2-6.二度目の憂鬱


 リヒムッドは影となりエレインを見守っている。

 彼女は辺りに不審な視線を惑わせながら、足早に歩いていた。彼女も温室育ちのお嬢様と言う訳ではない。

むしろ貧窮している貴族として、普通人よりも色んな苦悩と屈辱を味わって来たように思える。

 だがしかし、言ってみればそれだけの経験であるとも言える。苦悩する事は哲学的に人間を成長させるが、

かと言ってそれが危機回避や処世術と即座に結びつく訳でも無い。あらゆる世の中の事象は、全てと密接に

関係しているのだが。そうありながらも実は全く別個のモノでもあると言う事実も否定出来ない。

 つまりは一方面の物事は、あくまでもその方面だけに通用すると言う事だ。それを多方面に活かす為には、

少しのコツと応用力が必要となる。

「ようするに半端なプライドは逆に仇になると言う事ですね」

 リヒムッドが見るに、エレインはプライドと言うモノをとても大事にしているように思える。おそらく今

までの生活を生きる上でよりどころとなるモノとして、唯一の財産であった末流といえども名家レーンフィ

ールである、と言うその名に頼る以外に彼女には無かったのだろう。

 簡単に言えば貴族としてのプライド。

 それは彼女が望んだモノでは無く、自然に、ごく自然にそうなるべくしてなった事であると思われる。

 リヒムッドは誇りある女性は嫌いでは無かったが、その半端な自尊心は自分を奮い立たせる事以外には価

値の無い事も知っていた。そこに一抹の虚しさを覚えるのは彼女に対して失礼だろうか。

 エレインは用心しつつも人の目を気にしてか、自らの尊厳を守る為か、敢えて危険に立ち向かうように必

死で走る事をしなかった。かと言って彼女自身には身を守る力は無いだろう事も明白である。

 警戒する事は無意味である、とリヒムッドは思っている。警戒などと言うものはあくまで精神的なモノで

あり、危険とは逃げるか戦うか、その二つしか選べない。ならば戦う力の無いエレインはこの際逃げに徹す

るべきであろう。だがそれを半端な自尊心が邪魔をする。

 それがようするにエレインと言う人物の限界である、と言う事かも知れない。

「今はまだそれでも安心かも知れませんが」

 リヒムッドは影となりて一人呟く。彼の癖と言えるかも知れない。退屈を紛らわす為か、緊張を持続する

為なのか、彼は誰にも聴き取れない声で独り言を言う事も少なく無い。そしてそれが辛うじて彼を影と同化

せしめずにいるとも言えた。

 そうして何度目かの呟きを洩らした時、彼はある臭いを感じた。

 臭いである。漠然とした勘ではない、列記とした感覚の一つ。つまりそれは、それがより確実であると言

う事を意味している。

「・・・・・・・・・」

 リヒムッドは声の代わりに肺から息をゆっくりと搾り出しながら、今度は視覚を研ぎ澄ませた。

 陰が在る。影ではない、あくまで陰である。まるで鬱蒼とした森を抜けるようにするするとその陰がエレ

インを追っていた。不覚にもリヒムッドより更にエレインに近い。しかしだからこそ、この陰を捉えられた

とも言える。

 リヒムッドは路傍の小石を拾ってその陰へと投げ付けた。

 角張った石は弧を描く事は無く、一直線にその陰へと吸い込まれて消える。

 すると今度はもっと明確なモノを全身に感じた。

 何よりも明確な殺意である。

 そしてリヒムッドはその陰へと向かった。



 その陰の双肩に光る一対のロングナイフにリヒムッドは見覚えがある。

「またお会いしましたね」

 リヒムッドは影のままそう言った。

 陰がこちらを見る。うっすらと表情が浮かび、やがてその陰は人を形作った。もう身を隠す必要は無い

だろう。リヒムッドも影から姿を現した。

 陰の男、ゲルド=バイフォンは胡散臭そうな視線で呟く。

「・・・あの時の男か」

 この二人は以前、アーデリー郊外医院が襲撃された夜に対峙した事があった。その時は戦う必要に迫ら

れず、お互い身を引いているのだが、今回はそうも単純にはいかない様子だった。

 ゲルドはもう殺気どころか気配も何も隠そうともせず、ただ剥き出しの執念にも似た敵意のみをぶつけて

くる。リヒムッドもこの男がエレインを付け狙っている以上、このまま見過ごす訳にはいかなかった。

 時間をかけてもいけない。もしかするとこれは囮なのかも知れないのだから。

 リヒムッドは静かに気を丹田に溜め、何も答えず、しなやかに駆けた。

「・・・むッ」

 ゲルドも素早くロングナイフを抜き去り、迎撃の姿勢をとる。鉄(くろがね)の刃が暗闇の中ですら深く

どす黒い光を放っていた。

「疾!」

 リヒムッドの拳が閃く。それはゲルドの予想を遥かに越えるスピードだった。正に一閃、衝撃が身体を

貫く間、不覚にも彼は何が起こっているのか理解する事が出来なかった。

「・・・・・・・ぐッ・・・」

 額から脳にかけて、電流にも似た痺れが浸透している事に気付いた時、しかしもうすでにリヒムッドの姿

は無かった。おそらくエレインを追って行ったのだろう。

「・・・玄人か・・・」

 ガードすると言う任務だけを実直に実行している。それはプロフェッショナルと呼ぶに相応しかろう。

 これで不覚にも二度も退けられる結果となってしまったが、ゲルドは何故か嬉しそうにも見える表情を浮

かべていた。

「・・・三度目はこちらが勝つ」

 特にエレインをどうこうすると言う命は受けてはいない。彼が請け負ったのは、ただ彼女を追跡すると言

う事。その役目はこれで充分に果たした。  それに今更追っても詮無き事になるだろう。

「今回も引こう・・・。しかしお前一人で果たして何処まで出来るものか・・・」

 ゲルドは鈍く光る笑いを洩らし、そのまま陰へと溶け入って行った。



 後ろから追撃して来る気配は無い。

 リヒムッドは疾影する。確かに追ってくる気配は無いが、まだどこか臭いが消えない。先程のゲルドの臭

いがあまりにも強く、もう一つの臭いを消されていたようだ。

 だが今は微かにだが、確かに臭う。

 まだ他に誰かが自分と同じようにエレインを追っている。

「気の流れは感じませんが・・・」

 今度は刺々しいゲルドとは違い、あくまでも穏やかに感じる。それが何か動こうとする明確な意志の気配

は感じ無い。つまりは能動的な追跡者では無く、リヒムッドと同じく受動的な監視者であると言えるだろう。

 だが、それ故に掴み難い。気負いと言うモノも、勢いと言うモノも無く。ただ静かに見詰めるだけ。

 そこに気配も姿も無く、ただ目だけが浮いているようなものだ。目だけの存在など、果たして感知出来る

のだろうか。可能だとしても困難を極めると思われる。

 リヒムッドは取り合えず今はエレインに害を及ぼさない事を安堵し、それで良しとしておく事とした。

 相手も自分の存在を同じように微かには感じているはず。後はどちらが先に尻尾を出すか、化かし合いに

も似た根競べとなるだろう。

 リヒムッドは自らを更に深く影へと沈めた。 




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