2-9.無力な女帝


 レーンフィール家の庭園はまず人に自慢できる物である。これはリグルドの公爵としての誇りから来てい

るのだろうと思える。彼は誰より見た目にも拘っていた。それは家や服装だけで無く、接客を務めるメイド

達の容姿、性格、果ては家柄まで考慮する程であった。

 だから例え屋敷の一室に篭り、窓からの景色を世界の全てとしても。絵心でもあれば、或いは生涯楽しん

で暮らせるのかも知れない。

 だがセルビアの目にはそう言った生産的な行動に必要な明るさ、輝きと言い換えてもいいが、と言ったモ

ノが今はまったく無かった。彼女はただぼんやりとあるがままの物を、あるがままに眺めている。そこに芸

術性と言う人間が付与すべき情緒も何も無い。

 そんな事をしていて楽しいとは思えないが、彼女はそんな暮らしをもう十数年も続けていた。人の生で考

えれば、呆れる程の年月であるだろう。

「・・・・・・・・」

 最近は屋敷内が何か騒がしい気もしていたが、しかし彼女にはどうでも良い事だった。ここだけはメイド

達も必要以上に出入りする事も無く、そう言った意味ではミルフィリア以上に隔離されているとも言える。

しかもそれは彼女自身が望んでやっている事なのだ。

 独り故の孤独、しかし一人故の安らぎもそこにはあるのだろう。

 そう言えば、このセルビアが前に口を開いたのは何時の事だったろうか。こうして忘れる程に彼女は意

志と言うモノを行動へと現さない。彼女付きのメイドですら、半ば不気味にすら思っているくらいに。

 彼女はまるで本当の人形になってしまったかのようであった。

「・・・・・・・」

 しかし彼女の物語はどうやらまだ先の話のようである。

 未だ彼女の時間は止まったままだ。

 そしてそれがまた動く保証も無い。



 ジークナルドへエレインの定期調査報告が送られてくるのは、定期と呼んでいるくせにその時間が決まっ

ていなかった。ただ一日に数度、彼の私室の机の上へと当たり前のように置かれている。どうして誰がいつ

そこへ置いたのか、それは誰にも解らない。

 それがメイドでない事だけは確かであり、そうなると勝手に私室へと忍び込んでいると言う事になるのだ

が。ジークナルドはあまりそれには拘らなかった。勿論、人に見られるのは望ましくない品々が腐る程ある

のだが。しかし見られたからと言って別にどうこうなる訳でも無い。

 あくまで、望ましくは無い、のレベルなのである。

 本当に見られてはいけないものは、見える所に置いている訳が無い。ジークナルドはそういう男である。

証拠隠滅等のうろ暗い事をやらせれば、或いはリグルド以上なのかも知れない。つまりそれは、彼がそんな

胡散臭い方面に一番相応しいと言う事なのかも知れなかった。

 だから彼が今苛立っているのもそれが原因では無いのである。

「・・・・女自体は易くても、流石に公爵家は固いか・・・」

 エレインの調査報告を見ても目新しいモノは何一つとして無かった。あるとすればあちらもボディガード

を雇った、くらいの事か。しかしそんな事は大して意味のある事では無い。何事も思い通りにならなけれ

ば許せない男であるが、何事も順風満帆に行くのが当たり前だとは思ってはいない。

 品格を言えば最低線である事は紛れも無いのは確かだが、才で言えば品格を補う程には恵まれている。だ

からこそリグルドの片腕が務まっているのだ。腐っても鯛、そんな言葉もある。

 かと言って、それで苛立ちを起こさずにいられる程、彼は良く出来た人格でも無い。彼が苛立っているの

はそう言う訳であった。単純に上手くいかないから、腹が立っているのである。

「しかしこれ以上は俺の手に余るか」

 リグルドもジークナルドを同じように信用してはいないだろう。だから多少の事をリグルドにしたとして、

それでどうなる事でも無いとも言える。それはリグルドの予測範囲内であるからだ。

 しかしここで予測外の行動、または予測以上の行動をとったとすれば、話は変わる。そうなればリグルド

がジークナルドを完全な敵として認識し、無慈悲に即座に滅ぼしてしまう事だろう。

 悔しいが現状ではとてもこの公爵には敵わない。

「ここら辺りで止めておくべきか・・・」

 しかしエレインの持つ秘密を知る事が出来れば、或いは初めてリグルドに勝てる希望が出てくるかも知れ

ない。

 ジークナルドはまるで重大な商談に接する前のような、そんな彼が唯一真剣になる時と同じ表情になって

いた。ここが勝負所だと無意識の奥で理解しているからだろう。

 そして彼は時間をかけて一つの決断を下した。



 数日後、エレインは再度レーンフィール家へと出掛けた。彼女はどうやら定期的に彼の家へと赴いている

らしい。これはずっと見張っていなければ解らなかった事だ。何しろ公的にも私的にもエレインがレーンフ

ィール家へと行く理由が見当たらなく、またその事自体実際に知られてはいない。何故ならば隠されている

からである、その公然非公然は別として公爵が隠す以上隠せないモノは無い、そう断言しても良い。

 だからこんな簡単な情報もこうしてずっと彼女に張り付くようにしていなければ解らなかった事なのであ

る。依頼人が言ったように、リグルド公爵と言うのはその手の手腕だけはその爵位に相応しいくらいの力量

はあるらしい。

 大体、自分への対処が早過ぎる。尾行やら暗殺と言った術ならば、自分は一流であると自負していた。そ

れは他も実績から認めざるを得ないに違い無い。それを早々と見破るどころか、囮として配置した男を簡単

に一蹴し、自分にもあっさりと気が付いた。

 何より腹の立つ事に、気付かれた上で自分は放っておかれたのである。それは公爵側から言わば戦力外で

あると通知されたに等しいと感じた。かつてこれほど愚弄された者がいただろうか。おそらく人類全体で考

えても、そうは居ないに違い無い。

 ならば自分はそれを覆すべく力量を示さねばならない。そして後悔させなければならない。それこそが唯

一自分の誇りを取り戻す手段なのだ。そうしなければ、この職種内での自分の評価が無惨に落ち込んでしま

う。これからの仕事の為にも、それだけはどうあっても避けなければならない。

 幸いにも依頼人であるジークナルドからは更に一段上の依頼を受けた。もう、目として静まっている必要

も無い。

 そしてあの黒髪の男に自分を放っておいた事を必ず後悔させてくれよう。

 目とリヒムッドが呼んだ者は今はもう全身を現し、その肢体をしなやかに律動させていた。そして暫くの

間、まるで遊んでいるかのように回った後、静かに暗闇へと溶け込んでいった。



 一方、エレインを護るリヒムッドも当然エレインに付いていた。しかし今日は何処か不穏な気配を彼は敏

感に感じ取っていた。しかも目の気配も消えているのである。そうなると自然、胸奥を特別な緊張感で満た

された。こんな時は大抵ろくな事が起こらない。

「確かに居るはずなのですが・・・」

 勘のようなものでそれだけは解る。これは長い経験から来るものであって、人が平素言うよりも遥かに現

実味のあるものだ。事象、気配、雰囲気、流れ、そう言ったモノを脳が過去に照らし合わせ、そこから最も

確率の高い答えを弾き出す。人の脳の能力は、思うに本来は人の能力を超えている。だがその力量を認識し

ている者は少ない。

 元々ヴァンパイアの力も人を超えたモノでは無く、本来の脳と神経の力を最大限に引き出し。またそれに

肉体が耐えられるようにしただけのモノだと言える。そう考えれば、神話の化物も所詮は人の範疇でしかな

かったのかも知れない。亜人、超人も所詮は人の中に存在する。

 ともかく、リヒムッドはその勘で敵対する誰かが居る事だけは認識出来た。

「ただの監視者である事を願っていたのですが。それはやはり甘い考えでしたか」

 彼にしてみれば、別にあの目を侮っていた訳では無く。逆にその力量が高いからこそ、触れず放っておい

たのだ。ステルス技術だけなら彼と同等くらいには評価しているつもりだった。

 その敵者がどうやら目の役目だけを果たすつもりでは無くなったようである。

 そうなれば、リヒムッドも今まで以上に警戒せざるを得ない。その上エレイン自身からも注意を逸らす訳

にはいかないのだから、この作業は困難を極める。ただエレインに危害を加えないだろう事は、今も変わら

ず確信が持てた。救いと言えばそれだけは救いだろうか。

「さて、ここからは我慢比べでしょうね」

 リヒムッドは軽く心中で溜息を付いた。

 些細な物音も立てられないと言うのはストレスが溜まるが、今は仕方が無い。それはこう言った仕事、い

や作業をする者の定めであろう。 

 彼はただ精神のみを研ぎ澄ませ始めた。




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