3-5.嘆き虚空


 博士は出掛けた。

 今は昼に向かい太陽が高くなるばかりの時間帯、博士には一日で最も似合わない時間なのだが、いくら愛

おしい相手が対象であっても、博士にはそれを覗き見する趣味も聞き耳を立てる趣味も無い。

 そして博士は医院への扉へ、休業中、の札をかけ、鬱蒼と歩き始めた。彼はどうにも昼間に見るとそんな

感じである。夜に見るあの怪しいまでの美しさとはかけ離れているように思えるのだ。流石の博士も所詮は

夜のイキモノのである、と言う定義からは逃れられないのだろうか。

 人ならずとも、全ての存在はそれをそれたらしめている属性とも言える定義が存在する。言ってみれば、

それが人間とヴァンパイアを区別しているモノであり。それが無ければ物質的には人もヴァンパイアもさほ

どは変わらない。

 全ての物は所詮決められた範疇でのみ存在を許されるモノなのかも知れない。それには飛翔と言った急進

的なモノも向上と言った漸進的なモノも含まれないが、その分変わらない故の朽ちた安心感はある。変化を

閉ざせばその生物はそこで終ってしまうのだが、人の例を考えてみても、あまり技術が進歩すれば良いとい

うモノでも無いように思える。

 もしくは進歩と進化と言うモノは根本的に違うのかも知れない。進むだけで変わらないモノは、所詮は破

滅へ足掻きつづける事と、或いは何の違いも無いのかも知れない。

 勿論博士はこのようなくだらない事を考えている訳では無く、もっと下らない事を考えていた。

 つまりはリオンとリシアの事である。

「私にもまだ人の心が残っていたか。どうせ朽ちるのならば、いっそ消え去ってしまえば良かったものを」

 そして思う度に博士を嫉妬と言う彼の考える至上に下らないモノに悩まされるのだ。彼の感覚は鋭敏な割

にはその感情はすでに老いてしまってはいるのだが、しかし生と言うモノは常に人を迷わせるモノを人に残

し続けるモノであるようだ。人が解き放たれるのが死であると、そう考えた宗教もそう珍しくは無い事も、

そう考えれば頷けるかも知れない。

 解脱、何と甘美で愚かしい響きであろうか。人を捨てたい人間など、すでに人では無いであろうに。

「日は高いが、私も誰かに褥に付き合ってもらうとするか」

 太陽は博士を貫き、大地に影を貼る。アーデリー郊外も日が昇りきるまではまだ平和な時間である。

 そしてリオンとリシアはその平和と言う二文字を一番享受出来る時間を、今頃は二人きりで過ごしてい

るのだろう、あの部屋で。

 あの部屋ならば昼間でも薄暗く、かえって昼間の方が雰囲気が出るのかも知れない。

「しかし私もやる事が無い訳でも無い」

 博士は不思議な溜息を付いた。喜んでいるようで疲れているようで、それは溜息と言えるのかどうか。

 博士は考える。

 確かに彼にはやる事が無い訳では無い。そして気になる事もあった。

「こういう時にもリヒムッドが居れば良いのだが」

 リヒムッドと言うのはやはり非常に便利な存在である。情報能力もあり、ガードとしても優秀、尚且つ

信頼出来ると言う存在は皆無に等しいだろう。

 だがしかし。

「いくら役に立っても、必要な時にいないのでは役に立たないのと同じだな」

 そう言うことである。それにどんな価値があろうと、使いたい時に使えないのでは無価値と同じ。路傍の

石にも満たない存在だ。

 そして博士は今度は正統な溜息を付いた。誰が見ても嘆息している。



 博士は結局は自らの足で稼ぐ事とした。

 リシアも今行っているであろう甘美な一時を終えれば、それで完全な下僕と化す。そうなれば万が一にも

リオン少年と離れる事はあるまい。それは多少皮肉にも博士に行動の自由が増すと言う事でもあった。

 知りたい事は多いのだが、取り合えず待ち人へと出向く事とした。昨晩出迎えられなかった非礼も詫びね

ばならない。彼女には流石の博士も敬意を払わない訳にはいかないだろう。

「それに見返りもある事だ」

 彼女に会えば至上の一時が味わえる。あれほどの艶技を習熟しているのは始祖を除けば博士か彼女くらい

のものだと思う。その点のみで言えば、現段階では或いはリオン少年よりも魅力があるとも言えた。

 始祖が時を積み、その魅力を充分に解放出来るようになれば、どの生物であっても美を少しでも感じる者

ならばその前に跪くしか無いのだが。しかし今のリオンではまだまだ経験が足りない。リシアとの事で多少

はスキルアップするだろうが、それもまだ先の話になるだろう。

 リシアとリオンの関係を納得し開き直れば、今度は不思議な事に嫉妬心よりも彼の成長を期待する方に心

動き、関心を持ってしまう。

 だがそう思えば尚更自分が彼を味わえないのが惜しくもある。

「まあ仕方があるまい。リヒムッドとは敵対したくは無いからな」

 博士は呟く。最も強力なヴァンパイアである自分が勝てない相手などさほどいないのだが、しかしどうに

もリヒムッドとは戦いの相性が悪いように思える。よく解らないが、負けはしないが勝てもしない。争えば

最後はそんな不思議な結果となるような気がしている。

 リヒムッドとはつまりそう言う底の知れない相手であった。リオンと共に歩む限り、決して敵対しない事

は確かではあるのだが

「私がリオン君を敵視する事などあるはずが無いがな」

 博士は笑う。

 いつの間にかリヒムッドを分析しようとしている自分が居る。それは紛れも無く興味を抱いていると言う

証であるだろう。

「しかし誘おうにもあいつには時間が無い事であるし」

 リヒムッドが落ち着いているのを見るのは、博士の知る限りはおそらくリオン少年の傍に(例え間にドア

を一枚隔てていたとしても)居る時のみであるだろう。しかしそれも小一時間にも満たない僅かな間。それ

以外は常に忙しく雑務に追われているように思える。

 博士の推測するには、リヒムッドは個人で動いているのでは無いと思える。その上、もしくはその横に繋

がりのある人物がいくらかは居るはずだ。彼の情報力には少なくとも組織を感じる。しかしそれは国家的な

ものでは無く、私的な組織である事も同時に感じるのである。

 それはリヒムッドが多忙過ぎる事からも察せられた。人手が充分であるならば、そもそも彼がリオン少年

の傍を離れる訳が無く。少年が隠れ住むにもっと相応しい場所も用意出来るであるだろう。国家的な組織で

あれば、そう言う点に置いてまず困る事は考えられない。

「だが、果たしてそんな都合の良いモノがあるだろうか」

 私的で国家的なモノに匹敵する情報力、それは考えられるとすればよほど高位の権力者が統括していると

言う事になる。しかしそんなモノがある噂も博士は聞いた事が無い。

 どんなに秘密にしても何かしらの大きな力があるとすれば、それはどうしても人の噂に上る。どんな力を

行使しても決して人の口を封じる事は出来ないのだ。ましてや情報に聡い傭兵やヴァンパイアハンター達が

集まる、このアーデリー郊外で噂にならぬとあればその存在などは尚更信じられない。

「まあ、興味はあるが。私が知る必要は無い事だ」

 自分はただリオン少年を護っていれば良い。

 博士は一つ頭を振ると、後は無心で目的地を目指した。




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