アーデリー警備署長、シュフェルム伯爵は優雅に過ごしていたのだが、ここ最近少しばかりの退屈を感じ るようになっていた。 彼は意外にも警備署長として有能さを見せ、その働きを見ても大いに賞賛に値するもので、生来慾の部分 が人と違うのか真面目に公平に職務をまっとうしているかに思える。警備官達も今ではこの伯爵に少なから ず心服している感さえあるほどだ。 しかしそんな事は伯爵には関係が無い。退屈なのである。そして何故退屈かと言えば。 「ロッティードよ、ここ最近は貴族感も紳士感も感じておらぬ。これは嘆かわしい事だ」 と言う事なのである。常人には理解出来ないが、彼には深刻な悩みでもあるようで、日に日に顔がやつれ ていくようにさえ思えた。 そして従者であるロッティードはそれを心配・・・する事も当然無く、太った団子のような丸みの身体を 転がすように、ちょろちょろと伯爵の側をうろついているだけであった。 「はは、シュフェルム様。それではそろそろ貴族達にあいさつに出向かれては如何でしょう。社交辞令も貴 族の嗜みでございます」 「おお、ロッティードよ。たまにはお前も良い事を言うではないか。確かに就任のあいさつがまだであった。 これは伯爵として放っては置けん」 リフレッシュの為、伯爵はロッティードの頭から足を下ろし、即座にシルクハットとステッキを手にして、 貴銭街と呼ばれる区画へと向かったのであった。
伯爵は警備署住いの為に、貴銭街にも屋敷を持っていない。通り一般の貴族では考えられない事ではある が、どうやら見栄をはるのが貴族の商売だとは彼は思っていないようだ。彼はあらゆる意味で常人とはずれ ている。まあ、本当はどちらがずれているのかは解らないが。 警備署はその性質上、郊外近辺にあり、貴銭街には少しばかりの距離がある。 そこで伯爵は馬車を用いる事にした。贅沢品だが、国営の各施設には一つくらいは備え付けられている。 それは主に貴人の移動手段や物資輸送に使われるので、勿論伯爵である彼が乗っても何ら差し支えは無い。 まあ例え差し支えがあったとしても、シュフェルム伯爵は堂々と使っただろうが。 「ふむ、これだ、これだよ、ロッティード。こういう貴族感こそが我輩の求めていたものなのだ」 伯爵は馬車に乗る事でようやく息を吹き返したようだ。心成しか顔色も良くなっているように思える。 「さあ、出発しろ」 「承知つかまつりました」 伯爵の号令でロッティードが手綱を取る。この肉団子も従者としての技術は持ち合わせているようだ。し かし面倒なのか、伯爵から見えない事を良い事にとても不機嫌な顔をしている。精神面は見た目通り甚だ劣 悪従者であるらしい。 ともかくも、伯爵とロッティードは馬車で貴銭街へと向かったのであった。 二頭立てなのでさほどスピードは出ないが、それでも歩きよりは随分速い。窓から眺めれば丁度良いくら いに景色が流れていく。 「これだ、これこそが貴族的風景と言うものだ」 シュフェルム伯爵ご満悦の様子である。進行上の障害物(人間や公共物、その他)を弾く時に生じる揺 れも心地良く感じていたのだった。
人間の肉の匂いは消えたようだ。全身が土臭く、まるで死後の骸になったようにすら感じられる。 「その方が都合が良いけどな」 ロドニーは叢から這い出、器用に木の上に飛び乗り、それから塀を越えた。 その間はあっという間の出来事であり、おそらく近くに人が居ても、気配が横切ったか?くらいにしか感 じ取れなかったであろう。 そして猟犬の唸り声に晒されつつ、縫うように大地を駆けた。 「丁度良い・・・」 メイドらしき少女が窓を開けているのが見える。空気の入れ替えだろうか。それにしても何と下品な衣装 だろう。ロドニーはあんな男に仕えねばならないその少女に少し憐憫の情を持った。 だが、かといってそれで何が起こる訳でも無い。 するすると窓を潜り、あっと言う間に廊下を駆け抜け、華美た家具の後ろへと潜んだ。 この屋敷には不必要なまでにごてごてと物が存在し、身を隠すのには好都合この上無い状況である。それ に庭園部と違い、屋敷内は驚く程に警備が薄い。屋敷の主人がよほど外の警備に自信を持っているのか、そ れとも自らの近くに出来るだけ人を近づけたく無いのか。 おそらくは後者であろう。ロドニーはそう見た。 いや彼女でなくとも多少なりともこの屋敷の主人である、ジークナルドと言う存在を知っていれば、誰で もそっちを取るであろう。何しろ新興勢力だけに公爵などのような歴代の貴族と違って、腹心の部下と言え るような存在がいないのだ。そしてそれを作り上げるだけのノウハウも持ちえていないのが痛い。 彼程度では脅すか金品で人を懐柔するしかあるまい。しかも彼の性格を考えれば、誰も彼に対して心服の 欠片も持つ事は無いだろう。 そう考えるとジークナルドと言う男が哀れにも思えるが、すぐにそれ以上の嫌悪感が込み上げてくる。あ あ言う男は死んでも永劫来世までああなのだろう。そして永遠に満たされないまま生かされる。無意味な永 遠の繰り返す生、それもまた一つの罰であろう。 「さて、奴の私室か、それとも隠し金庫でもあるのか」 両方にある、と言うのが一般的であるだろうか。一般的という事はそれだけ有効と言う意味も含まれる。 ならばジークナルドもそうしているだろう。敢えてそれに逆らう理由も見当たらない。 この屋敷の見取り図程度ならば前に依頼を受ける時にすでに調べあげていた。それを思い出せば、確か奴 の私室は最上階のしかも屋敷の中心にあるはず。 「馬鹿となんとかは高い所を好むと言うが、解りやすい男だ・・・」 ロドニーは手近な位置にある使用人用の階段をするすると上っていった。簡素ではあるが実用的で、何 よりこの階段を使う者は少ない。メイド達は通常の階段を使っていたはずで、話によればここは男の使用人 専用であるらしい。 専用と言えば聴こえは良いが。ようするに男などはジークナルドの視界に必要以上に入ってくるなと、そ う言う事であるだろう。彼の持つ建物の全てはこうした彼個人の感情を元に作られており、実用性や警備の 問題などはまるで念頭より除けられている。 「商才は本物らしいが、ここまでくるとマイナスしか見当たらないな」 ロドニーは心中で苦笑した。 「ともかく、忍びやすいのは好都合」 こうしてロドニーは誰に見られる危険性も無く、無事にジークナルドの私室まで辿り着いたのであった。 後はジークナルドが不在であれば良いのだが、果たしてそこまで上手くいくものかどうか。 ロドニーは気配を絶ちながら静かにその鋭敏な耳へと神経を集中させたのだった。 |