4-3.縋る物を求める想い


 公爵夫人セルビア=レーンフィールが外出を決意したのに特に理由は無かった。

 その時、その事に大して意味は無いのである。

 ただ一つ理由にも似たモノがあるとすれば、それは夫リグルドの事があるかも知れない。彼は彼女が十数

年も独りで篭っていても、それに手を差し伸べようとすらしなかった。それどころかまったく放って置かれ

たと言って良い。

 初めから愛など夫には無い事を彼女は感じ、それを婚約前からも予想はしていた。政略結婚でも愛が芽生

えない事は無いのだが、それはごくごく少数の夫婦だけの事であり。少なくとも彼女が聴いていたリグルド

の噂からはまったくそんな事は期待出来なかった。

 しかし、それもここまでとは思わなかった。

 この十数年慰めの言葉どころか、まさか一度として会いにすら来ないとは、考えられるだろうか。

 そういう鬱憤が溜まったとき、リグルドを少し困らせてやろう。そう思ったのかも知れない。その少し

の思いが更に鬱積し、今こういう行為に出てしまったのかも。

 考えられる原因とすればそれしか無い。

 彼女の頭からは娘の事はとうに消えている以上、娘が原因とは考えられない。いや彼女が望んで消したと

言えるかも知れない。初めから娘など産んでいなかったと、彼女の記憶はそういう風に上書きされている。

他ならぬ彼女自身の手で。

 だから原因はリグルドにあったとしか考えられない。

 だが今の彼女にはそれもどうでも良い事だった。

 楽しいのである。予想以上に楽しかった。人が自分を見て驚いた顔をする事、羨望の眼差し、熱っぽい視

線、その全てが虚ろな彼女を満たす。

 もう一度人間に戻れ、今再び彼女の時間が始まったように感じた。

 最早リグルドが自分を無視しようとそんな事は関係無い。自分は自分で人生を愉しめば良いのだと。

 思えば篭っていた日々は虚しいものだった。彼女は今はそう感じている。

「・・・・・初めからこうすれば良かった」

 そして彼女は今日何度目かの微笑を浮かべた。



 レイルはそんなセルビアを遠く無い位置で見ていた。

 そしてその笑顔を心底美しいと思った。正に生ある美しさだと。

 彼が思うに、初めて彼女を見た時はまだ何事か思う所があったのだろう。その表情にまだ暗いものを大

きく感じた。それが彼女の生来持っているはずの光を押さえ込んでしまっていたように思う。

 しかし日が経つにつれ、彼女を見る回数が重なる度に、彼女はより輝かんばかりに美しくなっていった。

 今かも知れない。生きると言う事を見詰めなおしつつある今、今こそが彼女に入り込めるチャンスであろ

う。彼の直感がそう告げている。

 そしてレイルは一大決心をし、ゆっくりと席を立ち上がった。

「よし、レイル=セーンド一世一大の大勝負だ」

 深呼吸をして服装を正す。

 いつもは多少の演技をして女を誑すのだが、今回は正直に接してみる事にした。例え失敗しても良い、彼

女の前でだけは演技などしたくないと、不思議な事にそんな事を思ったのだ。

「よし」

 レイルは軽く自分の頬を張ってから、ゆっくりとセルビアへと近付いていった。

 店内の全ての目がそれを見送る。



 それからこの二人の仲が深まるのにはそう時間がかからなかった。

 レイルは生まれて初めて女という存在に満足をし、セルビアは今までの心の空白を埋めるようにレイルを

愛した。彼女は本来は一途というか一つに熱中するタイプのようで、言ってみればレイルに完全に依存して

しまったようだ。そして相手を得る事で自然と笑顔が増える。

 しかしその笑顔を見ながら、公爵家に仕える者達は彼女の事をひどく心配していた。

 もはやこの二人の仲は公然に近い関係となっている。当然リグルド公爵も以前から耳にしているはずだ。

それをこんな状態になるまで放っておいた真意は解らないが、彼としては自らの威厳を守る為にも、自分の

妻をそのままにはしておくまい。

 誰もがそれを恐れた。

 しかしレイル側の人間、つまり娼館等に勤める者達は逆にこれを単純に痛快に思った。あのリグルドが妻

を寝取られたと、レイルを賞賛し、その手の少し品の悪い酒場まで行けばリグルドを罵倒する声が満ちてい

るのが簡単に見受けられる。

 何しろ彼らはレイル達とは直接には関係無く、リグルドの恐ろしさも知らないものだから、まったくいい

加減なものであった。そうしてリグルドを挑発する事がどれほど危険かを知らない。

 無知とはまさに罪である。

「大人しく閉じ篭っておれば幸せだったものを・・・」

 リグルドは私室にて雑多の報告を受けていた。今は、皮肉な事に十数年も名前すらろくに思い出さなかっ

た、彼の妻についての報告が多い。

 別に愛情も何も無かったが、形だけでも十数年も妻だった女だ。それなりの愛着は彼にもあった。だから

多少の事には目を瞑ろうと思っていたが、それも限度と言うものがある。

「思ったよりも馬鹿な女だったな・・・」

 セルビアは聴いた所、屋敷内では普段どおりを装っているらしい。どうやらあの女は自分がしている事が

どれだけ有名になっているかを欠片も解らないようなのだ。

 一般的に言えば貴族はその手の噂に聡く、その手の行為をする時は噂にならないよう上手くやるもの。そ

れが貴族の一つの手腕であるとも言える。

 しかしセルビアにはその手の感覚も無くなってしまっているらしい。そこには聡明だと言われていた当時

の面影がまったく無い。

 ここまで馬鹿になっていると、最早怒りを通り越して哀れでさえある。

「まあいい、あの女もとうに役目は果たしている」

 馬鹿な女だが、彼女はミルフィリアと言う存在を生み出してくれた。後はこの娘に始祖をあてがい、より

強力なヴァンパイアを産ませ、それを後継ぎとすれば良い。至高のヴァンパイア、レーンフィールは更に安

泰になるだろう。そしてその美と力で現世と闇夜の両方を統べる王となるのだ。

 そう思えば用済みの女を廃棄処分出来る良い機会かも知れない。

「ゲルドを呼べ」

 そしてリグルドはメイドを呼び、そう命じた。

 ゲルド=バイフォン、油断ならぬ男だが、こういう役には打って付けの男だ。後は上手くやるだろう。

 そして彼は自分に妻が居た事を忘れた。  




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