一夜明け、アーデリー郊外医院には再び活気が戻っていた。とは言っても、医療業が上手くいっていると 言う事では勿論無く、単に現在の住人が全て揃ったと言う事である。つまりは、博士、リオン、リシアの三 名が。昨晩は不思議な事にリオンだけがこの医院に居ると言う事態が起きたのだが、幸いにも少年には何も 被害は無く、そう言う意味では無事に終った。 博士も以前から夜は常にこの医院に居ると言う訳でも無かったのだが、外出時にはきちんと何かあった時 の為に手は打っていた。しかし最近はリシアと言う僕がリオンに出来た為、どうやら博士の警戒心も薄く なってしまっていたらしい。 「間違いを起こす前に反省しなければなるまい」 博士は最近のお気に入りである揺り椅子に腰掛け、静かにそう呟いた。何にでも須く長と短と言うモノが あり。安心とか言うモノにも警戒心を怠らせると言う短所が付き纏っている。煩わしい事ではあるが、これ も全ては陰陽からなりたっているとの証明なのかも知れない。 博士はあまりそう言う土着信仰は信じない性質ではあるが、実体験を繰り返すと何にでも多少は学ぶべき 所があると、そんな風には思えてしまう。 「しかし昨晩来るとは、これは失態だったかも知れんな」 博士はすでに昨晩の来訪者の事をリオンより聴いていた。博士が警戒心を強めるきっかけとなったのはそ の事があったからでもある。幸いその人物に博士は心当たりがあったのだが、しかしそれが招かれざる来訪 者であった可能性もまったく否定は出来ないのだ。 少年の部屋にはある種のプロテクトをかけてあるのだが、それも来訪者を判別し、撃退してくれるなどと 言う魔法めいた代物でも無い。単に窓や扉が頑丈に厳重に作られていると言った程度であり。困った事に現 代では戸締りを強化するか、その戸と鍵自体を強固にするくらいしか方法が無いのである。 そう言う守る為の技術もヴァンパイアの脅威を受けて、情報の消失時から比べれば遥かに進歩し、技術を 取り戻しつつあるとは言え。それもより複雑な鍵を作れる、と言う程度でしか無かった。 「リヒムッドが私と交代でも居てくれれば助かるが」 そう言う訳で、最も良い防御手段とはやはり人間となる。いつの時代でも腕利きの信頼出来る人間こそが、 最も適した防衛法なのだろう。その点において、博士の知る人物の中ではリヒムッド程適した人物はいない だろう。 しかし彼も常時リオンの傍に居る事は出来ず、そもそもがだからこそ博士へと預けられたのだ。 「やはり難しいものだな。しかしあの女もおかしなものだ」 通常ヴァンパイアとなれば、そのマスターたる始祖に絶対的な熱情を抱き、その傍を片時も離れたがらな いものなのだが。 「心だけの繋がりなど、所詮は虚しいと言う事か・・・」 その理由を探せば一つしかあるまい。それはリオン少年とリシアの間には肉体的な関係がまだ完全には無 いと言う事である。心と身体、このヒトに与えられた全てを使わなければ、如何に始祖といえども完全に 虜とする事は不可能であるようだ。 そしてそれは誰よりも博士自身が一番良く解っているはずだった。 「下らぬモノに拘っていても仕方が無いと言う事か」 博士はリオン少年の為にまた一つ決断を下す。多少不愉快であっても、博士は必要とあればそれに拘らな い。何しろ博士自身が貞淑とは無縁の存在なのだから。 嫉妬以上に虚しく、そして無意味な感情が他にあるだろうか
その頃、リオン少年は自らの僕となったリシアから外出時の話を聞いていた。この一室から出る事の許さ れない彼にとって、外での出来事は何よりのご馳走であり楽しみである。 人間と言うモノは変化を絶えず感じていないと、精神的にも肉体的にも衰えてしまう種族のようだ。そし て何よりも生物は古来より変化を熱望している。 それを端的に現す代表と言えば、退屈。つまり変わり映えのしない淡々とした行為、又はそれに基づく繰 り返しの言動。それは飽きる、と言い換えても良いかも知れない。 もっと言えば、人間と言うモノは常に新鮮な刺激を求めているようであり、一定の刺激を与えられ続けて もそれから得る感動は見る間に萎んでしまう。 しかしそれは諸刃の剣でもあり、甘美な刺激は不可思議にも常に危険が伴う。だから人は本能的な危険回 避として、それを自ら体験するよりも傍観者である事を好む。他人の不幸は蜜の味、それはこれを上手く表 した言葉と言えるだろう。 リオン少年はそんな下世話な事を思っている訳では無いのだが。変化を渇望する気持は同じであるらしく、 唯一の彼がそれを得る手段として人から得る話を好むのである。新聞などの読み物から得る手段もあるには あるが、やはり生身の情報を直接聞くには及ばない。それから得る、刺激、と言うモノが。 「そんな事があったんだね」 少年はリシアの髪を優しく撫でながら彼女の話を熱心に聴いていた。 リシアはうっとりとした恍惚の眼差しで少年を見上げている。今は二人は共にベッドの上に横になってお り、自然に抱き合うような形になっていた。美術的感性の持ち主であれば、又は詩的感性の持ち主であれ ば、この情景に耐え様も無い情感を強く惹かれたに違い無い。 美しいモノが絡み合う姿はいつの時代も人間を魅了する。特に男女のそれはまるでお互いの欠けるものを 補うように、また長所を相殺しあうように、極限の高みとそれに伴う危うい儚さをも同時に思わせ、えも言 われぬ風情を生み出す。 しかしそれは同時にどこか背徳にも似たモノを感じさせ、それをそのまま美術として現す事はあまりされ ない。だがそれを少しでも欲するのか、裸婦画などのように片方だけを抜き出し描かれた美術品は多い。そ れで本当にその芸術家の感性を満足し得たのかどうか、それは解らないのだが。 まあそんな事は当然この二人には関係無く。ただたおやかに二人の時間を感じている。 「そう言えばリシアさんがいない時に不思議なヒトが来ました」 リオンもリシアに彼女が外出していた時にあった事を話した。あの陽炎さんと出会った事を。 「そんな事があったのですか・・・」 しかしリシアにとってみれば話の内容等はどうでも良かった。リオンが彼女に話してくれると言う事が重 要であり、突き詰めて言えば彼が自分に対してその限られた時間を割いてくれていると言う事が、それのみ が絶えようも無い感覚を彼女に与えてくれるのだ。 それは例えるならば身体中に温かい心が染み入るような、細胞一つ一つが奥底から満たされて行くような 充実感。今ここにいて良かったと心から祈れる瞬間。 例えそれが子ウイルスと呼ばれる彼女の身体に巣食うモノが齎(もたら)した感覚であれ、それが一体 なんであろうか。例えそう感じるように仕組まれたとしても、そこから感じるモノは紛う事無く現実であり、 真理であり、そして何よりも確かな現在と言う時間である。 小難しい理屈等はいらない、その場その時感じるモノが所詮は人間にとって全てであるのだろう。 そしてそんな二人の世界に干渉する事を恐れるような、柔らかなノックが響く。 「博士かな」 少年は嬉しそうに微笑む。それを見ただけでリシアもとても嬉しそうに淡い吐息を洩らした。 「入るぞ」 枯れた声が響き、いつものように少年の世界への入口が静かに開かれる。 そこには仏頂面にも似た表情と共に、この医院の主であり現在の少年の保護者でもある博士の姿があった。 そして少年もいつものように途方も無く美しい微笑で博士を迎えたのだった。 |