元帥府の設立が元帥の一番大きな特権であると考えられる。 それは言ってみれば小政府であり、幕僚を自由に決める事が出来、その中でのある程度の人事権も得られ ると言う便利なものである。人との連携が重要になる軍と言う集団職では、いや例え軍でなくともこれは とても重要かつ効果的なモノであるだろう。 元帥も王の家臣ではあったが、実質的に軍を支配しているのは最高位であるこの元帥であると言えた。 マクレガー家が貴族達より距離を置いているだけに、或いは軍の中では王を凌ぐ権威と信望を集めている のかも知れない。 現元帥であるガリオン=マクレガーもそんな空気の中に一種超然と君臨していた。 彼の屋敷も所謂貴銭街には建てられておらず、最前線とも言える地にと敢えて建てられている。しかもマ クレガー家の持つ屋敷は一つでは無く、あらゆる場所に建てられていた。それはこの一族が代々精力的にそ の役目を全うしていた事と、もう一つはそれだけ大きな資金力がある事を示している。 この元帥家には、正に小国王と言える程の力があるのだ。
「元帥閣下、お呼びでございますか」 そのガリオン元帥の私室に一人の男が呼ばれた。 彼こそがガリオンの片腕とまで呼ばれている男であり、最も信頼されている男でもあった。勿論その力量 も優秀としか言い様が無い。 体格の良い男で、長い黒髪が肩筋を過ぎ肩甲骨の辺りまでゆったりと下がっているのが特徴的であった。 「テルピアか、忙しい所をすまぬ」 「いえ、何を仰いますか、勿体無い」 テルピアと呼ばれた男は平伏にも近い姿勢を取った。大げさにも見えるが、それほど元帥に敬意を払って いると言う事なのだろう。生真面目な男であるようだ。 「私を呼ばれたと言う事は、あのお方の事でございますね」 「そうだ、息災にしておるか」 「はい、信頼のおける者の手に預けました故。病を負われる事も無く、健やかに成長されております」 「そうか・・・」 元帥はゆったりとした、しかし何処か哀しげな微笑を浮かべた。 「元帥閣下、それは誰のせいでもございません。ああなってしまわれては、最早人の手にはおえぬ存在で ありましょう」 「解っておる。だが妻亡き今、あやつだけがわしの血を、いやマクレガーの血を継ぐ唯一人の者だ。その分 妻にもあれにも苦労をかけた。ああと生まれた以上はせめて静かに暮らさせてやりたい。例えマクレガーが わしの代で滅びようとも、そんな事は些細な事だ」 マクレガーの名を冠する事が出来るのは、当主とその夫人、そして嫡男だけである。例え何があってもそ れに例外は無い。 「はい、存じておりますれば」 「だがだ、お前のようにわしの心を理解するものは少ない。マクレガーなどと言う最早何の意味も為さない 存在でも、必死に残そうとする輩がおる。更にはあやつの力だけを求める者まで出てきておるようだ。テル ピアよ、こうなってはお前だけが頼りである」 「勿体無いお言葉であります」 テルピアは再び平伏した。 「あやつと、そしてあの娘を守ってやってくれ。頼む、テルピアよ」 「ハッ、この命に代えましても」 テルピアはその内に更に決意と言う焔を猛々しく掲げたのだった。
アーデリー市には多種多様の人種が存在する。正にあらゆる意味で。 そんな中には当然のように人に言えないような始末の悪い仕事を糧としている者もいる。レイル=セーン ド、彼もそんな一人であった。 彼は簡単に言えば女性専門の詐欺師であり、専ら金持ちのご夫人方に取り入って散々に貢がせ、用が済め ば捨てる。ご夫人方もその肩書きのせいで事を公にする訳にもいかず。こう言う職種の者達は暗殺を防ぐ為 に、それぞれに情報交換もしている。つまりはご夫人方からはまったく手が出せないと言う事だ。 そんな、所謂ヒモと言われる美味しいとされている存在である。いや、もしかしたら詐欺師と言う程、そ う言えるほどの存在でも無いかも知れない。世間的にはそんなちっぽけな小悪党の一人だ。 この男、特にこれと言って長所を持たず、愚鈍とも言える人間であったが、ただ一つだけ誰にでも誇れる モノを持っていた。つまりはその類稀なる容姿である。 彼の美貌は始祖ではないか、そう思われる程に妖しいまでの美しさなのだ。 そんな彼にとってこの仕事は天職であり、それ以外には無かったと言って良い。 この時代、ある程度市民は裕福になっているとは言え、それでも全てが救われていると言う訳でも無く。 不幸な人間も数え切れない程存在する。だが、このアーデリーの繁栄はそんな者達の犠牲の上に成り立って いる事を知る人間は少ない。 彼らからすれば、ご夫人から援助していただくのは当然、そんな意識なのかも知れない。
レイルは今日もさるご夫人の寝床からようやく解放され、昼下がりの街並みをぼんやりと歩いていた。 特に生きる目的がある訳でも無い、何か目標がある訳でも無い、ましてや生甲斐などあるはずも無い。そ んな無い無い尽くしの人生を、ただぼんやりと生きている。 「さて、今日はどこに厄介になるかな」 貴族階級、富豪の商人、そんな人種の妻か娘になってしまうと、それはもう不幸を背負わされたも同じで あり。例外もあるが、ほぼ愛情の欠片も無く、ただ政治の為に子を創り、産ませられる。そしてそれが済め ば最早彼女達に用は無く、後は身を着飾るしか無いだけの当ても無い人生。 御夫人方は退屈で退屈で、何かにいつも飢えている。そんな奥様方の絶えず溢れるこの貴銭街で、彼ほど の美貌であれば、相手を探す事は容易いだろう。 「でもたまには一人で酒でも飲みたいかな」 しかしレイルは気が変わったのか、馴染みの安酒場へと向かった。勿論、そういう場所にはご婦人達が 寄るはずは無い。ただ、たまにこうして隣の御婦人を気にせずに飲み耽る事が、彼の唯一の楽しみであった。 毎日おべっかを使うだけでは舌も疲れると言うものだ。 「お、レイルか。相変わらずお前は景気が良さそうだな」 顔見知りとなったウェイターが彼を見つけ、早速話し掛けてくる。何しろレイルの美貌は目立つ、店に入 ればすぐに解るのだ。 「ご婦人のお相手をして、更にお布施までいただけるのだから、まったくこんな美味い商売はないわな」 ウェイターは乾いた笑い声を発した。不思議に目立たない笑い声である。 「そんなに良いモノでもないよ。面倒だし、ご夫人もそれほど美味いもんじゃない」 「まったく、贅沢な奴め」 ウェイターは適当に飲み物を持ってくると、そのまま自分もテーブルへと座った。どうやらあまり仕事熱 心なタイプでは無いらしい。 「よく首にならないね」 「そこはそれ、上手くやるのさ。そんな事よりもレイル、お前知ってるか?」 「何を?」 「いやいや、何でもあのリグルド公爵の奥様が、近頃この界隈に来ているらしいぜ」 「そんな馬鹿な!」 公爵夫人はその子供を無くして以来、一切外に出ていないと言う噂だ。この貴銭街に居る人間ならば、そ んな事は誰でも知っている。特にレイルのような商売をしていると、そう言う噂は嫌でも耳に入って来る。 「ああ、だから俺もあんまり信用してないんだけどな。でも、本当だったら面白いだろ。狙ってみるかレイ ル、何せあの公爵夫人だぜ。おそらく貴族の女共の中では一等に美しく、何より呆れる程の金持ちだ」 ウェイターはまた乾いた笑いを洩らした。 「そうだね、それが本当なら・・・」 本当なら面白いかも知れない。それほどの相手ならば、或いは面白いかも知れない。 乾いた笑いの中で、レイルは久しく絶えていた感情が浮かび上がってくるのを感じていた。 好奇心と期待心が交わる。なんと甘美な心持なのだろうか。 |