博士はアーデリー郊外医院の一室で新聞に目を通していた。いつも通りいつ働いているのか解らない。 新聞の見出しには、死天現る、とある。 死天、とは世間を度々騒がせている怪盗の名で、風聞は色々飛んでいるが実際にその実体を見た者はいな いと言われていた。しかしその存在が居る事だけは確かであり、死天現る時、しっかりと宝物を奪われてい る。陽炎のようで、陽炎よりも確かな存在。それが死天と呼ばれている者だった。 「華麗な大怪盗か」 正体が不確かな不気味さよりも、その華麗な怪盗ぶりが話題になる事の方が博士には興味深い。人が何か を見聞きする時、一つの事柄が強烈なイメージを与えるとその他のモノはそれにかき消されてしまうらしい。 所詮人間は一方面からしか見えないと言う事なのだろう。それは主観的な生物である以上、避けられない 性と言うものか。ただ別にそれに博士は良し悪しを付けるつもりは無い。 あくまでも興味、それだけである。まだこの世界から学ぶ事がある、それが実証されただけの事。 「実際に居れば会って見たいものだが」 博士は取りとめも無い思考を中断して、新聞をテーブルへと置いた。後でリオン少年にも見せてやろうと 思う。リオン少年にとっては、この詰まらない新聞でも毎日の楽しみなのだから。 「ふう・・・」 博士は濃いめの紅茶を飲み干した。 最近はなかなかに平和な一時を送っている。刺激の無い人生はつまらない、よく使われる言葉だが。しか し刺激だけの人生の方がもっとつまらないのだろうと博士は思う。地味で何の意味もなさないような人生こ そが、或いは至上の人生なのかも知れない。まあ、それに気付いた時は全てが終った後なのだろう。心と言 うものは鈍すぎて、いつも失ってからしか気付かない。 おそらく当事者からではその評価は出来ないようになっているのだろう。自分が果たして幸せか、不幸 せか、そんな単純な二択ですら戸惑い、答えを見出せない。なんと人間とは不器用な生物なのだろうか。 「・・・・・・・」 博士はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
リオン少年は暗がりの部屋、今の彼の世界全てである一室で、ぼんやりとその世界を眺めた。 傍には匂う程の女の姿態が侍っている。 そっとその女の髪を撫でると、女はうっとりとした表情で擦り寄ってくる。 初めはこの女には戸惑うばかりであったのだが、最近は少し慣れてきたのか、一緒に居るのにも平気にな っていた。たまに抱き締めると、その柔らかさに心奪われそうになる。そうすると、何故だか心の底から何 かがむくむくと鎌首を上げ、不思議な感情が湧きあがってくるのであったが。しかしまだリオン少年にはそ れが何かまでは解らない。 時に狂おしい程にそれが全身に満ちる事もあるのだが、それを晴らす方法も彼は知らない。だから悶々と した時間を彼は過ごしている。 「どうしたのだろう」 リオンは解らない。ただその女、リシアを抱き締めると少しだけ気分が晴れるので、今もぎゅっと側にい るリシアを抱き締めてみた。 そしたら今度は心の他の部分がむずむずして来る。それは飢えと言っても良いかも知れない。彼の属する 者達だけが持つ少し特別な飢え。 「ちょっとだけ、良いですか」 たまらなくなったリオンは控えめにリシアにお願いした。 「はい・・・いくらでも」 少しでも必要とされるだけで全てが満たされるリシアに、そのお願いを断る術も理由も無い。逆にリオン に哀願するような目線を送った。 「ありがとう」 リオンは血牙を取り出し、静かに装着した。 そしてゆっくりとその牙をリシアの首筋に当てる。 「ああ・・・」 リシアは色っぽい吐息を洩らし、その間中ただ静かに身体を震わせていた。
シュフェルム伯爵も珍しく警備署の署長室で新聞などを読んでいた。近くにはいつものようにロッティー ドが控えており、今はその頭の上に伯爵の御足が乗せられている。 だが、勿論ロッティードは主人に異を唱える権利を有してはいない。彼はどうしようも無く、ただ表情を 不愉快そうに歪め、それが彼の顔をいつにもまして不細工な作りに見せていた。伯爵が紳士的嗜みとして新 聞に熱中していなければ、その顔を見て、笑いに笑い尽くした事だろう。 「この死天と言うのはなんだ、ロッティード」 「はい、何でも近頃庶民の話題を独占している盗人のようでありまして」 「ふうむ、盗人か」 伯爵はその見出しを食い入るように見詰める。 「しかしこれを見る限り、この死天とやらには貴族的優雅さを感じる。さては盗人の伯爵に違いあるまい。 私には解る、解るぞロッティィィィド!」 「ははあ、流石はシュフェルム伯爵様でございます」 ロッティードは伯爵の御足の重みの所為で頭がくらくらとしてきたが、あくまでも言葉は慇懃にそう答え た。下僕の鏡と言えるかも知れない。と言うよりも、ここまで来ると伯爵に弱みを握られているに違い無い、 とまで思えてくる程であった。 「しかしだ、しかしだロッティード。我輩は警備署長として、この死天とやらを捕えねばなるまい。如何に 貴族的盗人とは言え、見逃す訳にはいかぬ・・・・。ロッティード、この貴族的煩悶が貴様に解るか。いい や、解るまい、解るまいぞ」 伯爵は興奮気味にロッティードの脳天に何度も御足を振り下ろす。それがくらくら気味のロッティードの 脳に不可思議な振動を与え、ごく自然な結果としてロッティードに幻を見せたようだ。 「ああ、天使と言うのは本当に居たのですな、伯爵様」 天使とは言っても白い翼に美しい娘と言う可愛げのある取り合わせでは無く、黒い蝙蝠羽に乱杭歯の老婆 と言った有様で、ロッティードは恍惚な表情で非常に恐ろしい心持を味わっていた。こう見るに、いつも 心が表情にそのまま出ると言う訳でも無いらしい。 「ああ、天使が・・・天使が・・・・」 頭に伯爵の御足を受けながら、ロッティードには最早半ば意識は無かった。 「よしよし、次の標的はこの死天としよう。では行くぞ、ロッティード」 伯爵は新聞を投げ捨て、妄想と戯れるロッティードに労わりの言葉一つとてかける事も無く、颯爽と紳士 的姿勢で背筋を伸ばし、ステッキにシルクハットを見に付け、署長室を出て行ったのだった。
エレインはあくまでも落ち着いた動作(彼女がそう思っているだけだが)でレーンフィール家まで辿り 着いた。しかしまだ嫌な予感がする。今も誰かから見られているのだろうか。 「・・・・・・・」 ただ向こうにはこちらに危害を加える気が無いらしい事は何となく解った。だからと言って不安と嫌悪感 が消える訳でも無いのだが、少しだけエレインに余裕が戻る。 しかし本当に自分を尾行して、一体何を得ようとしているのだろうか・・・。 「ミルフィリアに危険が及ばなければ良いのだけど・・・」 エレインの不安はそれに尽きた。だが自分と限られた者しか知らないはずのミルフィリアに危害が及ぶと は思えない。存在を知らなければ、そもそも接触しようなどとは考えられないものだから。 ただ不安だけは消えない。 「考えなくては・・」 彼女は自分の中で唯一胸を張って誇れる、その頭脳を使って解決しようと考えた。出来るはずだ、と思う。 いや、出来なくてはならない、と。 それこそが敵の狙いであるとも気付かずに。彼女は自分独りでそれを背負い込む事に決めたのである。 そしてきつい視線を周囲に何度か巡らせてから、素早くレーンフィール家の門をくぐった。 後にはそれを見詰める二対の目だけが残った。 |