エレインは公爵がどんな男かを良く知っている。 「ミルフィリア・・・・」 そして不安な時も幸せな時も、最後に思い浮かぶのは愛しき教え子の途方も無く美しく愛らしい顔だった。 それは彼女の胸に焦がれるように焼き付いて離れない。 別にさして楽しい生でも無かったが、ミルフィリアを見れなくなる事だけは耐えられそうに無い。 でも、もし自分が死ねば彼女は哀しんでくれるかも知れない。その時だけはエレインの事だけを彼女は想 ってくれる。彼女の心を支配出来る。それもエレインには限り無く魅力的な事に思われた。
そのエレインをそっと見守る影がある。 「これで彼女自身も警戒してくれると良いですが」 背が高く、体格も良い男で、長い黒髪が肩甲骨の辺りまで垂れ下がっている。物腰は油断無く、静するま まに周囲に溶け込んでいた。そしてまた気配を消す。 しかしその視線はエレインを離れない。 エレインは聡明な女性であると聞いた。おそらく自分を察知してくれているはずだ。ガードする上で一番 大事なのは、守る本人にまず危機感を持たせる事。何よりもそれが重要だ。 狙われているかもしれない、そう思うだけでもその動作は大きく違ってくる。人間とはつくづく些細な事 が大きく作用する動物だと、こう言う時にまざまざと思わされるものだ。 「ふむ」 辺りをざっと見渡すが、今の所自分以外にエレインを付けている者はいないようだ。 エレインが辺りに注意を払いながら移動していく。 彼も影の中を移動し、それを追った。 |