死天なる存在はこうして何処へとも無く消えてしまった。 いや、もしかすれば初めから居なかったのかも知れない。死天に関する何もかもが、その盗まれた至宝さ えも幻であったのか、一つとして誰に解る物は無かった。 ただクロケット宝石店の主、ジョシー=クロケットは今も倒れたまま唸っていると言う。それを考えれ ばクロケット宝石店の損害だけははっきりとした事実であるのだろう。 考えてみれば死天の標的となった至宝はほぼクロケット宝石店から奪われている。それも女王に関係する ものばかりであった。そこに何らかの関係を見出し、一つの推論を立てるならば、或いは死天と言う存在は あのリグルド公爵の手によるものでは無いだろうか。 現在、女王と公爵が政権争いを行っている事は誰の目にも明白であり、アーデリーの隅々にまで知らぬ者 はいない。それはまるで娯楽の一つでもあるかのように、毎夜市民の間で面白おかしく話の種にされたりも している。その市民達の間での専らの噂が、死天が公爵の手によると言う突拍子も無い話であった。 だがこの話、ありえないとも言いきれない所が面白くもある。 公爵の方はと言えば、この噂に対して何も言及していない。勿論女王側も何も言っていない。
アーデリー市内警備署でも多種多様な噂が流れていた。 そして何よりも彼らは死天が消えた事に深く安堵している。結局彼らは死天捕獲に対して何の役にも立た ず、死天が現れる度にその評判を落とす一方であったので、あちらから勝手に消えてくれてこれ幸いと喜ん でいるのだ。 最早警備官達に死天を逮捕しなければならないと言うプライドは微塵も無い。それはどう足掻いても自分 達には無理だと悟っていたからであり、現に一人だけ情熱を失う事の無かったアーネード=ラウドスが、 皮肉にもそれを証明してしまう結果となってしまった。 しかしアーネードがほんの少しでも死天に近づけた事も間違いは無く、失意に陥り死人のようになってい る彼の心情を反して、彼の評価は大きく上がっていた。おそらくアーネードは近々昇進するに違い無いだろ うと言われている。 後、アーネードが死天の残骸と言っていたおかしな小箱の事だが。これもまったく手がかりが無く、とり あえずは上層部へと納められる事となった。死天を直接捉える事は出来なかったが、死天に関する唯一の物 と言う事で、これに対して少しばかりの賞金も出たそうだ。 勿論、死天は未だ特等賞金首のままである。 死天が捕まり、公開処刑にでもされない限りは一度かけられた賞金は消える事は無い。賞金首とはそう言 う存在でもある。
しかしこのまま時が流れれば急速に死天の事は人々の間から忘れ去られていくだろう。 盛り上がりは大きければ大きい程、それが萎む速度も速い。これもまた人間の歴史であり、人間のシステ ムと言う奴なのだろうか。 死天、この何から何まで不明瞭であった存在は、結局最後まで不明瞭のままであり、言ってみれば本当に 消えたのかさえも不明瞭に終った。もしかすればまた何処かに現れるのかも知れない。 そしてその存在に何か意味があったのか、それを知る者もおらず、知る術も無かった。 ただ一連の死天騒動に決着のようなものがついた事は確かであるようだ。少なくとも今の所は。
リオン少年は傍らに今まで読み耽っていた新聞を置いた。 死天消ゆ!、見出しにはそう太い字で書かれている。 「まるで陽炎さんみたいだ」 ぼんやりと一度だけ会った、あの陽炎と少年が呼ぶ女の顔を思い浮べてみる。あの人もまるで初めから何 も居なかったように、後には何も残さなかった。直に接したリオンですら、彼女が消えた後、本当に今ま で彼女が居たのかと聞かれたら、少し自信なくも答えるに違い無い。 初めから居たのか、それとも居なかったのか。 けれどもそんな事は大して重要な事でも無いように思う。彼女がそう言う存在であれば、それはまたそれ が自然の姿であり、理でもあるのだと。 「ううん・・」 少年の横に共に侍っているリシアが艶っぽい吐息を洩らした。 ある時からずっと二人はこのように寝台で戯れている。何度も何度もその行為をし、今では少年も慣れて きたのか、多少女の香をかいでもその身に触れたとしても、以前よりは落ち着けるようになっていた。 かと言って自信があると言う所まではまだまだいかない。 女に接する事に慣れてきたとは言え、腫れ物を触るかのような緊張感は抜ける事は無く、その慣れもまだ 可愛いものと言える。 博士もあの日からはあまり少年の部屋に来る事が無くなり、それはどこか少年達に遠慮しているようにも 見えた。おそらく嫉妬心など色んなモノが混ざった結果なのだろうが、でもリオンにはそれが何故なのかも 解らない。 解る必要も無いかも知れない。何故ならば始祖とは、始祖ヴァンパイアとはそのような存在なのだから。 全てを魅了し、全てを従え、全てをその僕とする存在。言ってみれば、美と魅力の化身であるのだ。愛は 常に無限に与えられる。例えそれが始祖が生み出させた感情だとしても。 「喉が渇いたな・・・」 少年はその代償として彼に愛奴達が与えなければならないモノを得る為。血牙を付け、リシアの首筋へ とその唇を淡く触れさせた。 「んうッ」 リシアの唇から苦悶とも恍惚ともとれる生ぬるいモノがゆっくりと吐き出されて行った。
博士は現在彼の私室に居る。 今頃は少年達はまた褥の奥であろうか。やはりそう考えれば口惜しくもある。だがそれもまた少年にとっ て必要な事であるには違い無い。 「老いれば心は安定するものと思っていたが、そんな単純なモノでは無かったか」 そして博士は一人苦笑する。長い時間の流れ、それは人の心を研磨し、刺々しさを消すものと思っていた。 しかしそれは刺を削る程には到らず、かえってその刺を益々鋭利に磨き上げる結果となるものらしい。 とすれば老いは人を狡猾に、また人を同じだけ幼児化させてしまうのだろうか。そう考えれば老いとはや はり百害あって一利無しのモノでしかない事になる。 「虚しいものだ・・・」 博士は先程のリシアとは別の意味の吐息を洩らした。 「まあ私も愛を語る相手に不自由している訳でも無い。嫉妬心などつまらんか。それよりも・・・」 博士は少年の読んだ物と同じ日付の新聞を開いた。 「死天消ゆ、か・・・。思ったよりも早かったな、だからあまり遊ぶなと忠告したものを」 そしてその新聞を置き、立ち上がって開いたままの窓へと近付く。 「そろそろお迎えが来る頃だろうか」 博士は窓を閉め、今宵の相手を物色すべく、医院からその姿を消した。 アーデリーには霧が降り始めている。
第三幕 了 |