レイル=セーンドは密かな楽しみを見付けた。 嘘のような気分であったが、見付けてしまったのである。そう、あの公爵夫人を。 彼のような人間が公爵夫人などと面識がある訳では無く、昔に新聞のモノクロ写真で数度見たに過ぎなか ったのだが、不思議に良く解った。 解ってしまうのである。その高貴な気品、そしてそれよりも更に薫るその美貌。もう30も半ばの年齢で あるはずだが、まったく彼女の美貌に衰えた様子は見えない。 長く部屋に篭っていた所為であろうか、その表情はどこか精彩を欠くモノであったが。それはそれで品の 良い翳りとも言え、レイルから見ればそそられるものもあった。 「・・・・・・・」 静かである。 如何に高級酒場とは言え、喧騒が無い事はまず無いのであるが、しかし静かであった。誰もが何かに遠慮 しているようで、厳粛な儀式でも行っているかのように、物音を立てる事が憚られるのである。 それはこの公爵夫人の不幸を誰もが知っており、そしてこの夫人に勿体無いながらも誰もが同情の意を持 たせていただいているからかもしれない。 「本当に居るなんて・・・」 レイルは呆然と彼女を眺めた。 そしてそれ以上は何をする事も出来ず、その日は早々にその場から退散した。 何故か逃げるように。まるで逃げるようだ、彼自身もそう思ったのだった。
レイルは毎日のようにその酒場へと足を運んだ。貴族夫人、令嬢のコネがあればその女達に付けてただで 飲み食いが出来る。そうする事で、高級娼婦、高級男娼、などなど高級の名の付かないモノは入れないよう な胡散臭い場所にでも、彼はある程度は自在に入る事が出来た。 それに彼はある意味その手の同業者からも一目置かれる存在である為、例え今手持ちの金が無くても入れ てくれるかも知れない。レイルならばいくらでも女からお金を引き出せると、その容姿をただ一目でも見れ ばすぐに解るのだから。 ただ意中の公爵夫人とはそれほど会える事は無かった。 月に数度会えれば良い方で、時には数月現れない事もあった。それは彼女に目当ての男がいない事も意味 し、逆に会えない事もレイルはひどく嬉しかった。不思議と嬉しかったのである。 「レイル、今日は来ておられないよ」 その高級酒場の店主とも随分仲良くなった。 「そうみたいだね」 「しかしあのレイルが一人の女に入れ込む日がこようとは。しかも今だ指一本触れちゃいない」 表情に翳りを落とすレイルを見て、店主は楽しそうに笑う。 「・・・確かに、不思議だね」 「まあ、人間って言うのはそんなもんだよ。レイルも人間と解って安心出来たと言うもんだ」 「なんだよ、それ」 「いやいや、わたしもいずれ血を吸われるのではないか、とね」 「そんな事言うおっさんはあっち行って」 「はいはい」 それなりに人の良さそうな店主は微笑みながら店奥へと戻って行った。よほど可笑しいらしく、その笑い 声は暫く店内に響いてはいたが。 「レイル=セーンドが女を待つ身になるなんてね」 レイルもだんだん可笑しくなってきて、一頻り笑って店を出た。 そういった事まで愉しんでいる自分を訝しがりながら。
ミルフィリア=レーンフィールは悩んでいた。 それは他ならぬ実の母の事である。 父であるリグルド=レーンフィールはあまり家庭に興味を示さない人物であるが、しかし彼女が知るよう な事は、とうに彼の耳にも入っているはずだ。 それをミルフィリアが知ったのは、彼女の家庭教師であるエレイン=レーンフィールによってだった。 実の母の事すら他人越しにしか耳に入らない、これこそが彼女の今の暮らしを物悲しく物語っているのだ が。しかし今、そんな事よりも問題なのはその聞いた噂である。 何という事だろう。彼女の母、セルビア=レーンフィールが最近とある高級酒場へと顔を出しているなど とは、初め聞いたときはまさかと思った。有り得ない事だと。 勿論、貴族の子女や妻などは良くそのような酒場へと出入りしている。ミルフィリアも彼女の母の事でな ければ、別に何も思わなかっただろう。 しかしセルビアはもう十数年も自室に一人で篭り、外部との、いや身内でさえも接触を最低限度のモノ以 外は絶って来ていたのである。ミルフィリアが誕生したその日から。 「まさか、まさかお母様がお部屋から出られるはずがありませんわ」 だからミルフィリアはその事が信じられなかった。 しかしセルビア付きのメイドにも確認してもらうと、どうやらそれが本当の事らしいのだ。 「どうして、どうして今になって・・・」 不思議であったが、彼女としては母が前よりも生きる気持になってくれて嬉しくも思う。例え母に疎んじ られていても、いや疎んじられるからこそ母が恋しい。自分を子供として愛して欲しいと願ってもいる。ミ ルフィリアは両親も誰も欠片も恨んではいない。 例え幽閉に近い状態にされても、それは仕方が無いと思う。始祖なのだから、始祖ヴァンパイアだから、 それだけで充分な理由になるのだから。 だからそれだけならそれで済んだ。しかし、しかしただ一つ大きな問題があるのである。 そう、そんな母を父リグルド公爵が放って置くはずは無い。噂はもう広く知れ渡っているはず、それだけ の大ニュースなのだから。そうなると自然、父は母を社交界に再び出さざるを得なくなる。 暫くは、まだパーティに出られるほど回復していない、酒場へ行かせているのは言ってみればリハビリの ようなものだと、そう言い逃れられるかも知れない。しかしそれも一月も言い続けられないだろう。 そうなると父はどうするだろうか。父は元々母をそれほど愛してはいない、おそらく利用価値も少ない分、 今の自分に対してよりも心を割かないだろう。 つまりは邪魔である。リグルドにとってみれば、死ぬまで閉じ篭っていてくれた方がありがたかったのだ。 ミルフィリアはそんな父の残酷さを痛いほど知っている。 「あの人は利用価値以外のモノは認めようとしない人ですもの」 今のままならまだ良い。面倒が増えると思うかも知れないが、リグルドはそれでも体面の手前、或いは母 に(その心には無いが、上辺だけでも)愛を注いてくれるかも知れない。 しかしもし何か母が面倒を起こした時、あの父親は一体母に何をするだろうか。 ミルフィリアは震えながら、考えたくも無い想像(現実?)に苛まれるのを抑える事が出来なかった。 |